夜桜の散りゐく頃に(2/3)

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     印を打ち込んだ日付を見るために、携帯電話を開いては閉じてそしてまた開いて確認するように眺める。当時よく通っていた行きつけの喫茶店の外はすっかり暗くなっている。半分ほどに減ったアイスティーに浮かぶ氷が溶けてカランと涼しい音がした。季節先取りの浴衣を着た女性や男性がちらほらと私服の人に混じって行き交っているのを見て私は、自分の着ている服の生地を確かめるように指先で撫でた。きょうは、夏の風物詩——季節外れの、花火大会がある日だ。


    宮城リョータ

    ごめん🙏!今日一緒に花火見れないかも!



     一時間ほど前に仕事が終わりそうにないからというメッセージの返事の、簡潔ながらも気持ちのこもった親友からの文章に口元が緩む。昨夜駄目もとで彩子とリョータくんを花火大会へと誘ってみた。彩子は出張で県外にいるのだそう。ならばと珍しい組み合わせではあるが、リョータくんと二人で行く事が決まったのだが結果、それも叶いそうにない。

     そう言えば……何年か前にも同じようなことがあった。あの時も花火大会に当時の恋人——藤真さんを誘って、時計の針がてっぺんを回りそうな時刻に彼から着信があり通話ボタンを押して暫くにパソコンのキーボードを叩く音が耳元で聞こえて来た。
     息抜きに、電話を掛けてくるだなんて——会えない時間を埋めてくれているようで純粋に嬉しかった。忙しい合間を縫ってというよりはその忙しい時間を押してまで電話を掛けてくれた事に浮かれて「このあいだ話した花火大会は行けそう?」と話題にしてみたら、あっさりと快諾してくれたのだ。そんな思い出に懐かしさを感じる。
     リョータくんとの約束が破談したいま、花火の打ち上げ時間まで約三十分程になったところで、持っていた携帯電話が震えた。液晶にはこれまた久しく目にした相手の名前。彼女とは去年、職場を退職して以来、絡む事もなかったのだが……。

    「……もしもし?」
    『突然お電話してしまって、すみません。名字さん、お久しぶりですね。みょうじです』
    「はい、お久しぶりです。お元気でしたか?」
    『はい、変わりありません。この間——会長……いえ��社長�≠ニ、お会いしたと聞きまして……』

     会長——。きっと藤真さんのことを指しているのだとすぐにわかった。その後に私にも伝わるように『社長』と言い換えた彼女は今でも彼の元で働いているのだろうか。

    『あの……今日は都内で、花火大会があるのは、ご存知でしたか?』
    「ええ、友人と見にいく約束をしていたので都心まで出てきたのですが予定が変わってしまって」
    『そうだったのですね……それは、残念ですね』
    「はい……本当に。」

     いつもそんなオチですね——とでも言いたげに電話の向こうの相手が苦笑いをしたであろう空気を感じ取った。私の方も思わず苦笑いで受け答えをしてしまう。
     私が土壇場になってから、こうして約束の取り消しに至るのは何もこれが初めてではなかった。数えられる程度ではあるが過去に数回あったのでその都度に落ち込むことは最初と二回目で辞めたはずなのにやっぱり気持ちは沈んだままだった。こんな事が続くようになったきっかけは——あの寿の成人式の時に、約束を破られてからのようにも思う……いや、社会人になったら、よく起こる現象なのだろう。私の日頃の行いが悪いせいかもしれない。せっかくお洒落して来たのにな……。

    「でも、だいじょうぶです。慣れてますから」
    『大人になると予定の変更は珍しくありません』
    「そうですね、仕方ありませんよね」
    『実は、久しぶりに日本に帰国しておりまして、なんとなく、名字さんを思い出してこうして連絡した次第です。すみませんでした、では——』
    「はい、連絡……嬉しかったです。じゃあ——」

