運命のアリバイ

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     ※三井・ヒロインは出てきません※


     ガガガガともギイイイとも言える、軋むような耳を擘く金属音がした。
     やってしまった——まさかゴールド免許を目標としていたこの私が、車の側面をぶつけるなんて初心者にありきたりすぎるミスを?せっかく両親に頼み込んで新車を買ってもらったばかりだったのに。
     
     私の名前はみょうじなまえ。大学時代に出会った年上の彼との婚約が破談となり、不自由だっだ足のリハビリを一生懸命頑張って歩けるようになって、ようやく取得した運転免許。
     参った……ハンドルをどちらにきったらよいかすらもわからなくなってしまった。ニュースなんかで��アクセルとブレーキを踏み間違えて�≠ニいう事故をよく目にするがそんなこと本当にあり得るのかと、ずっと疑問を抱いていた。だがしかし私は今明らかに軽いパニック状態に陥っている。なるほど。事故はこうして、パニックを起こして発生するものなんだなぁ。

     ここは街中の狭いゲートバーのあるコインパーキング。出口の左側にある低い柵を見落として、巻き込む寸前というか既に当ててしまっている。

    「え……ど、どうしよう……っ」

     どうして?なんでこうなったの?後ろには別の車が並んでいるし。困った、完全にしくじった。にっちもさっちも行かない状態だが、こんな時に咄嗟に思ったのは、にっちとかさっちってナニ?だった。——ダメだ、完全にテンパっている。

     その時、コンコンとすぐ横のドアウィンドウが叩かれた。うわ、早くしろって催促!?と、私はハンドルを強く握ったままで横を見た。

    「大丈夫ですか?」
    「——!?」

     神様?ああ、神様……いや、王子様だ——!!きっと、きっと、これは良い人だっ!
     窓の外から腰を屈めて覗き込んできたのは目にかかる程度の綺麗な茶髪。型のいいスーツ、目が見えるか目えないかくらいのスモークのサングラス。見た目はちょっとだけハードだけど、何ともイケメンで、誠実そうな男性だった。

    「あ、あの!私、急いでて!今日、大事な面接があるんですっ!」
    「……」
    「どうしよう、あの、助けてください……っ」
    「落ち着いてください、僕が誘導しますから」

     声は、優しかった。私は喉がカラカラで何度も頷くしかできなかった。ハンドルを握る手に嫌な汗が、じわりと滲んでくる。私はゴクリと生唾を飲んだ。

    「まずは、ハンドルをそのままで、ゆっくり合図するまでバックしてください。それから……」

     私は車を少しバックさせたけど男性がどのような指示をしてくれているのか手でハンドル操作を見せられても指が長くて綺麗だなという事くらいしか理解できなかった。だめだ……わからない。私は思いきってドアを開けて、車から降りた。

    「あの、わっ、わたし……!」
    「はい」
    「すみません、その……できそうもなくて……」
    「……できない、とは?」
    「はい、大変ご迷惑をおかけしますが運転を……あの、代わりに車を、動かしてもらっても、良いですか?」

     私のお願いに男性は一瞬、戸惑った様子を見せた。当然だろう。でも仕方ない。できないものはできないのだから。

    「ああ……まぁ、良いですけど」
    「本当ですかっ!?」
    「ただ僕が移動したとしても、どうしても車には傷が付きますよ?それでもよろしいですか?」
    「かまいません!」
    「……わかりました」

     私が操作するよりも、きっと最低限の傷で済むだろうし。情けないけど、お願いしてしまった。見ず知らずの人なのに。でも、優しい人だなぁ。

     車から降りたときに見た、男性が乗っていたであろう後続車の車体は見るからに高級車だった。運転席からわざわざ降りてきてくれたのだろう。見た目は青年実業家っぽいけど社長さんかな?と思ったと同時に助手席にもう一人乗っているのが見えたので社長夫人かな、って。ならばおかしな事にはならないという勝手な確信から、恥をしのんで頼んでしまった。とにかくこの場は急がないと。ゲートのあるコインパーキングからの出庫はこれからは要注意だ。

    「そこのパニック中のお姉さん、ちょっと」

     男性が私の車を動かしているのを見守っていると、後続車の助手席から顔を出した社長夫人らしき人が声をかけてきて手招きをされた。挙動不審になりながらも歩み寄れば小さな紙を渡された。見れば手書きで何やら書き込まれているようだ。

    「そこに口利きしておいたから。車傷ついたの、見せに行ってみて」
    「えっ、いけません、そんな……」
    「いーのいーの、こういうのは素直に受け取っておきなさい、損はないから」
    「は、はぁ……」

