心の底から楽しいって笑えるものに、生き甲斐だって胸を張れるものに、巡り逢いたいと思っていた。それは——昔も今も、ずっとずっと。
 それを見つけられる保障なんてない。ほんとに俺にそんなものがあるのかすら分からない。
 だけど苦しんで傷ついて立ち止まって言い訳をして目を背けて逃げて、みっともなく泣き喚いて諦めたくなって。
 そしてようやく、ほんの少しだけその楽しくて生き甲斐だと胸を張れるモノ≠ノ指先が触れたような気がした、高校三年生の春。

 もう逃げない、なんてカッコつけても弱い俺はまたすぐに目を背けたくなるだろうから。
 弱くてもいい、カッコ悪くあがけばいい、みっともなく泣けばいい、たまには逃げたっていい。迷ったら誰かに頼ればいい。
 そう教えてくれた人たちの前で今日、俺はその指先にようやくつかんだ内の大切な欠片のひとつ——名前という最愛の相手と一緒に永遠の愛を誓いあう。

 だから、どうしても掴もう。名前との過去も、現在も未来も、すべてを……もう二度と、失わないために——。





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 結婚式前日。日中のうちに翌日の式のため髪の毛を染め直すとか何とかで美容院と新しいネイルを施してきたらしい名前が無事、帰宅した。

 帰宅するや否や、まだ昼過ぎだっていうのにも関わらずやれ肌の手入れ、やれ浮腫み対策、デジカメの充電……などなど。あとは式の当日、披露宴を行うホテルの最上階で宿泊をする予定になっていた俺たちの持ち物の最終確認やらと、それになぜか付き合わされた挙句、終いには俺の晩飯はもはや味のない卵スープ(浮腫み対策らしい)に五穀米ときたもんだ。添えられたおかずも何だかマジで味がしなくて、どんなものを出されたのかさえも今では忘れてしまったほどだ。
 まあいい。新婦にとっては一生に一度、お姫様になれる日らしいから、これくらい、付き合ってやらぁ。


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 結婚式当日——朝は顔が浮腫みやすいとかで、早朝四時には起きて準備をしていた彼女の物音に起こされて、呆れを通り越して逆に女ってすげえなって感心してしまった。
 本来新婦は、新郎よりも早めに式場に向かうらしい。だが結局、式場まで送り届けるのは新郎、俺の役目であったから何度も行き来するのは手間だよなって事で俺も新婦に合わせて早めに式場に入った。眠すぎて俺なんかは準備の途中、もはや普通に仮眠していた。

 式の準備中、自分の衣装に関しては女子だけで決めたいとの意向で新婦側の衣装はこの度なぜか一番張り切っていた俺の母親と彼女の二人で選んでしまったため全ての衣装を確認したのは前撮りのとき、式の少し前の吉日の日のことだった。
 俺の両親の計らいで「式は盛大にやれ!」と、ありがたくそれを受け入れた俺たち。そんな俺の衣装はと言えば前撮り用に彼女の白無垢に合わせた黒い紋付袴と披露宴用には新婦の色打掛に合わせたまた違う色の袴。挙式用のタキシード、お色直しの際に着替える、もう一着のタキシードの計四着を着る羽目になり、その話をぽろっと職場、湘北高校の職員室で漏らしたときには花嫁と同じくらいのボリューム感だ、と笑われたのは記憶に新しい。
 それでも、新婦役の彼女が楽しそうにして俺の衣装を選んでいる姿は、悪いもんでもなかった。
「これも似合いそう」「寿、顔だけはいいから」「寿は背が高いから…(以下、省略)」と式場の衣装担当のスタッフと話している姿が微笑ましかったし何よりこの世で一番好きな相手から仕立ててもらえて嫌な気分になる奴などこの世にはどこにもいないだろうと思う。

 現に俺もそうだった。はじめこそ、若干めんどくせえなあ……という気持ちがないとは言い切れない状態で午前九時に予約していた式場に彼女と一緒に向かった衣装合わせの日。
 まあ、朝起きれなくてギリギリで到着した事で彼女と険悪なムードになりかけたりもしながら、こうして俺の人生において、歴史上初の結婚式の衣装選びをしたってわけだ。
 でも結局のところ最終的には、彼女とスタッフが見立てた以上の量を試着したってオチが待っている。なんだかんだ文句を垂れながらも俺自身、楽しんでたってことだな。
「花嫁さんより多く試着してますよ〜」なんて、ジョークで言ったスタッフの言葉があながち間違っていなかったので、苦笑いしか返せなかった。

