夜桜の散りゐく頃に(1/3)

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  •  ずっと一緒にいられると思っていた。きっと、特別なんだと思っていた。でもそう感じていたのは私だけだったのかも知れないな、とも思う。
     元婚約者が社長を勤めていた会社を退職して、幼馴染からのプロポーズを受け、それにイエスと返事をしてから、既に一年が経とうとしていた。季節は春——桜がそろそろ咲く頃だ。

     愛が欲しくて心の中ではいつも、泣いて叫んでいた私がいた。生意気で自分勝手な私に彼はいつだって、優しく笑ってくれた。人生の崖っぷちに立っていた私にとって彼だけがそう、生きる支え私の……希望だった。彼が教えてくれたこと——自分らしく生きていく覚悟
     彼と出会えた事が、私の人生そのもの。だからもう、大丈夫。彼のおかげで私は前より強くなれた。目の前にいなくても今でも声が聞こえる気がするよ——ねえ、元気ですか?変わりはないですか?あなたはいま、どこにいますか……?





     *


     野暮用を済ませ電車を乗り継いで到着した時の空の色は、まだ淡い橙色を残していた。陽が長くなってきている。
     平日の夜にひとりで遊園地に来る成人女性は、他人の目には、どんな風に映るのだろう。今日は約束した中学校時代の友人が急遽会えなくなってしまったため一人寂しく、大好きな場所に癒しを求めに来たのだ。特に病んでる訳ではないけど。
     港が近くにある駅を出て目の前にある遊園地。何より此処の景色は昼夜問わず大好きで恋人とも片手で数える程度だったけど、たまに通っていた場所だ。最もその恋人とは四年前に別れてしまった。あの頃は順調に付き合っていたはずだった。いや、もともと私生活が掴めなくて私が一方的に好きでいたようなものだったから仕方ないと割り切ってはいたけれど頭に心がついていかなかっただけであって未だ傷が癒えない、なんて事はないから大丈夫だとは思う。うん、病んではいない。

     ——藤真健司は気難しく、紳士的で、完璧な男だった。今思えば、私と恋仲になってくれたこと自体が不思議である。もう二度とない経験だろう彼と過ごした、あの数ヶ月間の出来事全ては……


     横断歩道を渡り遊園地の入り口から目的の場所まで、真っ直ぐに向かった。無人状態でもメリーゴーランドは、くるくると回っている。さすがに乗れるような年齢ではないので乗車はしないが、見ているだけでも少女の頃の遊園地に来た特別な高揚した気分が思い出されて好きなのだ。平日なだけあって他の遊具にも人気が少なく私にとっては好都合だった。
     しばらく眺めてから帰ろう。そう思ってベンチに腰を掛けると、遅れたタイミングで隣に誰かが座って来た。体をベンチの端に寄せて動けばその人も距離を詰めてくるので、何だろう?と相手を見ると——約一年ぶりの見慣れた顔が、そこにはあった。一瞬にして、時が止まる。過去の記憶を思い返すようにして私は、その名を呼んだ。

    「藤真さん……」
    「久しぶりだな」

     ふわりと清潔な匂いがする。彼の愛用している香水だ。メリーゴーランドの音楽と光が相まって幻覚か、夢でも見ているのではないかと思った。だって、生きていた——良かった、何も変わりはなさそうで……生きていくれて本当に良かった。

    「最近はどうだ」
    「……」

     辺りは一層暗くなってきた。春の冷たい風が、彼の前髪を少しだけ崩れさせる。乱れたところを軽く撫で付ける仕草は、記憶の中のままだった。
     近況報告というよりはもう世間話に近い。私の事など忘れ去っているはずなのに建前だけはしっかりとしているのが彼の性癖らしく安心感と僅かな居心地の悪さが、私の脚をくすぐった。

    「特に……変わりないです、おかげさまで。」

     おかげさまで、無事に婚約しました≠ニいう意味も込めて答えると、彼もそれを感じ取ってか口角を少しだけ歪めたように見えた。
     何も変わっていない。この一年間、彼との思い出が綺麗なままであるようにつとめてきた。自然と離れる運命にあったのだろうが、寂しさや話し合いをしなかった後悔が無いわけではなかった。そうでなければ彼との四年前の思い出の詰まったこの遊園地になんて、わざわざ私だって足を運ばないだろうから。
     春のぬるい陽気と冷たい風の、何ともぼやけた空気感に晒されていると、どうも、感傷的になりがちだ。