     その間にも車はスルスルと動いて見事にゲートバーにある精算機の手前に寄せて停められた。
     素晴らしい!はぁ、助かった。ありがとうございます、見ず知らずのお兄さん——と、奥様。

    「本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げてよいか……」
    「これくらいのこと、どうぞお気になさらず」
    「本当に助かりましたっ!」
    「いえ。面接——頑張ってくださいね」
    「は、はい。あ、あの……お名前……」

     男性は私の問いかけに軽く手を横に降って「言うほどのものでは」と言いたげに紳士に応えると無言ですぐに車に戻ってしまった。見るとさらに二台も後ろに車がつかえていた。私は慌てて駐車料金を精算すると車を出した。そのまま口頭だけのお礼で終わらせてしまってはと、パーキングを出て車を停めハザードランプをあげて男性の車が出てくるのを待った。けれども親切な男性が運転する高級車は私の車と反対方向へ出るとそのまま走り去ってしまったのだった。

    「行っちゃった……」

     本当に親切な人だった。茶髪、スーツ、サングラス、優しい声。覚えている特徴は……ほとんど覚えていないに等しい。ただ、彼が私の車のハンドルを握った時に見えた革のブレスレット……。ただ、それだけしか。私の記憶力、ポンコツか。

    「あ、そうだ……」

     先ほど助手席の女性から受け取ったメモが気に掛かりそれを裏返してみた。やはり予想は的中。それは、誰かの名刺だった。急いで目を通すと、そこには——

    「え——。ふ、じま——けんじ!?」

     きっと車を移動してくれた人の名刺だろうと、すぐに思った。が、そのことよりも驚いたのは、その名前が元婚約者と縁のある人物の名前と一致した事だ。
     彼の幼馴染でもある彼女の婚約者と同じ名前。会社名が書いてある……あとは検索してみるしかないかと、私はとりあえず、急いで面接会場まで車を走らせた。


     *

     数日後、未だ傷ついた心と車で大学時代の友人が待っている某カフェ近くの駐車場に、愛車ではなく、修理に出した際に借りた代車を止めた。

    「なまえ〜!ありがとう、ゴチになりま〜す」
    「なんなのよ、もう。財布忘れたなんて、ありえないんだけど」
    「てへっ」

     二十代後半なのに、それを年甲斐もなくやってみせる友人に今日も今日とて、呆れてしまう。

    「そんな顔、私にやっても意味ないからっ!」
    「迷惑かけてごめん!じゃあお会計1100円〜」

     はいはい、と言いながら私は友人の代わりに、お会計のトレーにお金を置いた。彼女と私は今、都内のマンションに二人で住んでいる。社会復帰の真っ最中の身としては節約のため自然の流れだった。
     まあ、彼女はとにかく、大学の頃から忘れ物が多い。家の鍵とかスマホとか忘れては絶対に困るものでも平気で忘れる。今回はお昼を食べた後に会計のところで財布を忘れた事に気がついたそうで、外出中の私が突然呼び出された次第。

     彼女はこんなだけれど他人からの評判がとてもよい。人当たりは良いし、他人と打ち解けるのが早く、人付き合いがとても上手いタイプなのだ。私がカフェに着いた時には彼女は女性店員さんと親しげに雑談していた。それを見て、慌てて来る必要なんてなかったよなぁ、なんて力が抜けてしまう。「お友達さんが早くいらしてくださって、良かったですね」なんて、店員さんに嫌味の無い笑顔で逆に同情までされていたくらいだし。

    「はい、しっかり者の友人で助かってま〜す!」

     なんてヘラヘラして返しているけど。あなたがそんなだから私がしっかり者に見えるだけ。慌てて車をぶつけるような私は全然しっかり者なんかじゃない。少し前までは私も��そっち�≠フ人種だったはずなんだけどな。あぁ情けない。傷ついた車の修理の見積りは、なんとウン万円。

     あの日、助手席の女性から頂いた紙に書いていた修理会社に直してもらったのでそれでもかなり安くなった方だと父親が言っていた。援助すると言った親に自分で払うと意地を張って言ったはいいものの、これで本当に仕事に就かなくてはならなくなった私は、色々とダメージを受けていた。


     あの後、名刺に書いていた社名をネットで検索してみると有名な企業らしかった。色々な事業を展開していて商店街のアーケードに店舗もある。長期の貸し出しから引き取ってきた絵画を格安で販売してたりとか。興味が無かったせいか、全く知らない世界だった。センスの良いホームページ画面に釘付けになる。代表は、名刺に書いていた名前の男性——藤真健司さんらしい。本人も画家なのだろうか?絵を描きながら画廊の経営もしているとか?あの人が?いや、あの人とは限らないか。あの人は代表ってだけかもしれないし……。