     耳にする声色は優しかったもののきっと難しい顔をして話しているのだろうと想像して、彼女に精一杯に明るい声で返し通話を切った。しかし、胸にぽっかりと穴があいたようで、なのにお腹のあたりが絞められているような気になった。もしかしたら同じ空の下で彼、藤真さんも花火を見ているかもしれないなんて欲が出て罰が当たったようにも思えて居た堪れなくなった私は店を出た。

     電車の到着時刻と現在の時間を確認するために取り出した携帯電話がまた震え一瞬期待をしたが表示されたのは先ほど連絡をしてきた——きっと現在も彼の秘書を務めているのであろうみょうじさんの名前だった。

    「……はい、もしもし?」
    『度々申し訳ございません。もう、お帰りになられてしまいましたか?』
    「え?いえ……まだ、駅に向かっている途中ですけど……」

     なら良かったです、と。少し安堵気味に彼女が言った。私は歩き進めていた足を止めて道の端に寄って、通話に意識を集中させた。

    『社長は出先より戻られて滞在しているホテルにいらっしゃいます。これから書類の作成と確認に取り掛かられるようです』
    「は、はあ……」

     彼女の言いたいことの意図を理解出来ずに私は間の抜けた返事をしてしまう。

    『季節外れの、花火大会のようですが——実は、社長のいるホテルからご覧頂けるんです……。』

     そこまで聞いて、彼女が何を伝えたいのか理解できた。『お気を付けてお越しください』と言うのを聞き終えてから駅まで急いで向かった。少し高さのあるヒールは、早足についてくるように、大きな音を立てて逸る気持ちを煽る。
     いきはよいよい、などと良く言ったもので気が付けばあまり立ち寄ることのない、と言うよりは私には縁のない、高級ホテルの前に着いた。夜になり気温が幾分か下がったとはいえ、夏が迫っていることに変わりは無く急ぎ足で歩いたのも手伝って、じわりと全身に汗をかく。額に張り付いた前髪をそっと整えてからエントランスに入ると、彼女が待ってくれていたようで、エレベーターの前に、以前と同様に姿勢よく凛と立っていた。

    「私の事はどうぞお構いなく。それよりあと十分ほどで、花火が上がります。部屋へは、そのままお入りください」

     連絡をくれた事にお礼を言おうとした私の腰に彼女は手を添えエレベーターへ進むように促す。なるべくヒールの音がしないように歩き無機質な扉の前に立ち、私は控えめに扉を叩いた。

    「入れ」

     ノックをしているのはみょうじさんだと思っているのだろうなと、部屋の中から聞こえてきた返事とほぼ同じく扉を開けて中に入ると、見た事のない驚いた顔で、藤真さんが私を凝視した。

    「——こ、こんばんは。お、お疲れ様です……」

     目が合わせられなくて食い込んだ慣れないヒールの紐のせいで、赤くなった足元を見た。今度は冷や汗が出そう。無断で来た事に対して怒られるかと身構えたがいつまでも返事がない。ガタンと椅子が動いてから立ち上がる音が聞こえたので、私が恐る恐る彼の方を見ると「こちらに来い」という顔をしていたので、少しほっとする。

    「連絡もせず許可なく来るのは金輪際お断りだ」
    「……」
    「今回ばかりは、目を瞑るよ」
    「……はい、すみません」
    「なんだ……その格好に、キャップか?」
    「……は、流行ってるらしくて、今の若者には」
    「……」

     私がそろそろと近付くと彼は私の手首を掴んでそのまま腰へと腕を回し私を抱き寄せた。うお、と声が出そうになったがこれはもしかすると海外の挨拶のようなものかも?と思い、振り払う事はせずに、私はそのまま密やかに声を発する。

    「……怒って、ますか?」
    「そのキャップを取るなら見逃すよ」
    「……。」

     彼から顔を反け、彼の胸の辺りに両手を当てて相手を押しやると簡単に距離が保たれた。けれど彼は何も言葉を発しない。私が会う前まで感じていたわだかまりを消すのには充分だったのだが、少しだけ、悪戯心が働いたので乗ってみることにした。