    「——藤真さんは……なんでここに?」
    「昨日向こうから戻った。来週帰るが……今は、呼び出し先に向かう途中だ」
    「……」
    「たまたま此処を通ったら——目の前を、君が、辛気くさそうに歩いていたんでな」

     嫌味に嫌味で返す癖も、まんま健在であった。そこに苛立ちを感じさせないのが、彼の不思議な魅力でもあった事を思い出す。

    「あと、これを——」

     彼の懐から取り出され、渡されたのはなぜか、名刺だった。手に取ったそれをひっくり返して、思わず私は驚いて目を見開く。それでも平常心を保ちつつ言葉を返すことに成功する。

    「……なんですか、これ」
    「俺の滞在するホテルだ」

    「日本にいる間はそこで仕事もしている」と……その台詞に絶句しながらも受け取った名刺をいま一度まじまじと見ると藤真健司≠フ名前と共にたくさんの肩書きと会社名、電話番号が印字されている。さっきもチラリと見えたが、その裏面の余白に手書きで、ホテルの名前が記してあった。

    「お前のことだ……どうせ俺の番号は消しているだろうと思っていた。もしくは、消されたか。」
    「……」
    「……気が向いたら、かけてくると良い」

     回転する木馬や向こうの方にある遊具の音楽がやけに冴えて聞こえてくる。色とりどりの電飾が彼の顔を照らしている。そんな中、数秒だけ目が合った。その眼差しはとても優しいものだった。風に運ばれて少し香る潮の匂いと彼の香水の匂いが混じって、一年前——いや……四年前の記憶と重なった。


     「——結婚おめでとう、名前。」


     まるで——突然送ってきたあの絵葉書に添えられていた神経質そうな文字をそのまま和訳で読み上げたみたいに言った彼は、私が返事をする前に来た道を足早に戻って路肩に停めていた車に乗り込んで去って行ってしまった。
     番号、消してないのに。しかもまだ、結婚してないんですけど……しかもしかも、よりによって昔のように、下の名前で呼ぶなんて。

    「たまたま通りかかった、じゃないよ……。」

     これからは、何かあったら友人のように連絡を気軽にしても、許されると思ってもいいものか。彼は相変わらず言葉が少ないので都合のいい方に捉えてしまう。私の手元にはしっかりと、名刺が握られている。
     ああ……この遊園地は、こんなにもきらきらと眩しかっただろうか、四年前の、あの時も——。





     *


     藤真さんとまさかの再会を果たしてから三日が経った。まだその事実を、今の婚約者——寿には伝えられずにいる。そもそも伝えるべきなのかも不明なまま、私はどうすればいいのかと考えあぐねていた。

    「——大丈夫か?」

     キッチンで食器を洗いながら考え事をしていた私の背後から声がかけられ、彼の長い腕が伸びてきて、流しっぱなしになっていた水道を止めた。

    「なんか最近、ぼけ〜っとしてんな?」

     バスタオルを首から下げて上は裸のまま、彼は濡れた髪の毛をガシガシとそのタオルで拭く。私は「大丈夫」と小さく呟いてソファーへ向かう。その後を追ってきた彼も、私がソファーに座ったすぐ後に、私の隣に腰を下ろした。

    「そう言や——明後日の花火大会、お前も誘われてんのか?」
    「え?」

     彼は、テーブルに上げていた自身の携帯を徐に手に取り、リョータくんとのメッセージの画面を私に見せてきた。そこには『明後日都内で花火大会あるんだけど二人で来る?』と打たれていた。

    「え?花火大会……?」
    「おう。なんか春の陣≠セってよ?宮城から、一緒に来るか?って昨日、連絡来てたんだよな」
    「へえ……」
    「最近お前、なんか元気ねーし、俺は部活で行けねぇから、宮城たちと行って来いよ」
    「え……」

     思わず彼を見た私と目が合った途端に「な?」と優しげに目を細められた。このとき私はあの日の事を隠しておくのは無理だと諭した。このままあの、藤真さんと会った日の事を流していても、自分で自分を追い詰めて、後になればなるほど、寿との関係が拗れると思ったからだ。私はごくりと唾を飲み込んで視線を逸らし「あ、あのね」と頼りなくも細々と、声を発した。