     そのほか取り扱い作家には、絵画に疎い私でも知ってるような、有名な日本人作家や外国作家の名前から、知らない作家まで連なっていた。
     そもそも最近は、社会復帰のあれこれに追われ芸術的なものには疎遠の生活をしている。たまには絵画に触れるのも良い機会かもしれない。
     
    「名前さんって……すごい人と婚約してたんだなぁ」
     
     ホームページの中で公開されている、藤真さん本人が選んだ作品は、はっきり言って暗い印象。基調は黒とかセピア一色。けれども、ビロードのような繊細な艶があり、惹かれるものがあった。調べたら、銅版画メゾチントという技法らしい。部屋の壁に飾るというよりは、近くで観て楽しむ雰囲気の静物画作品のようだった。

     突然行って迷惑かもしれない。でも、あんなに親切にしてもらったのだからお礼がしたかった、ただ、それだけの思いだった——。


     *


     お礼に行くと決めた日、お礼の品は何にしようと街中をぶらぶらしてみた。バレンタインが近いという事もあって、何だか街が華やいで見える。
     私にはもうご縁のない日。今ではこうしてしっかり者とは言われても男性からしたら可愛らしくも愛嬌もない女だから今の私は。友人や元婚約者の幼馴染とは違って——。
     友人は最近およそ二年ぶりに彼氏ができたとかで毎日楽しそう。相手はクウォーターでイケメンらしい。私なんて当分、彼氏なんて出来そうにもない。

     私の足は最近人気のチョコレート専門店を目指していた。時節柄、何となくお礼はチョコレートがいいかな、と思ったからだ。
     そのお店は高級感溢れる重厚なガラス扉のある入口になっていて入ってしまったら何か買うまで出られない雰囲気満載だった。私には敷居が高くて入りづらい。今まで密かに気になってはいたけれど、入った事はなかった。でも、お礼のチョコレートを今日は必ず買う予定だったわけだし。
     おもいきって中に入ると、何だか別世界に足を踏み入れた感覚に陥る。芸術的な見た目で、一口サイズの、艶やかなチョコが整列しているショーケース。バレンタインのプレゼント用で買い求める人が多く、たくさんの女性客で賑わっている。人気はショーケースの中の��組み合わせは自由、六個で三千円�≠ニいうヤツ。まさに王道の、あのブランドに匹敵する破壊力お値段。目眩がする程にまぶしいチョコレートだ。

    「お決まりですか?」

     メイドさんのような可愛い制服姿の店員さんとお店の雰囲気に飲まれ私は流されるままショーケースの中のオススメを六個選んだ。それを手土産に私は目的地へと向かう。ギャラリーは街中の商店街アーケードの端の雑居ビルの二階にあった。階段を上がった二階のフロアにはいくつか小さい店舗が並んでいる。一番奥に絵の飾ってあるショーウィンドウがあってガラス越しに洒落た装飾のある文字が見えた。あそこだ——。

     中に人がいるのが見えた。茶髪の人ではある。記憶ではもう少し暗い色だった気もするけど背格好はあんな感じだったと思う。自信がないけど、人違いだったら謝るしかない。せっかく来たし、勇気を出すしかないが、誰?とか言われたらどうしよう、などと入口で悶々としていると、ドアが開いた。

    「こんにちは。いらっしゃいませ。お気軽にどうぞ、中もご覧ください」

     声をかけられてしまった。気さくな感じで優しそうな人だった。確かにこんな感じの声だったと思う、多分。決め手となるブレスレットは、袖口までしっかりある、黒いセーターを着ているから見えないけど。

    「こ、こんにちは!先日はコインパーキングで、車の移動をしていただいて、本当にありがとうございましたっ!!」
    「……ん?」
    「すみません、突然おしかけて。あの時は急いでいてきちんとお礼できなかったので来ました!」

     頭をさげながらたどたどしくはなってしまったけれど、言うべきことは言えた——と、思う。

    「——ああ!車ぶつけた人ね。あの後、面接には間に合った?」
    「あ、はい……でも、落ちましたけど」
    「そう。それにしても来ました、とかウケるね」「……」
    「あ、いや。わざわざありがとう」
    「あっ、いえ……」
    「そうかぁ、僕の母親が名刺渡したって言ってたから、調べて来てくれたんだね?そんな、こっちは大したことしてないんだから、よかったのに」

     ニコニコと笑いながら言われた。
     あ、あれっ?この人、なんだよね?まぁ間接的に私はぶつけた人になるんだろうけど、そういう言われ方をされてしまうとちょっとだけ凹んだ。それに——母親?ということはあのとき助手席に乗っていたのは奥様ではなく、お母様……?

