——ガラガラー。……
「いやっしゃーい……、あれ? よっ。」
入り口の扉を遠慮がちに開けるや否や、水戸くんがいつもの柔らかい笑みを投げ掛けてくれた。
「うん。こんばんはぁ……」
私はペコッと頭をさげて静かに扉を閉めた。そのまま水戸くんのいるカウンターの真ん前、カウンター席の椅子を引いて腰を下ろす。
「みっちーも来るんだよな?」
「うん……、もうすぐ練習終わると思う」
「そっか」
「さっきまで花道もいたんだけどなー」と言いながら、当たり前にビールサーバーから、グラスにビールを注いでくれる。
カウンター越しにそのグラスを目の前のテーブルに置かれたとき、一応水戸くんのほうから「飲むだろ?」と聞かれ私はコクンとうなずいた。そのあとすぐにお通しを出してくれた水戸くんを見据えて言った。
「混んでる? ちょっと……相談に乗ってもらいたくて……」
私が言いにくそうに投げ掛ければ、水戸くんは、きょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「今日はさ……、ふたりで回してるから大丈夫。どーした?」
見れば、カウンターの中に水戸くんのおじさんがいて、こちらを一瞥したので、反射的にペコッと頭をさげた。目元が水戸くんとそっくりな、水戸くんのおじさんに笑顔で会釈を返される。
水戸くんは、カウンターの中に置いてある椅子に腰を下ろして自分の飲んでいたグラスに口をつけた。水戸くんと視線が同じ高さにになる。
「うん……、あのね、これ……。」
言って私は膝の上に乗せた自身の小ぶりな鞄からある物を取り出して水戸くんへと差し出す。不思議そうにもそれを手に取った水戸くんが少し首をかしげてその手にした代物を凝視している。
「……K.Fujima、……?」
水戸くんはしっかりと読み上げてから、私のほうに視線を戻した。
「うん……。やっぱそう、書いてるよね?」
「……」
水戸くんは無言で、一度受け取った万年筆を私へと差し戻した。私もそれを受け取ってまた鞄へとしまい込む。ややあって、私から重い口を開く。
「このあいだ、寿とクルージング……行ったの」
「へえ。うん?」
「偶然、船内で藤真さんとばったり会って……」
「………」
「それで、帰り際ね? 船を待つ、待ち合い室のトイレの前で……」
「拾った。」
「え?」
私が反射的に顔をあげれば水戸くんが「だろ?」と得意げに言う。私は観念したようにひとつ溜め息をついてから、コクンと頭を縦に一度振った。
「高そうな、万年筆だったからさ……受け付けに持っていこうと思ったんだけど……」
「……みっちーに、気付かれそうで?」
「あ、うん。そう……。」
「焦ってそのまま持って帰ってきた、と。」
「まあ……そんなとこ、デス。」
水戸くんは「ふーん」と相づちを打って、自身のグラスに口をつける。
「どーすんだ?」
私が水戸くんを見やれば「それ。」と私の鞄に顎をくいっとを向ける水戸くん。
「ねえー。どうしようかね……。」
「相手の連絡先は?」
「うん、電話してみた。でも、もう……使われてなかったの、電話番号」
「へえ、そっかそっか。」
水戸くんはとくに悩んでいるような様子もなにか考えている様子もなかったけど、刹那「あ。」と言った。
「宮城さんは?」
「それも考えたけど、なんか……大事になりそうでさ」
「ハハ、確かに。じゃあ、みっちーに相談してみれば?」
「言えないよ!……喧嘩、しちゃったもん。その日の、帰り際……」
「だろーね。だと思ったよ」
水戸くんをジト目で見れば水戸くんはハハハと、浅く笑っていた。
「そんな気になるなら、返しに行けばいーんじゃねえの?」
「……え?」
「捨てられないんだろ?お人好し精神で」
「………」
「奴のいそうなとこ行ってみるとか、やれるだけのことをして、ダメなら堂々と捨てる」
「……いそうな、とこかあ……」
水戸くんは「捨てられないなら俺が最後は預かっておいてもいいぜ」なんて軽い口調で言い放つ。