    「可愛くないですかぁ?この、キャップ……」
    「お世辞にも、似合っているとは言えないな」

     既に笑ってしまっている私に褒め言葉の代わりとして、何とも軽蔑的な視線を寄越される。彼が私の被っていたキャップの鍔に手を添えたところで、ドン!という音が空に響いた。
     窓の外を見ると迫力こそは無いが少し遠くで、キラキラと花火が大輪の光りを作っては、散っていた。


     *


     彼と一緒に窓際で花火を鑑賞してホテルを出る際、彼がわざわざ外まで見送りについてきてくれた。もちろん断るつもりだったがそれを言ったら目で殺されそうだったので、私は口を噤んだ。
     すでにタクシーを手配してくれていたようで、ホテルの目の前で、私を見送った姿が見られると都合が悪いのか、彼が歩き始めたのにならって、私もそれに着いていく。そのとき、履き慣れないヒールに足を取られてよろけた私は乱暴な運転でこちらに向かってくる、一台の原付バイクに気づいていなかった。

    「——危ない!」

     藤真さんの咄嗟の判断で原付バイクに轢かれる事は免れた、が、それと引き換えに私は今、彼の腕の中にいた。本日二回目のそれは先のホテルの時の状況とは確実に違う熱を帯びていて彼の腕は力強くも、微かに震えていた。

    「すっ、すみません。助かりました、あり……」

     言いかけた言葉を飲み込んでしまったのは——彼が鼻先のくっつきそうな程に顔を近付けて見つめてくるからであって、金縛りにあったように、私の体が硬直して動かなくなってしまったから。

    「——その後、どうだ?」
    「……大丈夫、ちゃんと……話し、ました」
    「……」
    「誰にでも、過ちは……あるから……」
    「……過ち?」

     彼の神経質で繊細で綺麗な指先が、キャップの鍔を持って少しだけずらした。そして私の左瞼に付いている切り傷に触れる。そこは過去——藤真さんと恋人同士だった頃によくキスをされた所。優しく、何度も彼の唇が、触れた場所だった。

    「なんだよこれ……どうしたんだ、この傷は」
    「……っ、洗い物を……しててっ」
    「お前は……顔で皿を洗うのか?」
    「時々ね……」

     グッとより顔を近づけた藤真さんは開いた手で被っていたキャップを、私の頭から取り去った。目を反ける私に彼が、「こっち見て」と、囁く。

    「またそうやって……ディフェンスの動きを目で読もうとする——」
    「良いから、早く……俺を見ろ」

     私の言葉を遮って語気を強めて言った彼に観念して私がそっと彼と視線を合わせる。目が合った瞬間に少し目を細めて彼は眉間を寄せた。そっと優しく左瞼の傷口に触れる彼の親指と腰に回されたままの力強いその腕の熱に息をしているだけで精一杯だった。

    「……三井、か?」
    「……もう、いくらか傷口、くっ付いたから」
    「答えろ、三井にやられたのか?」
    「……私と、彼の問題だから……」
    「あの野郎……」
    「藤真さんは——関係ないの……」
    「……」
    「本当に、関係ない。だいじょうぶ」
    「……うん」

     珍しくそう弱々しく返事をした藤真さんは勢いよく私の腕を引いて、いま歩いてきたはずの道を戻っていく。引っ張られるようにして着いていく私が見た彼の後ろ姿は冷静さも、いつもの余裕も一切見受けられず、私は言葉が出なかった。手を引かれるまま、ホテルの地下の駐車場に向かった藤真さんは高級車の助手席に私を乗せてからすぐに運転席に乗り込み、荒々しく車を発車させた。
     車内ではずっと無言だった彼は、車が目的地に到着すると車を降りて助手席の扉を開けた。私を無理やりに近いかたちで降ろし、先と同じように私の腕を取り目の前の建物へと入っていく。そこは——私と寿が住む、マンションだった。
     エレベーターは使わずに私たちの部屋へと真っ直ぐに向かう藤真さんの横顔は、今までにも見たことのある無表情だったけれど、そこには確かに怒りが込められていたのが、私にはわかった。