    「あの時はパニックになっていた私に、ご親切に声をかけてくださって、とても助かりました!」
    「あははっ、いいえ〜」
    「本当にありがとうございました。これ、お礼に受け取ってください。街で人気の、チョコレート専門店のチョコです!」

     持ってきたチョコの袋をグイッと差し出した。あれ、なんか、告白してるみたいな雰囲気になってる?この感じ……。しかし彼は「ありがとう。なんか悪いね」とすんなりそれを受け取ってくれた。よかった、いらないとか言われなくて。

    「えーと、きみは、ここのチョコレート食べた事あるの?」
    「い、いいえ。あの、すみません、食べたことはなかったです」
    「そう。じゃあちょっと、こっち来て」

     おいでおいでをされたのでお言葉に甘えてギャラリーの中に入った。壁一面に絵が飾られていて更に縦に立てかけて重なって床置きされている。すごい在庫の量だ。ノコノコついて行くとスタッフオンリーと扉に書いてある部屋に案内された。そこには大きなソファとローテーブルがあった。

    「待ってて。一緒にこのチョコレート食べよう」
    「えええ、そんなっ!差し上げたものをいただくなんて失礼な……」
    「いやいや、もらったんだからもうこのチョコは僕のものでしょ?」
    「え?」
    「ご馳走する権利は僕にあるよね。もちろん君も食べる食べないを選べるけどできれば僕は一緒に食べたいなぁ」

     ——う。断わりづらい誘い方。でもこの雰囲気まるで大学時代の自分を見ているようだ。元婚約者にもこうしてどこまでも押して押して押しまくったことを思い出す。改めて思った、こんな風にペースを掴まれては流されてしまうという事を。

    「今日は売り上げがよかったからね〜今からコーヒーで、ひとり打ち上げしようと思ってたんだ。付き合ってくれないかな」
    「……」
    「緊張してる?でも、苦いコーヒーに甘いチョコレートは、ベストマッチだと思わない?」
    「——はいっ、思います!」

     チョコレートの美しい箱がローテーブルの上にコツンと置かれた。

    「コーヒーは苦手じゃない?」
    「最近、好きになりました!」
    「……よかった、実は僕も大好きなんだ」

     そう言って男性は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。虹彩が明るい茶髪。なんだか、引き込まれてしまう。「大好き」なんて言葉、私に向けられたわけじゃないのに、胸が有り得ないほど高鳴ってしまった。私って本当にチョロいなぁ。実はコーヒーが飲めないなんて、今さら言えないし……。

    「隣の豆屋でコーヒーを淹れてもらって来るから待っててくれる?隣のマンデリン、好みなんだ」
    「は、はぁ……」
    「きみも気に入ってくれるといいけど。少し待っててね」
    「あ、おかまいなく」

     とは言ったけれど、私の言葉は聞こえなかったのか、男性はドアを開けたまま私ひとりを残して部屋から出て、恐らく店も出ていってしまった。隣に行くだけとはいえ、この緩いセキュリティ、いいのかな?と不安に駆られる。ウインドウには確かに警備会社のシールは貼ってあるけど……。
     ああ、でもこんな小説みたいな展開が、私にも訪れるなんて。頑張って生きてきたご褒美?って大袈裟か。
     そんな、ほんわか楽しい気分で待っていると、お店の方から声が聞こえてきた。私がいる部屋のソファーからは、そっちの様子は見えなかった。

    「ケンジさん!」

     女の人の声……?しかも名前呼び。親しい間柄なのかな。なぜだか胸にズキっときた。健司——やっぱり、藤真健司さん本人だ。

    「あれ?早いねぇ〜」
    「ごめん、待ちきれなくて。ちょっと早く来ちゃったの!わぁ〜コーヒーのいい香り。あ、もしかしてお客さま?じゃあ、私、またあとで来るよ」
    「大丈夫、お客さまじゃないからそんなにかからないよ。隣でコーヒーでも飲んで待っててよ」
    「わかった、待ってるね。チュッ♡」
    「おいおい、コーヒー持ってるんだから、危ないだろぉ〜?」
    「えへへっ、ごめ〜ん」

     女性の甘えるような声。てか、チュッてなに?チュッって。明らかに今公共の場でイチャイチャしてたよね……?
     膨らみはじめていた私の淡い期待は一瞬で萎んだ。勇気を振り絞ってここまで来ても私なんかに素敵なご褒美なんて、やっぱり無かったのだ。

