刹那の幸福


 流れゆく京都の光景を横目に、神楽は憲紀と共に歩く。行き交う人々の談話は賑やかであり、普段とは違う日常を感じさせてくれるようだ。休日に京都に戻り、懐かしい景色を眺める。呪術師として忙しい神楽の安寧の時間だった。

 京都の景色がより綺麗に見えるのはきっと、憲紀といるからなのだろう。憲紀と共に歩きながら眺める景色は、一人で歩いている時よりも遥かに彩られて見える。まるで世界が違うかのように、色づいていく。神楽にとって憲紀は、己の世界を彩ってくれる存在だった。
 許嫁と交わす些細なことが、何よりも大切なもの。それは本当に些細なことで、取るに足らないことなのかもしれない。それでも神楽にとっては、長い年月の中で憲紀と交わすものが、かけがえのないものだった。

 そっと憲紀の横顔を窺えば、普段と変わらない表情をしており、その心を悟ることはできない。ただ、その端正な顔立ちに神楽は心を奪われてしまう。単に歩いているだけでも、憲紀は品のある佇まいをしており、厳かながらも気品を感じさせる雰囲気を纏っている。惹かれる心を止めることができないものの、あまり見ていては失礼であると、神楽は視線を前に戻した。
 憲紀の傍にいれば心が穏やかになるはずなのに、今は反対に、一人で落ち着かない思いになる。憲紀の姿も顔も、何度も何度も視界に映しているのに、改めて確かめるだけで高揚してしまう。恋というものは常に未知の感情を引き起こしてくれるものだ。
 切り替えるようにして、神楽は違うことを考える。

(今度は、憲紀と東京の景色が見たいかな……)

 ――憲紀と東京の景色が見たい。美味しい洋菓子のお店に行きたい。それから、星を共に見たい。

 そんな、不確定な願いだけが心の中に積み上がっていく。しかし、約束されてもいない未来のことを考えるだけでも心が弾んだ。
 浮き立つ心に足取りも軽やかになり、空を仰ぐ。澄み渡る青い空を眺めながら、一人、頬を緩ませた。
 その瞬間。

「神楽、危ないよ」

 落とされた言葉と共に、不意に強い力で抱き寄せられ――神楽の身体は、憲紀の胸に受け止められる。まるで抱きしめられるように片腕の中に寄せられ、途端に厚く逞しい胸板に顔を寄せることとなり、神楽の胸が高鳴った。困惑の表情を浮かべつつ前を見やれば、どうやら木に当たりそうになっていたらしい。物思いに耽っていた挙句に空を眺めていたため、全く気がついておらず、呆然とする。

「君は意外と目が離せない」

 冷静な声で言われ、その言葉に心が揺れた。このような状況にも関わらず、嬉しくなってしまう。憲紀は単に、神楽の不注意が招きそうになった行動を助けただけに過ぎないのだろう。しかし神楽にとっては、憲紀のその行動は特別な意味を持つ。自分のことを見てくれているのだと、一方的な解釈をしてしまうのだ。実際に憲紀は、それが例え義務であろうとも、誰よりも神楽のことを見てくれている。その事実に、切ない程に胸が締めつけられていく。

 ほんの少しだけ身を寄せれば、上質な布は彼の香りがした。懐かしくて、心地良い。心が鎮まる、神楽の大好きな香りだ。
 憲紀の腕の中は、不思議な安心感がある。ずっとそうしていてほしいと、思ってしまう程に。憲紀の声も言葉も香りも体温も全て、神楽の心を鎮め、穏やかにさせてくれるもの。
 それでも、ずっとこうしているわけにはいかないと、神楽はそっと離れる。彼に不自然に思われてしまうことは避けたい。離れた温もりが惜しいと、心は憲紀の体温を求めるけれど、それを抑え込んだ。

「歩いている時に前を見ないことは関心しないね。私が言わなければあのまま当たっていた」
「ごめんなさい……気をつけるわ」
「神楽は案外周りを見ていない時がある。もう少し周囲に目を向けるべきだ」

 窘められ、素直に返答をする。しかし、このように窘められることさえ嬉しいと思えてしまうのだから、この心は憲紀から離れられなくなっているのだろう。頬が熱くなっているのは、叱られているからではない。
 ただ、厳格な許嫁にそのことを悟られるわけにはいかないと、神楽は平静を取り繕う。

「憲紀……ありがとう」

 それでも、単なるお礼の言葉には、隠しきれない嬉しさが滲んでしまっていた。彼は真剣に注意をしてくれているのに、嬉しがる素振りを見せてしまっては失礼だ。
 憲紀に気がつかれていなければいいのだけれど、と思いながら、燃え上がりそうになる心の恋情を秘めた。






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