     インターホンを押した彼と間も無くして開いた玄関の扉。部屋着のままでそこに立っている主人(あるじ)の表情は始めこそ驚いているようだったけれど、次第にどんどん般若の如く歪んでいく始末。しかし藤真さんは無表情のまま、私の背中をとん、と中へと押しやった。前のめりになるかたちで中へ入った私を見届けたらしい藤真さんが、低い声で言い放つ。

    「もっと大切に扱え」
    「……あ?」
    「元は俺の会社の従業員だぞ。これ以上、手荒な真似を見過ごせない」
    「……はぁ?何の話をしてんだ、テメェは。だいたい、何で一緒にいんだよ、お前ら」
    「お前に、バスケットをやる資格なんてない……お前はプライドもクソもない、ただのゴミだ。」
    「……」
    「お前にはまだ早い。世帯を持つなんて事はな」
    「——喧嘩、売ってんのか?藤真、テメェ……」
    「……」

     藤真さんの声を背後に感じていた時、彼がそのまま玄関を立ち去る革靴の音が耳に届いた。階段を降りていく音が遠ざかっていくと、我に返った寿が「オイ、ちょっと待てよ!」と、藤真さんを追っていく。間も無くしてバタン!と玄関の扉が閉まって、他には何も聞こえなくなった。私は、目を瞑って、その場にしゃがみ込んで声を殺して泣くことしか出来なかった。


     *


     俺はそのまま藤真の後を追った。マンション前に停めてあったらしい車に乗り込んだのを見て、俺は運転席の窓をダァン!とグーで叩く。こちらを一瞥もせずに、奴が運転席の窓を開け放った。

    「お前ら、何なんだよ!?もう、終わってんじゃねーのかよっ!?あ?コソコソ会いやがって!」

     ゆっくりとこちらを見上げた奴が鼻先で笑ったあと「聞いてないのか?本人から」と、言った。

    「深くは聞いてねーよ……これ以上、嫉妬深くて小せぇ男だって思われたくねえ」
    「それじゃあ——今俺の目の前にいる男は大きいのか?それとも、小さいのか」
    「——っ」
    「悪い、気が立っている。嫌味で言ったつもりはない」
    「気にしてねーよ。もちろん、あいつの事も信じてる」
    「正解だと思う。彼女は良い子だ……今時珍しい心が透明で素直。立派な、女性だと思うよ」
    「……」

     そのまま藤真はエンジンを掛けた。窓淵に手をついたままの俺はわざとらしく鼻を鳴らしてその手を離し、言い放つ。

    「高校時代テメェらはウチに負けてんだろうが」
    「だから俺は、お前に負けてると言いたいのか」
    「だろうよ。それが何なんだよ、今更になって」
    「確かに大切なのは経過じゃなく結果。道理だ」

     俺はその言葉に勝ち誇ったように静かに口角を吊り上げた。そうだ翔陽は湘北に敗北している。それはどうにも変えることの出来ない事実だったはず……なのに——、

    「だが、お前と俺は違う——」
    「あ……?」
    「俺は三年間、しっかりバスケットと向き合っていた。それにおいては��経過�≠ェものを言う」
    「……」
    「勝つだの負けただのそんな次元の話じゃない。彼女を幸せにする上では��経過�≠ェ重要なんだ」

    「お前と話していると疲れる」と言って、視線を正面に戻した藤真に対して俺は楽しそうに高笑いをする。それが不愉快だったのか、無表情の裏で奴は明らかに不服そうにして、眉を顰めていた。

    「幸せは誰かの不幸の上に成り立つ。逆を言えば人の不幸の上に、幸せは成り立たない」
    「……何が言いてぇ」
    「幸せになるという事はそれだけの責任があるということだ。肝に銘じておくんだな」
    「……オッケー。けどよ、なんか分かったぜ俺」
    「……」
    「お前はやっぱり名前が好きになるようなタイプの奴じゃねえ」

