Chapter.3



翌日、大学の大教室の机で、南がなにやら熱心に書いていた。
そこに藤間がやってきて、「なに書いてるんだ?」と素早くその紙を奪った。

「あ、やめ……!」
「なになに……? 君が取ってくれたほうれん草のサラダ、あの味が忘れられません……。」
「………」
「ええっ? 今度は誰だよ、有機栽培とかしてる人か?」

藤間のからかいに、南は顔を赤らめて乱暴に紙を取り返した。

「違うわ!晴子ちゃんや、あかぎはるこチャン」
「……」
「ほら、名前ちゃんのオトモダチの」
「知ってるよ」
「かわいくて、やさしくて、女神様みたいやったなあ……」

南はうっとりとしている。

「…ほうれん草取り分けてもらっただけだろ」
「お前にはわからんやろうなー、そんなささいなことから始まんねんで、恋っちゅーのはな」
「え? いつ? いつ始まったことがあるんだ?おまえの恋が。」
「ぐ……、これからや。これから始まんねん」

南は憮然ぶぜんと手紙の続きを書き始めた。いたって本気らしい。


一方、その頃名前は、やれやれと思いながら、大学前のスロープを自転車でのぼっていた。のぼりきったところで、三井がニヤニヤ顔で待っていた。

生まれたての太陽みたいなその笑顔に脱力しながら、名前はスタスタとそのまま三井を素通りしていく。

「待てよ! おはよ。」

三井はまばゆいばかりの笑顔で追って来る。

「(あのさ、朝からそのラジオ体操のお兄さんみたいなテンションやめてくんない?)」
「は?」
「(私、低血圧なの。見てるだけで疲れるから)」
「いい知らせがあんだよ!」

三井は名前の正面に手話が見えるように回り込んで、にこにことまるで動じていない。
名前は仕方なく話を聞くことにした。

「(いったい、なに?)」
「いい知らせだぜ!」

そのとき、登校して来た彩子がふたりの姿に気付いて、立ち止まった。

「ウチの大学で、ときどき練習してるクラシズって知ってるだろ?セミプロの学生ばっかの」
「……」
「コンサートやったり、CD出してる」
「(うん、もちろん知ってるけど……)」
「そこの部長が、お前のバイオリン聴いてくれるってよ」
「(えっ?)」
「それでよかったら、そのサークルに入れてくれるって言ったんだ!」

名前の顔がパッと輝いて、「(ほんと?)」と興奮気味に聞き返す。

「ああ、語学のクラスの同じ奴がそこの団員でよ、お前のこと話したら知ってたんだ。名字名前って、中学のとき、最年少で入賞した子だろって」
「……」
「それで、部長に聞いてくれたんだよ」
「(でも……自信ないな)」
「——?」
「(だって私、耳聞こえないんだよ?それで、みんなと一緒に演奏なんてできるかな)」
「やってみようぜ。ベートーベンだって、耳聞こえねえのにピアノ、弾いてたじゃねーか、確か」

三井は、つとめて明るく言う。

「(…私をあんなオッサンと一緒にしないでよ)」
「は?」
「(あんな天パーのオタクオヤジと一緒にしないでって言ったの)」

名前はまた、スタスタと歩き始めた。

「……ベートーベンと一緒にされて怒る女。
……あの天才をオッサンって…あれ?あいつ天パてか、ヅラじゃねーっけ…って、オイ!」

三井はぶつぶつ言いながらも笑顔で、子犬のように名前のあとから着いていく。

気のおけない二人の様子を目の当たりにして、彩子は小さな溜め息をついていた。