秘めたる恋情
私の世界は、彼がいなければ完成されない。
春の麗らかな日。与えられた休日に一度京都に帰り、憲紀と待ち合わせ、共に景色を眺めていた。高専に入学する前はいつものように見ていた光景も、今は懐かしく感じた。
淡い桃色の花弁が、緩やかな風に揺られて舞う様を、横目に見る。空は澄んだ青からほのかな橙へと移りゆき、黄昏が近づいていることを示していた。
ゆっくりと足を進めながら、忙しなく視線を動かしては、流れていく風景を心に刻んだ。
「神楽、歩きながら見回すことは良くないよ」
「あ……ごめんなさい。久々だったから、懐かしかったの」
柔らかく、けれど窘めるように言われ、視線を前に戻す。ちょうど休日が合ったとはいえ、貴重な休日に付き合って頂くことは憲紀の邪魔になるのではないのかと躊躇いもしたが、今回は付き合って下さることになり、今は二人並んで歩いている。
並びながら他愛もない会話を交えることも、久々だ。憲紀は私の話を聞いて下さり、返答を下さる。それだけでもとても嬉しかった。
「いつにも増して嬉しそうだね」
「憲紀と見回ることができたから……忙しいのに、付き合って下さってありがとう」
「構わないよ。私も久しぶりに寛ぐことができた」
その言葉に、温かい思いになる。普段は勉強に励んでいる彼の休息になれば良いと思ってはいたけれど、寛げたのであれば嬉しい。
今は通っている高専の関係上で離れてしまっているものの、それ以上に傍で見てきたため、彼のことは分かっているつもりだ。憲紀は克己的だから、常に自分を高めようとしているに違いない。自身の実力を示そうとする中でも、加茂家の人間としての在り方も考えているのだろう。憲紀のその姿勢を純粋に尊敬している。私も励まなくてはならない、と思わされるのだ。
普段から厳格ではあるけれど、彼のそういう所も、私は好きだった。
(……憲紀の傍、やはり安心する)
どのような時であれ、憲紀の傍は心地が良いと感じられる。
(……けれど)
不意に。足を止めてしまう。日が暮れている。もうすぐ東京に帰らなければいけない。いや、それは良い。ただ。
(……遠い……)
引き止めようとして、それはできず。先程まではあんなに温かい思いに溢れていたのに、今は心が切なさを覚えていた。
遠ざかっていく憲紀の背を、ただただ見つめる。夕暮れの光に照らされたその背が橙に染まり、私の視界を埋めていく。広がる綺麗な景色よりも、今は憲紀の姿の方が、鮮明に見えた。
その背は頼もしくて、立派になったことを誇らしく思うのに、どこか離されてしまっている感じさえする。手を伸ばしても届かないような感じがする。許嫁なのに、許嫁だからこそ、距離を感じてしまう。これは高専が離れているからという単純な理由ではなくて――。
「神楽。何をしている」
憲紀は立ち尽くした私の方を向き、声をかける。
「神楽」
反応が遅れて何も返せずにいれば、今度は強く名を呼ばれた。こちらに来るんだ、と言うように。ただそれだけなのに、心が強く反応を示す。
その声で名を呼ばれることが、大好きだった。恋しくてたまらない。私の名を呼んで下さる声が、好きで好きで、どうしようもない程に。何よりも、大好きだった。
「……今行く、わ」
甘い痛みを覚える心をそのままに、憲紀の傍に寄る。
「私から離れてはいけない」
続けて「さっきもはぐれそうになっただろう」と指摘され、頷いた。咎めるような響きは少し厳しさを感じさせるのに、私にとっては聞き慣れた心地の良いもの。大好きな声が当たり前のように傍に在ることが何よりも嬉しいと思える反面、切なさは募っていく。
「ごめんなさい。……憲紀が立派になったものだから、置いて行かれてしまいそうで……つい、立ち尽くしてしまったの」
立ち止まったまま話せば、その言葉を聞いた憲紀は変わらぬ表情で私の方を見た。柔らかなようで、どこか冷たい風が私達の間を吹き抜けていく。
憲紀は呪術師としても、加茂家の次代当主を背負う嫡男としても、立派になっている。
「……私、離されてしまいそうだわ」
落としたものは小さく、静かな周囲に溶けていく。加茂家の嫡男の許嫁という立場は、私の使命のようなもの。しかし立派になった憲紀のことを見ていると、私は相応の者になれているのかが、分からなくなってしまう。
周囲には届かない微かな言葉を、憲紀が「その心配はない」と掬いあげて下さる。
「私達は許嫁だ」
言葉に、心が揺れた。憲紀の表情は至って普段と変わらない。憲紀にとっては当然のことを言ったまでなのだろうけれど、その言葉は私の心に深く深く落ちていく。私がどれだけ憲紀の存在を遠く感じても、離されてしまいそうと思っても、私が憲紀に見合う者になれていなくても。許嫁という確固たる契りがある限り、離れられるものではない。
だから、義務であると思っていたこの関係に、縋ってしまう。許嫁という義務を見直そうとして、自立をしようと、縋ってはいけないと、そのように思ったから一時的に離れたのに、私の心はいつまでも、憲紀に囚われたまま。私の心が在る場所が、憲紀の元だから。
心が締めつけられる感覚を受け止めながら短い返答をし、前を向いて歩き始めた。
隣に並んで歩くだけで、こんなにも切なくなって、こんなに幸せを感じられるなど、知らなかった。この幸せが、少し怖いと思ってしまう程に。加茂家に差し出される存在であった私は、きっと相手が憲紀ではなければ、こんな幸せを知ることもなかったのだろう。こんな、恋も。
ただ、許嫁という関係に個人の想いなど必要ない。家同士で決められた契約ゆえに、想いを交わす理由もなかった。憲紀が私自身のことをどのように思っているのかも、分からない。距離は近いように思えるのに、契りによって決められたそれはどこか踏み込めないものでもあった。
(けれど……憲紀の傍にいられるのならば)
憲紀に同じ想いを求めることは違う。私はただ、傍にいられるだけで良い。義務でも使命でも何でもいい。他の誰でもなく、憲紀の傍にいられるのならば。憲紀でなければいけない。今やそのように思ってしまう程に、この義務は恋の情を宿していった。
私も憲紀も呪術師だから、この一時が永遠ではないことは分かっている。いつか終わってしまうことも、分かっている。けれどだからこそ、このかけがえのない愛おしい一時を少しでも長く感じていたくて、終わらせたくないと思ってしまう。憲紀に告げたら、我儘だと窘められてしまうかな。
許嫁という関係に甘えてしまうことを、どうか許して。
「……憲紀、」
――大好きよ。
この言葉が、憲紀の枷にならないように、紡げないけれど。名を呼べば、少しだけ私の方に顔を向けてくれた憲紀の横顔に、心の中で秘めた想いを告げる。それが伝わらなくてもいい。憲紀を想う際に、私は私でいられるのだから。
どれだけ季節が変わっても、どれだけの季節を重ねても、ずっと傍に在る存在。離れていても、そこに在る存在。強い楔で繋がれた関係は、放せるものではない。
だからこそ。私の世界は、憲紀がいることで、完成される。
Back / TOP