「えー、じゃあ……いま預かってよー」
「なんでだよ、出来る限りのことやってみな?」
「ええー……」
「拾ったのは、名前さん。」
「うぅ……」
「捨てられないのも、名前さんだ」
水戸くんの正論すぎる正論に、私は、ぐっと押し黙ってしまう。
「モヤモヤして、みっちーとこじれるくらいならさ、自分の行動には責任持たないとな。」
「………そう、だよねぇ?」
「納得するまで、自分の力でやってみるこった」
「ハイ。」
水戸くんは「よし、」と笑顔で言って立ちあがった。そのときガラガラーと騒々しく入り口の扉が開かれた。見れば、相手は寿だった。
「みっちー、お疲れ」
「おう。 あ、やっぱ先に来てやがった」
寿が私を見て目を細めながら唇を尖らせる。そして、すぐに私の隣の椅子に腰を下ろした。
「寿。 お疲れ様。」
「お疲れ様ってよ、何回も電話したっつの」
「え! あ……ごめん。」
私が急いでそばにあった携帯電話を見れば着信が三件、メッセージ一件と表示がされている。
「マナーモードだった……」
「携帯持ってる意味あんのかよ、ったく……」
「水戸、ビール」とカウンターの中に向かって、寿が声を張る。
「……どうした?」
「え?」
「いや、なんか……、顔色あんま良くねーぞ?」
「……そう? 元気、元気。」
「そか。 ならいーけどよ。」
そんな寿との会話をチラ見した水戸くんがすぐに顔をそらしたあと鼻で笑っていて私は面食らう。結局その日、寿とは駅で別れた。
水戸くんからの助言もあって、私はいろいろと考えた末に翌日、藤真さんと偶然会ったことのある駅に行ってみることにした。都会の駅は混雑していると分かっていたため、あえて時間をずらし、午後過ぎに自宅を出た。
電車に乗って辿り着いた先、過去に自分が人生の崖っぷちと言いたくなるほどの絶望を抱えて座り込んだベンチが目に入って思わず苦笑する。とりあえず、私はそこに腰を下ろしてみた。
寿と久しぶりに会った日のことと、そのあと藤真さんに声をかけられた出来事がリンクして、私は無意識に小さく溜め息を吐いた。
藤真さんの会社に行ってみようかなとも思った。けれどあのとき同様に完全な不審者扱いだろうし藤真さんに、勝手な行動で迷惑をかけるわけにもいかないと、私は座ったまま考えあぐねる。
「すぐ、戻るけどな。」と、言っていた。もう、日本にはいない可能性のほうが高い。それならば最終的には会社に届けてしまうというのも、やっぱりひとつの手かもしれない。そんな低能な頭の中で考えを巡らせていたとき一通のメッセージが携帯電話に届いた。
三井 寿
寿からだった。なぜこんなときに。タイミングが悪すぎる。私はなぜか、勝手にひとりで気まずくなる。
返信内容に迷ったが、今日、藤真さんに直接これを返せなければ、結局私は職場に届けることになるだろう。今日限りで、この万年筆事件を解決させなければならないと思った。それは、私の立場的にもそうするべきだったし何より寿に罪悪感があったからだ。
『お人好し精神で』水戸くんに言われた台詞が、頭の中でリフレインする。それと一緒になって『隙がありすぎるんだよ』となにかにつけて寿に言われる台詞も頭の中を駆け巡る。そんなことを考えていると、返信をする前にもう一通のメッセージが届いた。
三井 寿
寿も仕事中だ。予定が合わなければ、寿だって他の予定を組みたいはずだ。そう思った私は取り急ぎ、返信を打つ。
名前
すぐに返信が来て、中を開けば『了解』と端的な内容だったことに、とりあえずほっとする。そのまま数時間、駅でぶらぶらしたりベンチに戻ってみたり、停車する電車をのぞいたりしたけれど、藤真さんが現れることはなかった。
帰宅ラッシュに巻き込まれないように化粧品などの買い物を済ませ夜八時過ぎ、駅のホームを出た先のカフェで温かいコーヒーを買った。この時間駅のホームを行き交う人で、やはり駅内はごった返している。ちょっと、もう少しぶらついてから帰ろうかな、と思い切り振り返った先——
——ドンッ!!
