神との邂逅
神域。
熱く、燃え盛る太陽のように、厳かで、重く。濃紺の空に、月と星は陰ることなく煌いている一方で、地と岩は燃ゆる地。生命の気配を感じさせない空気は、どこか神秘が秘められているようでもあった。
――煌黒龍アルバトリオン。
神をも恐れさせる、禁忌の古龍。
神域にて娘は、″破壊の象徴≠ニ相対す。
闇を喜び、灼熱に身を焦がし、燃え輝く。煌々とした星のような存在が、娘の前に降り立つ。焔迸る地にその脚を降ろした煌黒龍は、途端、その身の色を変えていく。炎から氷へ――染めるかのように、鱗の内側から溢れる色を変化させれば、先程とは印象の違う姿に変わる。それは寒々とし、冷気迸る、光を拒む存在。夜明けを退けるような、闇の星。
熱気、冷気――正反対の温度が、この地を染めていく。火の粉が降り注ぎ、燃え滾るかのような火山の地帯にも関わらず、煌黒龍が前脚を浮かせながら氷の吐息を天に向けて放った直後、この火山の地は凍えそうな程の冷えた世界と化した。
――煌黒龍の周囲から、空気を変えられていく。
それは、まるで、煌黒龍が、この地の全てを、創っているかのように。煌黒龍が創る世界を、示しているかのように。
空間の色を悉《ことごと》く変え、異なる天災を引き起こす。これが禁忌たる所以であるのだと、娘は一瞬で解することができた。
神の領域を侵す者は、決して戻らぬとされていた。しかし実際は、この地が神の領域なのではない。この地帯にて多発する天災と、この地域に入った飛行船が悉く墜落することから、そのように呼ばれるようになっただけ。
煌黒龍の存在を以てして、この地は“神域”と成るのだ――。
地には炎が溶岩のように湧き、空からは氷柱が落ちてくる様は、この世のものとは思えない光景だ。まるで終焉。感覚すら、奪われていくかのよう。
再び地に前脚をつけた煌黒龍はたちまち、身から溢れる色を紫へと変化させる。瑠璃の鱗が光を受けて静かな煌めきを放つ。炎とも、氷とも、水とも雷とも違う強大なエネルギーは、龍の象徴だ。
そして――煌黒龍は、娘の方を向く。
瞬間、言葉を、失った。
“煌黒龍”という名を与えられたその存在は、他の古龍とは異なる様相を呈する。人知を超えており、言葉では形容することなどできないものだった。
天を統べ、天を貫く、一対の角。無数の角が重なり形作られた巨大な角は、正に天を貫かんとばかりに空を仰いでいる。
天に逆らうかのような、刃の如き逆鱗。その逆鱗が幾多も重なり合い形になった逆殻。鋭く発達した凶悪な爪。夢幻に誘われそうな程の妖気を帯びる強靭な太い尾。その全身を包み込む巨大な翼は、闇を宿すようにも、光を浴びたようにも見え、まるで時空を切り裂いてしまいそうな程に鋭い。
総ての、逆立つ鱗――逆鱗は、内側から浸透するように仄かな光を溢れさせ、静かに煌めいていた。
鱗から溢れる光は、内側にある属性のエネルギーが溢れ出したものなのだろうか。外側に溢れ、逆鱗を通しながら輝きを放つエネルギーの力は計り知れず、どこか不安定な揺らめきを見せる。全ての属性エネルギーを内包したその身から溢れる輝きは、禍々しくも神々しい。
翠玉のような瞳に睥睨され、凍えたかのように身が強張る。動くことすら許されぬ威圧に、全身を震わせた。
鋭い牙を添えた口元から鐘のような音が響き、静謐な周囲に重く深く、反響をする。およそ生物とは思えない程の、高い鐘の音が、心に刻まれて離れない。
対面するだけでも、圧倒的な力を感じさせる存在。同じ場に存在するだけで重圧が伸し掛かり、自ずと心音が早くなる。全身の肌が戦慄き、逃れたいと叫んでいた。しかし、一度捕らえられてしまえば、逃れることなどできないのだと、それは全身を縛る鎖のように。
全ての生命を脅かし、全ての属性を内に秘めた、宵闇の星――“龍”。
恐ろしい。同じ生物であるとは到底思えない。しかし、禍々しい反面で、神々しさすらをも感じさせる風貌に、娘は心を奪われていた。まるで闇夜に一つだけ煌く星のような存在感を、眼前の生物は放っている。
煌黒龍の姿は異形と示す他ない。それなのに、神聖であるとすら、思ってしまう。
紛う方無き、“神”の形相――。
「……煌黒龍、様……?」