    「……」

     帰ろう。お礼は言ったし、チョコも渡したし、未練も……ない。ここにいては二人のお邪魔だ。私がソファから立ち上がり部屋から出ると背後から「え?どうしたのよ!?」と声を掛けられた。

    「え……何で?」

     まさかのおっちょこちょいの同居人、大学からの友人だった。と、言うことは先ほど彼とイチャイチャしていたのは彼女と言う事?全然気が付かなかったが「どうしてここにいるの!?」と言う彼女に対し私も同じセリフを言いたいと思った。

    「そうか、なんだか初めて会った感じがしなくて親近感わいたのは、そういうこと?お友達だったんだ。マジですごい偶然だね」

     藤真さんが私たちの間で一瞬流れた微妙な空気を知ってか知らずかほのぼの系のコメントを出して来た。彼女は元々、彼と知り合いだったと言うことだろうか。

    「実は大学時代からの付き合いで、一緒に住んでるんで〜す」
    「へえ」
    「今はしっかり者なの、この子。昔は男のお尻を追っかけてばっかだったのに!でも二人はどこで知り合ったの?」

     あー、友人よ。私を紹介する時のその定形文、もういい加減やめて欲しい。でも友人は悪気無しのド天然さま。だから、なおのことタチが悪い。嫌いになれないんだよなぁ、昔から。

    「えーっと、それはね……」

     藤真さん、言わないで!まさか、彼女の新しい彼氏さんが私の命の恩人の藤真さんだったなんてショックが大きすぎて、涙も出ない。でも、これ以上ここにいたくはなかった。

    「あの……私、急用を思い出したから帰る!私の分のコーヒー、飲んでくれる?じゃあねっ!」
    「あっ……」

     なにか言いかけた友人を完全スルーし、私は、藤真さんに向かってぺこりと頭をさげると視線も合わせずに外に出た。

    「あ、待って!」

     藤真さんの慌てた声が苦い余韻を残した。色んな感情が胸の中で渦巻いていたため、すれ違った誰かの存在に、私は気が付かなかった。だから、

    『健ちゃん、日本には四月に帰ってくる予定じゃなかったのか?でもいいところに。今の女の子、追いかけた方がいいよ』

    『コインパーキングの彼女だよ。わざわざお礼を言いに来てくれたんだけど、お前と俺のこと色々誤解があるかもしれない』

     なんて——。そんな会話があったとは、私には聞こえようもなかったのだった。





     *


     全面ガラス張りのおしゃれなレストラン——。私は人を待っていたが、もう既に約束の時間から一時間近く経過する。さすがに帰ろうと、支度をし始めたところで入り口から誰か入ってきた。
     茶髪でスマートな佇まいの男性。ウエイトレスがその男性を見るや否や深々と頭を下げている。しばし目を惹かれていると、その男性はどうやらこちらに向かって来ているかもしれないと、自意識過剰にも反応してしまった。しかし私の勘違いでも何でもなく、その男性は、私の目の前に来て立ち止まったのだ。

    「このあいだ、パーキングでテンパってた人?」
    「あ、はい……え?あの、ふ、じま……さん?」
    「兄貴が、迷惑をかけたみたいで」
    「え?あ、あの……兄貴って?」
    「今言った通り」
    「え……」

     確かに今目の前にいる藤真さんは、お兄様よりちょっとだけ暗い茶髪の虹彩、お兄様よりキリッとした目付き。でも、顔も姿形もよく似ていた。双子の弟?とも思ったが、それは置いておいて、ようやく何か、すべて腑に落ちるというか、モヤモヤしていた心が落ち着いてきた気がした。

    「外から、長い事ずっと一人でいるのが見えた」
    「は、はぁ……あ、この前はパーキングで助けてくださってありがとうございました。えっと……どうして、私のこと……」 
    「一度会った相手の顔を記憶するのは慣れてる」

     未だ状況が飲み込めず困惑している私の目の前の席に藤真さんが腰を下ろす。そして聞かされた話は、この間会った人は彼の兄弟だということ、自分の名前を勝手に使う事が多いため彼の名前は健司ではないということ、あと私の友人はきっと彼の彼女ではないということ。どうやらお兄様の彼には、何人もの女性の影があるらしい。本当の友人なら教えてやった方がいいと忠告までされてしまった。本物の藤真健司さんは、そんな驚きの内容を無表情で淡々と話していた。
     頭の中で言われた事を必死に整理していると、藤真さんのフッと笑った声が聞こえてきて、私はそっと顔を上げた。