    「……あン?」
    「あの、数日前にね……」
    「数日前?……なんだよ、深刻そうなツラして」

     彼は背中をだらしなくソファーに預けて両腕を横に伸ばした。微かに私の肌にその腕が触れる。テレビも付けていなかった空間に外を走る救急車のサイレン、遠くからはカンカンカンと、電車の踏み切りの音、室内にある時計の秒針——私の、小さな息遣い、彼の視線が私に向いている気配。ひとつ、ふぅと息を吐き出した私が言葉を紡ぐ。

    「……会ったの、偶然。」
    「会ったァ?」
    「……」
    「ん?誰と?」
    「……、」
    「…………藤真——か?」
    「…………うん。」

     チク、タク……カンカン、カン。ピーポーピーポー。ゆっくりと瞬きをするたびに、耳に入ってくる音はそんな、いつもの生活音だった。
     偶然会っただけ。本当にそれだけなのになんでわざわざ馬鹿正直に報告してしまったのだろうと言った後になってから改めて冷静に考え始めた。でも言わないと気まずかったのは、隠していたらいつか私は彼に連絡をしてしまうかもしれなかったからだ。報告する事で制御したかった、彼に、連絡しないという、自分の気持ちに——。

    「どこで、会ったんだ?」
    「……東京」
    「東京ぉ?」
    「うん。友達と約束してた、帰りに……」
    「……そうか」

     短く言い置いて彼は立ち上がった。彼の動きを目で追っていると不意に立ち止まった彼がこちらを振り向かないままで「着替えてくる」と言って脱衣所に向かって行った。しかしすぐに脱衣所の扉が少々、物々しく閉められたので、私は小さく溜め息を吐いたのだった。


     それから、30分は経っただろうか。ようやく脱衣所の扉が開いて、Tシャツを着た彼が戻って来た。私と視線は合わせぬまま、私の座っているソファーではなくキッチンの方にあるダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。こちらには背を向けている。私も静かに視線を自身の足元に落とし込んで、もう一度小さく息を吐いた。

    「……こっちに、座ったらどうなんだよ」
    「……、」
    「俺に何かを伝えたくて、わざわざンなこと言い出したんじゃねーのか」
    「……うん」

     私はゆっくりとソファーから立ち上がり、彼の座るダイニングテーブルの方へ向かう。目の前に座ろうとその横を通り過ぎようとしたとき不意に腕を掴まれて私はその場で足を止める。掴まれた腕はそのままに、少しずつ彼の触れている部分が熱を帯びていく感覚に、自然と鼓動が早くなる。

    「名前」
    「はい……」
    「……何も、なかったんだよな?」
    「……」
    「偶然——会っただけなんだろ?」
    「……、」

     彼をそっと見下ろした私と、そっと顔を上げて私を見上げた彼の瞳と私の瞳がかち合う。僅かに目を細めた私を見た彼は、すこしだけ眉間に皺を作った。不意に視線を逸らした私がぽつり言葉を零す。

    「——名刺を、もらって」
    「名刺?」
    「番号が、書いてあって……」
    「……で?」
    「で、でも……そもそも番号は、知ってたから」

     言った後にハッとして、目を見開いた私に彼は目を細めると、掴んでいた手を離した。突然解放された私の腕。一箇所に集まっていた熱が徐々に分散されていく。そのまま目を泳がせる私を置き去りに、彼は椅子から立ち上がって私にまた背を向けた。

    「……はっ、なるほどな」

     鼻先で笑った彼が、自嘲するように呟く。私はその向けられている背中を、ただ見つめていた。するとそのままの姿勢で、彼が話し出した。

    「俺には別れた後、一度も連絡よこさなかったくせしてアイツの番号は消さずに残してるって?」
    「いやっ、そういうわけじゃ……」
    「そういうわけもこういうわけもねーだろうが、事実じゃねーかよ」
    「……、」
    「結局はアイツと別れたこと後悔してんじゃねーのか?俺だってな、いつまでもアイツの亡霊に」
    「——結局、自分ばっかりじゃん」