 前撮りは二種の和装とお色直しの時に着るカラードレスとタキシードでの撮影だったため、挙式後にウエディングドレスを着た彼女と写真を撮ることになっていた。なので俺はまだ今この段階でも、その純白天使の姿を見れていない状況。
「どれが好み?」なんて、カタログを毎晩広げてきた彼女と仕方なく一緒に選んだのにも関わらず実際の試着もその後も、結局着た姿を見せてもらえなかったし最終チェックはさっき言った通り、なぜか俺のお袋と終わらせてきやがったし。
 どれがいいなんて聞いておきながらどれにしたのかと問えば、恥ずかしいとか何とか言って頑なに教えてくれなかった彼女に俺も諦めて今日この瞬間を密かに楽しみにしていた。
 ……とか言いつつ、俺が試着をしに来たとき、横並びに飾られているウエディングドレスの量を見て冗談抜きに「これ全部同じなんじゃねーのか」と世の男性が言いそうな王道台詞を漏らした俺にスタッフは「新郎様は皆様そう仰られます」と言って隣にいた彼女は「これだから男は……」と、これまた王道の返しをしてきた。

 そんなこんなで、いま俺たちは、親族や世話になった、安西先生を含むお偉いさん方や仲の良い友人だけに参列をお願いした、挙式の準備をしている真っ最中だ。
 最後まで、どのウエディングドレスにしたかを教えてくれなかった花嫁。俺が密かに今日一日のプログラムの中で一番楽しみにしていたと言っても過言ではない彼女の純白のウエディングドレス姿、それを拝めるのは結局、本日この挙式の時となってしまった。まぁいいか。どうせあいつならどんなドレスを着たって、もはや素っ裸だったとしても綺麗だろうから。


 —


 新郎専用のメイク室にてタキシードの着付けをしてもらい、というかほぼ自分で着たけど。次に髪の毛をセットしてもらう際には「自分でやられますか?」と聞かれた。任せて変になってもなぁと思いつつじゃあ自分は普段どんなセットをしてたっけ?と思い返してみれば最近ではもはやワックスすらつけていないことを思い出す。

 そう言えば名前と復縁してからというもの、一緒に出かける時だけはたまにワックスを付けて、ちゃちゃっとセットするくらいだったな、と思い「いや、お願いします」と言って結局プロに任せたら、そこはさすがプロ。清潔感をベース持ってきているようだが、それでも微妙なアクセントを付けたくらいにして、んでもって自然体な感じも残しつつ……そうしてセット後、鏡に映った自分に思わず「男前だなァ」って呟いたら、そこにいたスタッフ全員が笑ってくれた。よし、つかみはバッチリだ。
 そのとき、しれっと入って来た他のスタッフが「まもなく花嫁様のメイクが整います」と、他のスタッフに言っている声が聞こえてきて、椅子に座ったままチラッとそのスタッフを見やった俺に俺のメイクをしていたスタッフから「花嫁様とてもお綺麗でしたよ〜」なんて、当たり前のことを笑顔で報告された。

「昔から綺麗なんですよ、俺の花嫁」

 そう淡々と言ってのけたら、またなぜか笑いが起こったが、いや待て、いまのはネタじゃねえ。本音だ、まじめの、本気のやつ!と突っ込みそうになる気持ちを抑えて押し黙った。
 あー早く見てえな。来んな!って釘刺されてたけど……あー、見たい。見てえ。だってよ、予行練習必要じゃねえか?突然、ウエディングドレス姿の名前が現れてみろよ、俺、心臓止まるかも知れねえし。
 と、そう言えば今と同じ台詞を最後の衣装打ち合わせに「やっぱり俺も行く」という言葉と共に添えたら「死ぬ前に保険とか、しっかりね。あと遺書」と、平然とサラッと返されて、結構の力でデコピンをしてやったら次の日まで彼女のデコがほんのり赤くなっていたのには笑ったな。
 そのあと、冷蔵後にあった使用期限切れの冷えピタを貼ってやったら、あいつはプンスカ文句を言いながらも素直にそのまましばらくそれを貼っていて、その姿にも大笑いした。

 あいつといると、俺ずっと笑ってんだよなあ。特にボキャブラリーが豊富っつーわけでもねえのに、って言うと怒られるから言わねえけど。
 高校時代、久しぶりに会った彼女は、たしかに綺麗になってた。可愛くなったなーって、素直に思った。
 いまでもそう思う気持ちに変わりはないけど、最近はなんつーかもう存在が可愛いよなって感じだ。顔とか容姿がどうっていうより、なんかもう名字名前≠チていう存在自体がもう、とにかく愛くるしい。
 まあ、もうすぐ名字名前から三井名前になるんだけどな。三井……名前、だってよ。……まさかだよな、本当に結婚しちまったぜ、俺たち……。