     俺は別れの言葉をかける事なく、くるっと振り返り、来た道を戻る。未だ窓が開け放たれていたからか「俺も、改めて分かったよ」と、奴の声がしっかりと俺を追い越して聞こえたので俺は足をピタリと止めて、再度振り返った。

    「お前の生涯において彼女しか、いないわけが」
    「……」
    「下品で粗野なタイプだ。彼女しか無理だろうな扱うのは。所詮、情だ。気づいてないのか?」
    「藤真、テメェいい加減に……」
    「魔が差すという事もある。女は寂しさに流されやすい生き物だからな」
    「前に言われてた言葉、そのままそっくり返してやるよ。テメェも、逃げたんだろ?あいつから」
    「……」
    「確かにな……あいつも女だ。好きじゃねぇのに寂しさから過ちを犯す事もあるかもしれねーな」

     エンジン音に負けないように声を張って、俺はまた奴の車に背を向けて歩き出した。そのとき、バタン、と。車のドアが開いた音がした気がして反射的に俺の歩む足がまた止まった。

    「彼女の……名誉のために答えてやる。あと——俺の、プライドに賭けても誓う」
    「……」

     背を向けたままでいる俺の背中に、抑揚のない奴の通った声が、容赦なく突き刺さる。

    「過ちなんてなかった」
    「……ったりめーだろうが。でもテメェの口から聞けてホッとしたわ」
    「……」
    「これで魔が差して抱いたなんてほざいてみろ、本気でテメェの事ぶん殴ってるところだったぜ」

     両手をポケット入れ、奴には背を向けたままで逆に俺は抑揚を付けてそう吐き捨てくるりと振り返り口角を吊り上げる。正面、車を降りて立っていたらしい藤真と視線がかち合う。そうして無言のまま、真っ直ぐに俺を見た藤真が言った。

    「真実しか、なかった」
    「は……?」
    「俺と名前は初めての晩、真実で結ばれていた」
    「——!」
    「俺と名前の間に起こったすべての出来事が——真実だった」
    「……っ」

     俺は奴の目の前——鼻先が付いてしまうほどの距離まで近寄って、そのツラを見下ろし舌を打ち鳴らす。その圧に怯む事なく奴はやや首を傾げて見せると、まさかの言葉を俺に投げて寄越した。

    「お望みなら、いつでも1on1してやるよ……」
    「……あン?」

     こんなにも世界は、鮮やかな光で溢れている。楽しいこともある、生きていてよかったと感じる瞬間もある。風に吹かれながら、柔らかな空気を吸い込む、美味しいもので満たされる。明日を、心待ちに眠りに落ちる。確かにそんな瞬間だってたくさん、あるはずなのに——

    「その代わり——負けたら坊主だ、三井寿。」
    「な……っ」

     俺はやっぱりいつまで経っても過去に囚われたままの、囚人だ……。


     *


     そのまま玄関で座り込んでいた私の目の前——扉が開いた。私を一瞥することなく室内に入っていった彼にならって私もゆっくりと立ち上がり、その後を追う。彼はすぐにリビングのソファーに腰を下ろして頭を項垂れさせていた。名前を呼ぶのも躊躇われる雰囲気に私はその背後、少し離れた位置に立ち尽くしたまま押し黙っていた。暫くすると、深呼吸するように息を大きく吐いた彼が天井を見上げる。視線を正面に戻して、ぽつり、向こうから先に「名前」と、名を呼ばれた。

    「はい……」
    「どういうことか、ぜんぶ正直に説明しろぃ」
    「え、っと……リョータくんが、仕事で来れなくなって、それで……偶然——」
    「……」
    「ううん……自分の意志で、会いに行った。藤真さんのところに……」
    「……なるほどな、そういうことか」
    「……ごめん。」