     今度は私が鼻先で笑いながら彼の言葉を遮ってそう吐き捨てる。それが気に障ったのかこちらを振り向いた彼と目は合わせずに私は視線を斜め下に落として、先を続けた。

    「俺には、俺だって……寿はいつも最後は自分のことばっかり。私のことなんて、見てない……」
    「……あ?」
    「寿はさぁ、私を好きなんじゃなくて自分を守りたいんだよね?これ以上、傷つきたくないから」
    「……、」

     無言のまま彼は玄関に向かい、そのままマンションを出て行った。しばらくすると、また戻って来た物音が玄関から聞こえて彼の気配を感じ視線を向けると、はたしてそこに、彼は立っていた。私を真っ直ぐに見た彼は私の目の前まで歩み寄ってきて、ダイニングテーブルの上に、小さな箱を置いた。蓋が開けられていないそれはきっと——婚約指輪だろうと瞬時に察する。

    「俺は、ちゃんと……戻ってきただろ?」
    「……」
    「名前……結婚してくれ」

     二度目のその告白は、今の私の心を大きく揺さぶった。私は彼から視線を逸らし「コーヒー淹れるね」と食器棚へと向かった。マグを二つ取って振り返ったとき真後ろ、至近距離に彼が立っていて思わず私は身を引く。マグを持つ手が震える。

    「わ、わたし、寿と結婚する資格なんてないの」
    「もういい、過去の事はお互い全部水に流して」
    「よくない!」

     彼の言葉を制して、私は声を張った。見上げたそこに、じっと私を見下ろす彼の漆黒な両の瞳。私はその瞳から視線を逸らしてマグを戻し、彼と距離を取るために、ダイニングテーブルの方まで戻ると、やや呆れ口調で言い放った。

    「だいたい、なんでこんな状況下でしれっと指輪なんて渡せるの?まるで保証≠オてくれって、言ってるみたいにしてさ」
    「……保証だと?」
    「保証でしょ?ずっと俺のそばを離れるなって、俺しか見るな、っていう保証」
    「……」
    「婚約指輪を……何でそうやって今渡すの?寿の性格は知ってるけど、仮にも私、女性だよ?デリカシーなさすぎる、ありえない」
    「婚約指輪なんて、貰うの二回目なんだからどう渡されたって同じなんじゃねーのかよ」
    「なんて=c…?二回目?ちょっと待ってよ、何それ」
    「反省した」

     今度は彼が私の言葉を制して言う。私は眉間に皺を作って奥歯を噛みしめ彼をじっと見据えた。

    「もっと、お前を信用すればよかったって。そしたら……あんな不愉快な思いはしなくて済んだ」
    「……は?」

     彼は、たったいま言い合いにもつれ込みそうになったことなんて、まるでなかったみたいにして「とにかく、」と、あからさまに話を逸らした。

    「まだしつこく何かしてくるようなら、警察行くなりなんなり——」
    「やめて。何もされてないから」
    「じゃあ何されたって言うんだよっ!」

     ダアン!と、彼がダイニングテーブルの隅を、グーで叩く。室内にもの凄い音が響き渡る。私は肩をビクンと跳ねさせて、息を飲み込んだ。

    「またアイツに、抱かれたって言うのか!?」

     彼は私の元まで来て両腕をグッと引き寄せた。私は「痛い」と、小さく抵抗したが彼は聞く耳を持ってくれそうにない。怒りが……頂点に達している。私の中にある彼への危険信号が発令する。

    「……また、って、何、」
    「この唇もこの身体も——あんな奴に奪われてんだぞ、俺は!!」
    「いやっ……」

     彼は掴んでいた腕を離し今度は私の肩に両手を置いて私を大きく揺さぶる。私は抵抗するが力が強くて、当たり前に敵うわけはない。

    「なんで、こういう時に限っていっつもお前は、何も答えねえんだよ……!!」

     彼は私を力一杯に突き飛ばした。バァン!と、私はリビングとキッチンを結ぶ開戸に叩きつけられ、ガシャン!!と開戸のガラスが砕け散った。そのまま私はその場に蹲る。私の左瞼が切れて、血が滲んでいた。そんな状況に気づかない彼は、私に背を向けたまま自虐的に笑いながら言った。