    「就職は諦めて、見合いでもするのか」
    「——ええ!?」
    「あの日、面接に落ちたと兄貴から聞かされた」
    「……」
    「見合い相手にすっぽかされたんじゃ、もう行き場がないな」
    「ち、違いますよっ!大学の教授です。OB紹介してくださるって言ってたんですけど、忘れられちゃったみたいで……」

     友人から聞かされた、私の元婚約者の噂——。どうやら彼、ひさしはあの幼馴染と結婚するらしいとの話。と、言うことは藤真さんとも婚約破棄になったと言う事は間違いないだろう。
     彼は先程��一度会った相手の顔を記憶するのは慣れてる�≠ニ言っていたが、あの日、藤真さんのご両親とひさしの幼馴染が顔合わせすると言って向かったレストランでは私の顔を見ていなかったと言うことだろうか。確かに私も藤真さんの母の顔まで覚えていないし、あの時は——私は車椅子だったので彼の中でまさか歩けるようになったとは思わないだろうから、あの時の私が今目の前にいる私だと思うわけもないか。

    「ところで、ここの店の値段を知ってるのか?」
    「いいえ、高そうだなとは思いますけど……」
    「ここまで粘ってなにも食わずに帰る勇気はないだろう?でも食えば君一人の財布では到底支払えない額が請求されるぞ」
    「え——」

     藤真さんはギョッとする私を一瞥して目を伏せた。まつ毛が長くて、肌も白い。本当にどこかの国の王子様みたいだ。

    「わざわざチョコを持って来てくれたと聞いた」
    「あっ、は、はい……ご迷惑でしたか?」
    「——いや。ちょうど時間が空いている。食事もできる。都合がいい、チョコのお返しをするよ」
    「えっ、あの!食べて、くれたんですか……?」
    「いや、食べてない。兄貴が食べたらしい。そのお詫びも兼ねてのお返し。」
    「そっか、残念……でも、いいんですか?」

     私が上目遣いで問えば藤真さんは軽く手を挙げウエイターを呼びつけた。慣れた様子でメニューを開いて注文する姿が、めちゃくちゃ絵になる。ぼうっと見惚れていたら注文はもう終わっていたらしく、彼が私をじっと見据えていた。私は目を泳がせながら言う。

    「お、お腹空きましたよね?」
    「さては支払いの心配がなくなったと踏んだな」
    「えっ!ちゃ、ちゃんと持ってきてますからっ」
    「いいよ。お返しと、お詫びだって言っただろ」
    「じゃあ、たくさん食べて飲んじゃおうっと!」
    「酔って絡むなよ。君——名前は?」
    「え——」

     名前……。
     終わりを決めた時、私はまだ彼を好いて泣いていた。本当はどうでもよくなって清々しく笑っていたかった。しかし、どちらでも終わりを決めたあの時の私を誇ってあげたいし、頑張ったねって褒めてあげたい。

     必ず来る気がしていた��あの日�≠�迎えてこれからも私は、生きていかなきゃいけない。どんな結末でも私は彼を愛していたの。一生懸命だった自分がいたことを忘れない。そしていつかまた、人を好きになれますように。心から笑えるその日まで自分を好きでいたい。たとえ一緒になる事ができなくても大切な人の幸せを願う。そんな愛し方もある。好きな人を好きなままで手放すことは最後の愛情。

     ——って、そう思うだけなら簡単な事。根っからの性格は、そんなに簡単には変わらないんだ。

    「名字……名前」
    「——え?」
    「名字——名前です。」
    「……」

     私たちには出会う計画があったわけじゃない。最高の出来事は、いつだって、突然起こるものだから——。


     *


     今日は、バレンタインの前日——恋の始まりの予感?それが本物になるかどうかは、これからのわたし次第だって思っていたけれど、調子づいて飲み過ぎた私は朦朧とした意識の中で藤真さんに絡み散らかすと言う失態を犯してしまう。

    「でも嬉しかったんです!藤真さんみたいなイケメンに助けられたら嬉しいに決まってるじゃないですかぁ〜!」
    「……ちょっと、飲み過ぎじゃないのか?」
    「何でっ?ねえ、何で私を助けてあげようと思ったんですかぁ?」

     藤真さんは小さくため息を吐いたあと、持っていたワイングラスをテーブルに置きながら言う。

    「助けてなんてない。絶対に失敗すると見ていてわかってた」
    「ふーん」
    「困難な道を選ばせて相手が喜んだり泣き喚いたりたりしているのをそばで見ている方が面白い。けど——運転の下手さに痺れを効かせただけだ」
    「放置プレイですか!?」
    「まぁ……嫌いではないな」
    「でもっ!藤真さんってめっちゃSですよねっ、ドS!」