     ぴん、と張り詰めた空気の中、自然と溜め息が出るのは、仕方がない事だった。それくらいに、私たちの関係は破綻しているのだ。
     出会って数十年、付き合って破局して再会して今年のクリスマスを迎える頃には、復縁してから四年目に突入する。思い返してみれば時間の流れだけは、あっという間だったなと思う。

    「アイツが、忘れられねーのか?」
    「ううん、でも……大切な時間だった。それを、寿にも、ちゃんと認めてもらいたいとは、思う」
    「……」
    「私は、過ちなんてなかった……藤真さんとは、真実しか、なかったの」
    「アイツと……同じようなこと言うんだな……」
    「——、」

     不意に蘇る四年前の記憶——あのとき藤真さんにも同じような言葉を投げつけられた。でも今度はもう、動揺しない。同じ過ちは、繰り返したくない。もしも伝わらないのなら私と寿が共に歩む未来はこれ以上、存在しないのだと思う。

    「——当たり前でしょ。愛し合ってたんだもん。同じことを思って当然でしょ?」
    「……」
    「いい加減な気持ちで、寿以外の人と結婚を考えたりなんて私が、するはずがないじゃん」
    「……」
    「それでも私は——寿を選んだことに後悔はしてない。本当に寿のことが……忘れられなかった」
    「……っ」
    「それもひっくるめて私を受け止めてくれないのなら、私はもう——寿とは一緒にいられないよ」
    「——。」

     常に人間という生き物は何か努力をし続けないといけないのだろうか。挑戦し続けなきゃ価値のない人間になってしまうのだろうか。

     自分を保つことで精一杯な時だってある。それでも私は幾度となく誓ったのだ、強くなる、と。もう現実からは、逃げないって——。





     *


     藤真さんと寿が直接対決をしてから二日後——私は藤真さんに会いに行った。彼に電話をした時向こうはいつも通り仕事のやり取りでもしているみたいに淡々と受け答えに応じ、そうして都内のカフェで待ち合わせをした。間も無く彼も海外へ戻る頃だろうと思ったから、連絡をしたのだ。
     先に到着したかと思っていたが、はたして彼が先に中の椅子に座り、パソコンを広げていたので驚いたが意外とそういう一面もある事を思い出しなんとなく、心の奥がほんのりと温かくなる。

    「藤真さん、お待たせしました」

     チラッと私を一瞥した彼は、すぐにパソコンの画面に視線を戻して、「俺も今来たところだ」と言った。片手で目の前に座るよう促したその仕草はまるで、職場の面接にでも来たようだと私は、ふ、と小さく、バレないように笑った。
     促されるまま席に腰を落ち着けウエイトレスを呼び、コーヒーを注文する。あえてこのカフェを選んだ事を彼はどう思っているのだろう。ここは過去に私が彼の会社に勤めていた頃に一緒に美術館に行ったバレンタインの日の帰りに彼を誘ったあの時と、同じカフェだった。

    「……なんですか?これ」

     飲み物が到着する前にパソコンのキーボードを叩きながら彼が左手ですうっと私の目の前に何かを滑らせた。見れば何やら��外用薬�≠ニ書かれた白い袋。表面には��一日数回塗布�≠ニ印字されている。しばらくしてから、藤真さんがパソコンをパタンと閉じて、私の質問に言葉を返してきた。

    「瞼に塗るといい」
    「え……?」
    「関西の知り合いに、薬剤師がいる」
    「……や、薬剤師ですか?凄いですね」
    「薄く塗るんや——と、指示を受けた」
    「……ぷっ。関西弁似合わないですね」
    「……ほっといてくれ」

     その袋を手に取ったとき丁度先ほど頼んだ飲み物が運ばれてきて私はぺこっと頭を下げる。手に持った袋には��南龍生堂�≠ニ薬局の名前が記されいた。本当に顔が広いんだなぁと感心してから、お言葉に甘えてそれを受け取る事にした。お代を払おうと財布を取り出した私にやっぱり軽蔑的な視線を投げて寄越した彼に面くらい「ありがとうございます」とお礼を言って、私はそっと財布を鞄の中に戻した。