    「お前のその無言は肯定≠ネんだよ……」

    「名前」と突然我に返ったように彼が振り向き、私の元に慌てて駆け寄ってきて私を抱き竦める。

    「おい、大丈夫か?どれ、見せてみろ」
    「……い、いや……」
    「ごめんな?痛かったよな?けどよ、俺……わかってくれよ俺がどれだけお前の事を思ってるか」

     私は無理やり彼から離れ、四つん這いになって無意識に玄関に向かう。それをさせまいと、彼が追ってきて背後から捕まりまた抱き締められる。バタバタと足を動かし抵抗する音がダンダン、と響いていたが私は早々に諦める事を選び、抵抗を止めてヒューヒューと、呼吸を整えた。

    「俺はお前のためだけに頑張ってきたんだ、お前の幸せだけを願って、俺は——」

     私の目からは止めどなく涙が溢れてくる。彼は優しくも情けなく笑って、私を強く抱きしめた。

    「俺はお前を裏切った……でも誰にだって過ちはあんだろ?俺も、お前を許すから、だから——」

     私は堪えようとして、不意に激しく嗚咽した。左瞼から流れてくる血が目に入って痛い。霞む、視界が歪む。目眩が、する……。

    「忘れようぜ、何もかも……あの頃に戻ろうぜ?あの頃の、幸せだった俺らに——」
    「……う、うぅ……」
    「悪い、本当に……こんな俺を……許してくれ」

     もう会えないなら、これが最後になるなら……姿だけでも、目に焼きつけておきたいと思った。だから、こうなったのは私のせいだ。だけど——もう特別じゃないって言う声も、困ったように、笑う顔も、少し離れた体も、刻みつけられなくて目を逸らしたあの日々が、まだ消えてくれない。
     あの時、愛してるって言った声に、楽しそうに笑った顔に、瞼に優しく口付けてくれた感触に、抱きしめてくれた体温に上書きしたくなかった。

     私はただただ、彼の腕の中で喘ぐように泣いていた。ねえ、どうすればいいの、この動悸——。





     *


     翌日、私たちの住むマンションに業者の人と、水戸くんが来た。今朝、彼が湘北に向かう背中を見送りそのまま水戸くんに連絡を入れた。どこか安く窓ガラス等を修理してくれる業者はないかと相談したら良いところがあるとの事でマンションに業者が来たのは、午後の二時過ぎだった。
     一度、その業者から私宛に連絡が入っただけで当たり前に業者の人が来てくれると思っていたのにインターホンが鳴ったカメラを見たら業者の人らしき人物と水戸くんの姿——私は急いでそばにあったキャップを被って水戸くん達を出迎えた。

    「どうぞ……」
    「失礼します」

     私の出迎えに、つなぎ姿の業者の二人組はそう言ってぺこっと頭を下げ家の中に入って行った。水戸くんと正面から向き合う体勢になり私は視線を足元に落として「入って」と言った。振り返ったとき未だそこに突っ立ったままの彼が私の名を呼んだ。「名前さん」って。私は彼に背を向けた状態で立ち止まる。

    「室内で何でキャップなんて被ってるんだー?」
    「……きょう髪、ボサボサで、さ?」
    「……」
    「今——流行ってる、らしい……よ?」
    「へえ。悪いね俺、若者のファッション疎くて」
    「……」
    「まぁアイツら、知り合いでさ?お安く、綺麗に修繕いたしますよーって、ね?」
    「……ありがとね、ほんと」
    「いーえ?」

     水戸くんが室内に入ってくる。私の真後ろに立った気配。心臓が突然トクトクと脈打ち始める。首の裏あたりに彼の視線が容赦なく突き刺さっている。背中につう、と嫌な汗がつたう。

    「オーナーには、連絡したのか?他社使うって」
    「うん」
    「……そか」
    「……うん」

     たぶん……水戸くんにはすべてバレている気がする。好きでも嫌いでも、ダメなとこを許すのはただの甘やかしだ。怖くても言わなきゃダメで、それが相手を思いやるってこと。許すことだけが優しさじゃない。ひたすら許す事の方がかえって残酷だ——そう、水戸くんに言われた、一年前のあの海での事を、不意に思い出した。