呼ぶことさえはばかられるその名を口にした娘の声は、震えていた。破壊の象徴たる存在を前に、思考など封じられてしまう。言葉を解さない生物に尋ねてしまう程に、娘は冷静な判断力を失っていた。
彼女を見据える黒き星は、まるで娘のことを認めたかのようにして、甲高い声を上げる。それは無機質で、冷酷な音。生物が発する声としては、あまりにも異端だ。
しかし娘は、その声に、心を囚われた。煌黒龍は、ただ己の前にいる矮小な生命を退けようと、警戒の鐘を鳴らしただけに過ぎないのだろう。それでも娘には、煌黒龍が己の声に、言葉に、応えてくれたかのように思え、唇が震えた。
その瞬間、娘の世界は、煌黒龍という存在に、作り替えられていく。
――ああ……なんと恐ろしいのでしょう。けれど、煌黒龍様は……わたくしの声に、応えてくださったのだわ……。
畏怖も、焦燥も、全てが呑み込まれていく。煌黒龍だけが己の世界の全てであると、そのように認識をし始め、胸の前で固く手を握り締めた。星に願うかのように瞼を伏せれば、闇に染まる視界の中に、煌黒龍の姿だけが映る。それは娘の心を象徴させるものだった。
赤き光が娘の輪郭をなぞるように照らし、花嫁の如き黒き衣装を炎に染めていく。肌に触れる火の粉も氷の結晶も、本来であれば恐れるものである筈なのに、今の娘はそれを心地良いとすら思っている。
娘は、禁忌に踏み込んではならないという道理に反するどころか、禁忌と呼ばれる対象に心を奪われる罪を重ねてしまったのだ。心の内で渦巻く感情は全て煌黒龍に向けられ、周囲の炎《ほむら》のように迸る。
触れてはならぬ、触れてはならぬ。そう、祖国で何度も言い聞かせられたのに。この世には深入りしてはいけないものがある。その象徴こそが煌黒龍なのであると、王にも民にも、あれ程までに注意されていたのに。
恐れ知らずの娘は、煌黒龍という存在と邂逅し、初めて、畏怖を、焦燥を、信仰を、――恋情を、抱いた。
見る者によって違《たが》う姿を見せる龍は、見る者の心によって、悪魔にも神にも見えるのだと。世に知らしめるかのように。
そして、娘は再び瞳を開いた。
視界の中に映る龍を、捉えて。
「煌黒龍様……」
――煌黒龍様に、わたくしの全てを捧げさせてください。
告げられた一言は、煌黒龍に届いているのかなど分からぬのに。愚かにも娘は放ち、煌黒龍の傍に歩み寄る。
その身の全てを、心を、魂を、捧げるように、煌黒龍に対して、華奢な手を伸ばす。敵意を示す以前に己のことを敬うような娘の行動に、煌黒龍は己の下にいる娘に視線を向けるだけで、その身を動かさない。
身を逆鱗で覆う煌黒龍に触れてしまえば、刃を受けるかのように刻まれてしまうのにも関わらず、娘は煌黒龍に触れようとする。その行動は娘の誓いであった。恐れ敬う煌黒龍に、全てを捧げるという誓い。
しかし、人の身よりもはるかに巨大な体躯を持つ煌黒龍には、手を伸ばしても届かず。娘の手は煌黒龍の顔の前で止まってしまう。だからこそ、煌黒龍に向ける眼差しで、己の想いを伝えようとする。
娘が煌黒龍に抱いた感情は、愚かなまでに純粋だった。小さな身に留めておくには、重すぎるもの。無垢なる恋情、穢れなき崇拝の情、畏怖の念――交わるそれは、煌黒龍に心酔してしまったことを、示していた。
「――煌黒龍アルバトリオン様」
身も、心も、名すらをも。己の全てを、煌黒龍に。
そうして娘は恍惚とした表情をしながら笑む。花が綻ぶような麗しい笑みは、恋を秘めた少女のようだった。その瞳の中に、黒い輝きだけを宿しながら。
神聖な衣装に施された装飾が煌き、闇の中へと溶けていく。纏うヴェールの中に収まった、地に届きそうな程の長い髪が緩やかに揺らめいた。
煌黒龍の炯々とした瞳が、娘を捉える。そのことを確認した娘はより一層と笑みを深め、心を震わせ、果ての無き深淵へと誘われていく。
この存在――煌黒龍を知ってしまえば、もう戻れぬのだと、全身が語る。それでもいい。この身と心は、煌黒龍のものなのだから。
終焉を象るかのような、荘厳な鐘の音が殷々と鳴る。この神域にて、禁忌の龍と邂逅した娘を迎えるかのように。
心を闇に染める、漆黒の光。
その闇の中、娘は“神”を見る。
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