「ごめんなさい!!」
結構の勢いで通行人とぶつかってしまった。ドジな私も大人になった今では瞬発力をいくらか身に着けていたため瞬時に持っていたコーヒーカップを高く持ち上げたことで、相手にコーヒーがかかってしまう失態は待逃れた。
「……」
「……」
見上げた先、ほんの数センチの距離に立っていたのは……。二メートルはあるんではなかろうかという、大柄な男性。黒ぶちメガネが印象的で、その彼が私を見下ろしている。
「いえ、大丈夫です。そちらこそ、大丈夫ですか?」
メガネをくいっと指先であげた彼が私から距離を取るようにすこし後ろにさがった。そして柔らかい口調で私の心配をしてくれる。
「あ、大丈夫です。ごめんなさい、勢いよくぶつかってしまって……」
「こちらこそ、すみませんでした。」
「いえ……、」
「吹っ飛ばされなくて、よかったな」
え——。
固まって突っ立っている私。ひょこっと彼の後ろから顔を出した相手、まさしくそれは。
「ふ、藤真……さん——?!」
「よ。」と表情ひとつ変えずに藤真さんが、その大柄な彼の真横に立った。な、なんだこの……、ドラマの王道みたいなシーンは……!!
私が急にあたふたとしている姿を大柄な彼は不審そうに見下ろしているし隣の藤真さんは一度だけ「ハッ」と浅く笑って見ていた。
「藤真……。知り合い、か?」
刹那、大柄な彼が藤真さんに問いかける。藤真さんは「知り合い、なのか?」と、なぜか私に問いかけて来る。
「し、知り合いですよ! なんでそんな他人行儀なんですか!」
「あー、悪い悪い。こんな知り合いがいると思われるのがちょっと癪だった」
飄々と言ってのける藤真さんの言葉に、私は顔を真っ赤にする。それを見て、悪い顔で微笑む藤真さんに、私と藤真さんを交互に見やる大柄な彼。
「じゃあ一応、紹介しておくか」
「え?」
「こいつ、俺の友人だ。」
藤真さんは丁寧にも、右の手のひらを返して彼を差し示す。
「はじめまして、花形です。」
ぺこっと大柄な彼、花形さんからも丁寧に会釈をされて私はバッと頭を下げ返した。
「はじめまして!名字名前です!」
「……」
「……」
顔をあげると、きょとんとしていた花形さんが、プッと手でグーを作って口にあてて笑う。
「なんだ、まだ名字だったのか」
「ちょ、まだって……! あのねえ!」
「こいつ、湘北の三井と付き合ってるんだよ」
藤真さんのさらっと言った私の自己紹介に、花形さんは「三井?」と、すこし目を細める。
「湘北高校のさ、ほらバスケ部だった」
「………、ああー。三井。三井か……」
ふーんと言いたげに花形さんは自分の手を台座にして、頬杖をついてみせる。
「なにしてるんだ?」
そんなふたりを交互に見ながら、動揺している私の耳に、落ち着いた藤真さんの声が届く。そこで初めて、本来の目的を思い出した私は急いで鞄の中をまさぐる。それを不思議に見やる二人を置き去りに私は「これ!」と言って万年筆を藤真さんに突き出した。
「これ、このあいだ拾いました。」
「……ああ、やっぱり無くしてたのか」
そう言うわりには一切、万年筆を受け取ろうとしない藤真さん。
「クルージングの待ち合い室のトイレ前で……」
「ふーん」
私は「え」と言いそうになる口を噤む。藤真さんはそのまま視線を少し上に持ち上げて花形さんを見やる。
「せっかくだから、三人で飯でも行くか」
私はぎょっとしてまた二人を交互に見る。思わず万年筆を落としそうになって、それをぐっと握り返した。
「ああ、俺は構わないけど。」
言った花形さんも、なぜか私の承諾を得るかのように私に視線を向けてくる。
「なんか、おすすめの店ないのか?」
藤真さんが私に質問したと気付いたのは、言葉を投げ掛けられてから数十秒後だったと思う。
「おすすめって……」
「俺もこいつも、日本が久しぶりなんだよ」
「え、そう……なんですか?」
「ああ、こいつ海外でバスケットしてるからな」
「へえ……」
待て待て、私。感心している場合じゃないでしょうが! どーすんの、この流れ。どーすんのよ!