    「洋平さん、ちょっとこれ見てもらえますー?」

     業者の人の声にハッとして、私は顔を上げる。私の真横を通り過ぎていく水戸くんのジャケットからほんのり煙草と、香水の香りがした。

    「あー、そうだなぁ……そこの噛み合わせは?」
    「はい、じゃあこう言う感じで大丈夫スかね?」
    「だな。大切なのは経過じゃなく結果だからな」

     大切なのは、経過ではなく結果——。私はまた寿との事を見て見ぬふりをして、何事もなかったかのようにこのまま結婚をして藤真さんとの事は死ぬまで封印して生きていくのだろうか。
     胸が、詰まる……息ができない。私は軽い過呼吸を起こし荒い息のまま、その場にしゃがみ込んだ。そんな私の様子に気づいたらしい水戸くんが廊下に顔を覗かせた。

    「……名前さん?」
    「はぁ……っ、はあ……っ」
    「おい、大丈夫か!?」

     駆け寄ってきてくれた水戸くんが「おい、近くに紙袋ないか!?」と声を張っている。その異変に一緒に来ていた人たちがわたわたと側にあった紙袋を手に廊下まで出てくる。水戸くんに支えられながら口元に紙袋を当てがわれて、水戸くんの「ゆっくりな?」という声に合わせて息を吐くと幾分呼吸が、楽になってきた。そのとき——水戸くんの鋭い切れ長の瞳が私の左瞼に向いている事に気付いて私は目を泳がせた。キャップで隠してはいたが、流石にこの距離では見えてしまったのだろうと、心底から焦った。

    「名前さん」
    「何も、聞かないで——お願い……っ」
    「……わかった、今は何も聞かないでおくよ。」
    「……ありがとう、水戸くん。」

     愛されたいなら愛しなさい$フ、母が言っていた言葉だ。だけど私は不器用だから、やり方がわからない。ずっと居場所が欲しかった。傷付くのは、怖かったんだ。


    『人としてダメだろって事でも何か許しちゃって。おかしいのはわかってんの寿が実は怖い面持ってるってことも……知ってる』

    『でもダメなの、本人に会うとどうでもよくなる。これってさ?好きってことなの?』

    『それは——違うと思うぞ』



     ——ねえ、水戸くん。水戸くんは、そう言ってくれたよね。私達はまた、同じことを繰り返してしまいそうだよ……。
     水戸くんは私をゆっくり立たせてソファーまで肩を貸して支えてくれた。私はその補助を借りてソファーに腰を落ち着けたあと、彼の名を呼ぶ。

    「ねえ、水戸くん」
    「はい、水戸です」
    「人を好きになる時って、どこを好きになる?」
    「そりゃ最初はわかりやすく顔とかフィーリングとか?それで徐々に性格とか。まあ、一派論ね」
    「だいたいみんな似てるよね。だから誰もが自分のいいところを伸ばそうと努力する。欠点はなるべく、相手に隠してね」
    「まあー、誰しも猫被るって言うしなぁー」

     そう言いながら水戸くんは窓際に歩いて行って水色のジャケットのポケットに両手をしまい窓の外を眺めていた。

    「でもさ、剥き出しに自分の欠点を曝け出す人もいるじゃない?」
    「自分に自信があればな?」
    「そうじゃないと思う。みんながいいと思うとこなんてどうでもいい、そっちを分かって、って」
    「……それ、誰のこと言ってんだい?」

     水戸くんが不意にこちらを振り返る。私は水戸くんの質問には答えずに、手に持った紙袋を握りしめて手元に視線を落としたまま言葉を続ける。

    「それでね?もしもその欠点が逆にいいなって、可愛いな、愛おしいなって思い合えたら、すごく安心だよね?」
    「んー、でもそれは恋じゃないんじゃないか?どこか不安だったりするのが恋のエネルギーだろ?名前さんが言ってんのはもう恋じゃないだろ」
    「恋じゃない……じゃあ、なに?」
    「愛……?」
    「愛。やっぱり私、ちゃんと愛してるんだ……」

     水戸くんは「うん」と、しっかり肯いた。願いが一つ叶うたびに幸せになれると思ってた。でもいくつ手にいれたって変わらず生きるのは辛い。なんでこんな気持ちになるのか、自分でも分からないのだ。
     一緒にいるのに、そばにいるのに。さみしい、苦しい、とおい、たりない、埋められない……。これは本当に、愛……なのだろうか——。

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