 思わず鏡の前で、思い出し笑いをして鼻を鳴らしてしまった俺はそれを誤魔化すようにゴホン!と咳払いをしてすくっと椅子から立ち上がった。

「あー、トイレ……行ってもいいすか?」

「どうぞ」と笑顔で返されて部屋を出てトイレに向かいながら式場のスタッフは便所に行く許可でさえも笑顔で応えなきゃなんねえのかよって思ったらこりゃすげえ仕事なんだなと改めて思った。
 接客のスペシャリストとはまさにこのこと……なんて心の中でつぶやき便所を済ませて出た先でキャッキャと何やら騒いでいる女性群の声が響く部屋に目がいく。
 ——待て待て、これ……名前の、声じゃねえか!?どうする、これ。どーするよ、俺!!……行くよな?つか、行くって選択肢しかねえよな?

 もう、俺には
 リングと名前しか、見えねえ——!!



 —


 豪快に開け放たれている扉の入口まで近づいて行き、そっと中を覗いてみれば俺の控え室なんかより何倍もでかい部屋で、開けっぱなしになっているカーテンの外、大きな窓からは雲ひとつない晴れた秋空が望めた。
 呆然と立ち尽くしていた俺の姿に気付いた中のスタッフが「花婿様!」と声をあげた事でその場にいた花嫁以外の全員がこちらに視線を向ける。一気に視線を総なめした俺は、一瞬たじろいで、だらしなく「げっ」と効果音を放つ勢いでオーバーリアクションをかまし、身を引く。たがすぐに背筋を伸ばして隙のない動作で中に入った。

 女性スタッフらの「わあ〜花婿様」や「準備できたんですねぇ〜」とかいう甲高い声が飛び交う裏側にはきっと、「かっこよくキメて来た」や「男前に仕上がって」という言葉が隠されているんだろうと思わせるその声色に、なんだか照れてしまう。
 それを聞き捨て花嫁の真横に立った時、座ったままでゆっくりと俺を見上げた彼女の姿には冗談抜きに心臓が止まりかけた。いや数秒間くらいはマジで止まったかもしれない。
 いつもよりも少し濃いめのメイク。厚化粧とかそんなんじゃなくて、本当にモデルみたいなその施しにさすがプロ!と再度感心したあと、やっぱこいつ綺麗だよなぁ、と感慨深くなってしまう。語彙力が乏しくなるほどに、本当にどこかの国のお姫様みたいだ。
 口をポカンと開けて見惚れている俺をよそに、彼女はすっと鏡に顔を向き直して、照れたようにぽつりとつぶやく。

「式の前に花嫁姿見ると、縁起悪いんだよ…?」

 今、目の前にいるこの女神が声を発したのか?と、柄にもなく思った俺は、言葉を詰まらせ何も言い返せないでいた。
 ——頼む、もうなにも喋んな。全部ひとり占めしてえ……と、独占欲が剥き出しになってしまうその眩い姿に俺は、無意識に先ほどちゃんとセットしてもらったばかりの髪の毛、自身の後頭部に片手を添えて斜め上を見やる。
 え……ど、どうすっかな……。言葉もねえとはまさにこのことだぜ。

 今度は後頭部に当てていたその手を口元に持ってきて口を覆い隠すような仕草をした俺に背後にいたスタッフが、「お綺麗ですよね〜」と言ってきたことで、ゆっくりとそのスタッフを見やればまた他のスタッフが姿勢よく、スンと突っ立ったまま「モデルさんみたいですぅ〜」なんて笑顔で言う。
 完全に挙動不審な花婿を、見て見ぬふりをしたスタッフが突如どこかの国の神話を語り出した。

「イギリスの迷信ですよね、花婿様が結婚式直前までに花嫁様のドレス姿を見ると、縁起が悪いという……」

 こいつらクローン人間か?とでも言いたくなるほど、そんな話をしている最中でも笑顔を絶やさないスタッフたち。
 その神話に先に反応したのは彼女で「ほら〜」と今度はいつものごとくヘラッと笑って俺を見たその表情で我に返り、ようやく固まっていた俺の身体が自由に動くようになった。

「……、ええ?」
「だから見せたくないって言ったのっ」
「……はあ?お前イギリス人じゃねえだろうが」
「なにぃ〜?」
「純日本人だ、どっからどう見ても」

 俺も、いつもの調子を取り戻して軽口を叩く。ギロッと俺を睨み上げる彼女に目を細めて視線を合わせると今度は途端に照れたようにすっと視線を自分の足元あたりに落とし込んだ花嫁。
 その姿にたまらず俺は少し屈んで彼女の座っていた椅子の背に軽く手を添え至近距離で呟いた。