……あ!リョータくん!!そうだリョータくんを無理やり誘い出そう。うん、それがいい。過去に藤真さんと仲睦まじく飲んだ仲だし……
「宮城にでも連絡しようって魂胆か?」
「えっ?!!」
再度ぎょっとして、私は藤真さんを凝視する。
「考えが明け透けだ。」
藤真さんは言って「リョータくん≠チて口から出てたぞ」と呆れたように鼻で笑う。押し黙った私に助け舟を出してくれたのは花形さんだった。
「地元は、神奈川なんですか?」
「え、あ……はい。湘北の、まあ近くに住んで、おりまして……ですね……」
「そうですか。 藤真、向こうに戻って食べてもいいんじゃないか?」
「ああ、それでもいい」
えー!!勝手に三人でご飯食べることになってんですけどー!!?……あ。待って。じゃあ、もう一店舗しかないじゃん、おすすめのお店。
「あ、あの……」
私が小さく声をかけたとき目の前のふたりが凝視してきて思わず「ひっ」と言いそうになって身を引く。
「日本食、食べたくないです?」
「ああ……、まあ、そうですね。食べたいです」
「居酒屋なんですけど懐かしいメンバーに会えるかもしれないお店、行きません?」
私の提案に、ふたりは不思議そうに顔を見合わせていた。
「元¥テ北高校のメンバーしか、会えませんけど……」
私が情けなく眉をさげて言えば、それを見た藤真さんが珍しく柔らかく顔を綻ばせた。
結局、異色の三人で電車に乗って水戸くんのお店に向かった。途中、リョータくんと彩子に連絡をしたら、ふたりともせっかくだしと顔を出すとのことだった。
リョータくんがメッセージの内容を確認したとき気を利かせて赤木先輩と木暮先輩にも連絡を入れてくれた。どうやら、ふたりも少しだけ顔を出すようだ。駅を降り、水戸くんのお店に三人並んで歩いて向かっていたとき、その話を伝えた。
「リョータくんと、マネージャーやってた彩子も来るみたいですっ!」
「リョータって……ああ、宮城リョータか。」
「そうです! 花形さんも記憶に残ってます?」
「そうだな、宮城と桜木の顔はなぜかいま、すぐ出てきたな」
花形さんは困ったように笑って見せた。藤真さんは聞いてるんだかいないんだか、歩きながら横にながれる海を眺めている。
「赤木先輩と木暮先輩も来るって話ですよ?」
「赤木……」
「はい、元キャプテンと副キャプテンの。」
「わざわざ連絡してくれたのか?」
そこで初めて藤真さんが会話にはいってきた。
「はい。一応……まあ、せっかくなので。」
「桜木は?」
「え! 藤真さん、桜木くんに会いたいんですか?」
私が驚いたように藤真さんの顔を覗けば藤真さんは顔色ひとつ変えないで淡々と言い放つ。
「ああ、会いたいな。久しぶりに。」
私はなんだか、家族に会いたいと言われた気分になって嬉しくなってしまい先ほどまでの気まずさはどこへやら、「そっかー」と言って、私は藤真さんに満面の笑みを返した。