     藤真さんはこめかみを抑えて、やれやれと首を振った。そうして辺りを見渡して「本当に周りが見えてないんだな」と呟いた。私はハッとして、同様に辺りを見渡す。他のお客さんがジロジロとこちらの席を見ていて私は赤面した。私はすぐに水を一口だけ飲んで、ゴホンと咳払いしたあとに少し声のボリュームを下げつつ言った。

    「でも最後にはきっと助けてくれたんですよね?無視なんて、しなかったはずですっ」
    「いいように解釈するな。俺は新しい事がしたいだけだ」
    「ん?新しいことぉ?」
    「普段なら迷わず無視してた。他人を惜しみなく助ける事は俺にとっては新しかった。そう教えてくれた人がいたから」
    「……それって、そのブレスレットをくれた人、ですか?」
    「——、」

     藤真さんは一瞬だけ目を見開いたが、さっと、ワイシャツの袖口でブレスレットを隠してしまった。私がじっと隠された部分を凝視していると、もう一つ溜め息を吐いた彼が言う。

    「別に、君のためじゃない。自分の楽しみを一つ増やしただけだ」
    「ふーん」
    「なんだ」
    「私の周りは、嘘つきばっかりだなぁ〜って!」
    「は?」
    「いいえ、なんでもありませんっ!」

     嘘だらけのあなたへ。もう信じてあげられないけれど、あなたの味方でいたかった。嘘だらけのあなたが嘘をつく理由を探してた。バレたくない嘘、優しい嘘、ただの嘘——。
     信じてあげたかった、一緒にいたかったから。嘘に気づかないふりもした、騙されたふりもしたもうあなたの嘘を信じるふりもできなくなった。もうあなたの嘘を信じてあげたい気持ちも消えてしまった。

    「止めてくれよ、こんなとこで泣くなんて事は」
    「泣きませんよ……」
    「俺は——人前で泣く女が嫌いなんだ」
    「絶対に、泣きません」
    「そう。なら良かった」

     大好きだけど、大好きだから、きっとあなたのためにならないと思った。嘘だらけのあなたを、心配ばかりする私がいた。
     あなたは私のいない世界でまた誰かに嘘をつくだろう。いつかきっと自分に返ってくる。そんな日が来ませんように。あなたが嘘を——やめますように。もうそばには、いられないけれど。


     *


     レストランから出た帰り道で私は、フラフラになりながらも藤真さんの腕に腕を絡ませて呂律の回らない口で矢継ぎ早に言う。

    「もう一件行きませんかぁ?今度は私が奢りますからっ!それとも何ですか?バカには奢られたくないですかぁ!?」
    「だから、絡むなと言ったろ。飲み足りないなら飲ませてやるよ。貧乏人の金を搾取して飲む酒は不味そうだからな」
    「とか言って!本当は情に厚いのよねっ」
    「勝手にイメージを作り変えるな……俺を知りもしないくせして」
    「ついでに不器用っ!!なんだかんだ言ってても本当はコミュニケーションを取りたいだけなんですよねっ!?」

     その瞬間、冷酷な視線を当てられて、ひくっと息を呑んだ。その隙を見計らって、絡ませていた腕がサッと解かれた。そうして彼は、投げやりの様に、低い声で言葉を放った。

    「まさか……。人と関わるのは面倒だ。ちょっと甘い顔をするとこうやって絡んでくる。できればもう、一生一人がいい」
    「……嘘つき。だって、婚約者がいたじゃない」
    「……」
    「あっ……」

     お酒の力も相まってまんまと口が滑ってしまい私は逃げるようにくるりと彼に背を向けた。が、ガシッと腕を掴まれて、ぐいっと強く引かれた。彼の顔が近づいてくる。私は金縛りにあったかの様に身動きが取れなかった。そうして至近距離で低くて冷たい彼の声が、私の脳内まで響いた。

    「お前、誰だ?」
    「……」
    「名字名前というのは、俺の元婚約者の名前だ」
    「……あの、ごめんなさい。あなたの元婚約者の名を語りました……。あなたの気を引きたくて」

     尻すぼみして言った私の言葉に彼が掴んでいた腕を力強く振り払った。その勢いで私は、地面に手を付く形で転んでしまった。藤真さんが冷たい瞳で私を見下ろしている。そばを歩く人たちが、チラチラと私に、憐れみの視線を投げて寄越す。私はその体勢のまま、震える声で呟いた。

    「私、あの……三井寿と——婚約、してました。みょうじ……なまえって、言います」

     運命の出会いは何度までならアリですか?自分のことを好きになるのって難しい。まずは自分を許してあげたら道は開けるのかもしれないけれど私はずっと、こんな自分を許すことができない。