「名前のその姿が縁起物だから、迷信なんてどーでもいいだろ」

 言ってそのまま以前デコピンして赤く染めさせてしまった彼女の額にチュッと軽く唇を這わせた。実はその姿が、背後にいたカメラマンの一眼レフにしっかりと収められていて、披露宴最後のムービーで使われた事を知ったのは結婚式が終わった後の二次会のとき。みんなが口を揃えて、あの写真が一番良かったと話題にあがるのは、もう少し先の話だ。

 額から唇を離して周りに聞こえないよう彼女の耳元で「綺麗だ」と囁いた俺の言葉に、意外にも無反応だった花嫁様。
 そのまま俺が姿勢を正すとややあってから彼女がフッときれいに笑って返してくれたその笑顔。それが今では、俺の携帯の待ち受け画面になっているのも、もう少し先の話——。

「ほんと、この世の中の誰よりも一番綺麗だな」

 真面目腐ってぽろりと漏れた俺の言葉にも周りのスタッフが、「本当にお姫様みたいですよね」なんて、ちゃんと伝え返しをしてくれる。

「いや、ほんと。お姫様みたいだぜ?」
「やめてってば……わかったって!」
「いや、真面目に。冗談抜きによ、ほんと」
「………っ」
「——天使、もしくは女神か?」
「あのねえ……っ」

 俺も無意識に次から次へとよくこんなこっ恥ずかしい言葉が出て来るもんだなと自分でも若干、唖然とはするが、ポンポン勝手に口を衝いて出てきてしまうのだから抑えようがない。

「あ!つか、オーディション受けてみろよ?多分受か——」
「ひさし!!」

 俺の言葉を遮るように名を叫び彼女はまたこちらを見上げ首を小さく横に何度も振り焦燥を明らかにして俺に訴えるその目は真剣だ。
 そんな花嫁様の真っ赤になった顔にウエディングドレスの白とその赤い顔がまるで紅白そのものじゃねーかって思ったら「ほんっと、縁起物」と思わず憎まれ口をたたいてしまう。
 ニヤニヤと新妻を舐め回すように見ている俺をその新妻は「ほんとにもうっ!」と赤面したまま呆れ返っていた。

「もう……あっち行ってくれない?」

 ついに、バサッとそう吐き捨てられてしまう。そんな俺らの夫婦漫才を見ていたスタッフらが、背後で楽し気に笑っていた。
 はいはい、と俺が、適当に返事を返して彼女に背を向け扉のほうに歩き出したとき「あっ!!」と彼女が大声を発した。
「あ?」と言って俺が振り返れば白い手袋をつけた彼女の細い腕が「ちょっとちょっと」と、俺を手招きしている。

「なんだよ?」

 また花嫁の真横に戻ってそう聞き返せば「耳貸して」と言って再度小さく彼女は手招きをした。「あん?」とスタッフらの方に顔を向けながら、片耳を寄せたとき——

「ひさしも、かっこいいよ。」

 なんて囁かれて、ぐっと言葉を詰まらせ一気に赤面した俺のツラが後ろに並んでるスタッフたちに大公開されちまったわけだが……。
「オイっ!」と言って俺が顔を離せば、彼女は「ん?」とでも言いたげに、とぼけた顔をしてみせる。

「食、……」
「え?」

 ——あっ、ぶねェ……!いま、最近の俺の口癖「食っちまうぞ」ってガチで言いそうになったぜ

「……、なんでもねえよ」

 小さく呟いてぷいっと顔を背けた俺の真下からからからと笑う彼女の笑い声が聞こえてきて天使じゃなくてやっぱり悪魔じゃねぇのかって言ってやりたかったが、さすがにそこは口を噤んだ。
 あーあ……ったく。好きすぎて、しんどいぜ。

 彼女のウエディングドレスを着た姿を挙式前に見てしまった事がよかったのか悪かったのかは、結局のところ分からない。
 だって、なんだか式前にどっと疲れたし、今の数分だけで五歳くらいは老けた気がする。
 まあいいか、今日は名前のその綺麗な晴れ姿に免じて……許してやるよ。


 失敗するかもしれない恐さと、向き合う勇気が常にあった——。けれどその向き合う勇気≠無くしてしまった大学時代。

 でも今は、それに打ち勝つ無限の可能性だってあるんだ。
 だってほら、おまえはこんなにも簡単に笑ってくれるのに。俺は何を怖がっていたんだろう。

 名前と一緒に歩む未来を諦めなきゃいけない理由なんて、いまの俺には、もうひとつもないんだよな——。

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