    「ずっと言えなくて……すみませんでした……」
    「どうりで……確かに。納得がいく」
    「え……?」
    「下品で粗野なタイプか。アイツにお似合いだ」「……」
    「なるほど?まだアイツのことが好きなんだな。不憫なもんだ」
    「……っ」
    「ただ、自分の機嫌は自分で取ってくれ。他人に取ってもらおうとするな。くだらない遊びに俺を巻き込まないでくれ」
    「……。」

     知らなくてもいいことを、知らないままでいる努力って結構、大事だ。そうか、私は今でも彼のことが好きなのか……こんな形で知ることになるなんてね、惨めすぎるよ。

    「俺は、お前のような人間が一番嫌いだ」
    「……」
    「二度と、その顔を俺に見せるな」
    「——っ」

     自分の大切な人が、必ずしも善であるとは限らない。たとえそれが、悪だと分かっていても人は孤独には勝てない。
     この気持ち、どこに行くのかもわからないならきっとどの道を行っても同じことだ。私は99人からの好きよりも、1人からの好きが欲しかっただけなの。ただ、それだけだったのに……。





     *


     その場から逃げるように立ち去ったけれども、軽く走っただけで日頃の運動不足のせいかすぐに息がきれて、もうすでに歩いている始末。
     彼の幼馴染でもある彼女ばかりが、良い思いをしている。そう思う自分が嫌い。嫌だ。彼女は、なにも悪くない。私の心が狭くて器が小さくて、勝手にコンプレックスを抱えているだけなのだ。

    「待って、みょうじさん!」

     すぐには自分の名前が呼ばれた事に気が付かなかった。だって家族や友人はみんな私を下の名前で呼ぶし。ああ、そうだ。彼は名字で呼んでいたっけ。いつから名前で呼ぶようになったのか覚えてないや。……ああ、会いたいな、ひさしに。

    「みょうじさん!」

     聞いた事のある声だなと思った。もしかして、藤真さん——?とも思ったけれど、まさか、彼が追いかけて来るわけないよね。私は空耳かと疑いながらも歩きながら振り返ってみた。そこには、リハビリの担当をしてくれていた男性がいるではないか。私は訳がわからなくなってその場で固まってしまった。
     
    「すみません、突然声をかけて。えっと、何から話せばいいか、わからないんですけど……」
    「……」
    「久しぶりに見かけたので追いかけて来ました。って……俺、何言ってるんだろ」
    「……」
    「あ、僕はですね、近くで買い物がありまして、決して付け回していたわけでは——」

     そう言って目の前の人はサングラスを外した。彼にはリハビリ中に事故の事や元婚約者のことを全て包み隠さず話していた。リハビリが終わった後も気にかけて連絡をよこしてくれていた。偶然でも私を見かけてわざわざ追いかけてきてくれたのか。なんて律儀な人なんだろう。

    「は、あ……ど、どうも」

     しかし私は上手く言葉が続かない。もしかしてさっきの一部始終を見られたのではないだろうかと気まずくなり、思わず、視線を自分のつま先に落とし込んだ。

    「あの、歩きながらでも良いんですが……」
    「え……?」

     そう言って恥ずかしそうな表情で無意識に髪を撫で付けた彼に私はホッとして、同時になぜか、胸がキュンとなった。一度も彼にときめいたことなんか、なかったはずなのに。
     私たちには出会う計画があったわけじゃない。最高の出来事はいつだって、突然起こるものだ。一目惚れで好きになった人って、どんなに時間が経っても結局は好きらしい。直感で惚れたら一生もんだって、誰かが言っていたのを思い出した。

    「みょうじさんさえ良ければ、その辺のカフェにでも入って、コーヒーでも飲みながら少し話しませんか?」

     これまでの恋愛を聞く事より、これから一緒にどうしたいのか考えればいい。始まる前から恋を終わらせちゃダメだ。

    「実は私……コーヒー、飲めないんです」
    「あ、じゃあ……クリームソーダでもっ!」
    「……はい。大好きです、クリームソーダ」

     私が頷くと彼はとても嬉しそうに目じりをさげて、柔らかく微笑んだ。










     さよならはいつも 片恋 。



    (なんだか、昼ドラみたいでしたね)
    (え、見て……たんですか?さっきの……)
    (はい、バッチリ。最初から最後まで)
    (もう、今までの私じゃダメですね……反省です)
    (その、ありのままを愛してくれる人がいますよ)
    (そうかなぁー。そうだといいなぁ)


    ※『 嘘つき/あたらよ 』を題材に

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