    「その後——どうだ」

     彼と再会してから投げかけられるその質問は、これで何回目だろうか。その度に私は何と答えたら正解なのだろうかと悩んで、苦しかった。

    「うまく誤魔化せたか?」
    「……」
    「誤魔化せたは言い方が悪いな。元は俺の失態だ急にマンションなんかに押し掛けて、悪かった」

     私はまたふっと笑って目を伏せ「大丈夫です」と言葉を返した。コーヒーカップを持ち上げ一口飲んだとき、不意に藤真さんと視線がかち合う。

    「ちゃんと説明しました。変な言い訳はせずに」
    「雨降って地固まる、ってやつか……」
    「ごめんなさい、迷惑かけてしまって」
    「いや、俺もどうかしてた。お前に会うと、俺はどうも、いつもの調子を保てないらしいな」
    「……」
    「もう会わない方がいい。とは言っても、二度と会うことはないと、思いますけど……。」
    「——。」

     初めて藤真さんと食事を交わした時に言われた台詞——わかっている。彼はこうやって、あえて冷たくして、私を遠ざけようとしているという事を。でも、これじゃあまた、同じ事を繰り返してしまう気がする。友達に、なれればよかった……けれど藤真さんはきっと終わった恋は一つのフォルダに分けて、さっさと次に歩いていってしまう人だ。過去を振り返らない人。それも、もう私は痛いくらいに、わかっているのだ。

    「——略奪愛は趣味じゃないと過去に言った事を覚えてるか?」
    「え……。あ、はい……」
    「略奪愛は趣味じゃないが、アイツがいつまでもこんなことを繰り返してるなら——」
    「……」
    「もう、遠くで見守るなんて選択肢を選ばない」
    「……」
    「次はもう、誰にも渡さない」
    「藤真さん……。」

     きっと今を覆すことはない。だったら、綺麗な思い出のままがいい。体温なんて、知らない方がいい。手のひらの感触も唇の柔らかさも、特別な言葉も、声の湿度も、細める目の甘さも。何一つ知らない方が、胸に、記憶に、刻まれずにすむ。

     藤真さんはパソコンを鞄に仕舞って席を立つ。私の分と合わせたお代を隅に置いた彼がそのまま立ち去ろうとしたので私は「藤真さん」と、彼を呼び止めた。すぐに背後で足を止めた気配。私は座ったままで「綺麗——でしたよね」と、言葉を紡いだ。膝の上では、彼から渡された薬局の袋を握りしめた私の両手が震えていた。

    「綺麗でしたよね?……花火。」
    「……」
    「最後に一緒に見た花火、綺麗でしたよね?」

     彼と別れた四年前、最後のデートも、花火大会だった。あのとき、夜空を咲き誇っていた花火と同様に数日前に一緒に見た花火だって、とても、綺麗でしたよね……?
     ねえ、藤真さん……。お願い、否定しないで。もう、私を無理に突き放さないで。突き放されると私はまた、あなたの影を追ってしまうから——

    「……それは認める。どっちも(・・・・)、綺麗だったよ」
    「……、」
    「それに、ここの珈琲も相変わらず美味かった」
    「……っ」
    「名前、元気でな。」
    「……藤真さんも、どうか、お元気で。」


     ——進みたい、変われない。今日も明日も世界はこんなにも暗い。毎日は、こんなにもつらい。でも、もうそんな言葉に逃げ続けられるほど子供じゃなくて、それが余計に私を苦しめる。逃げて一瞬楽になって、でもその次は?きっとまた同じことの繰り返しだ。
     もっと私が強かったらと思う。それとももっと弱くてこの世界に未練がなかったら、この世界を美しいと思いもっと見ていたいと、いろんな事を知りたいと思うのだろうか。死にたくない、と。

     だからそれなら、自分の力で生きていかなきゃいけない。もう誰かに頼っては生きていけない、自分で道を、人生を選択しなきゃいけないんだ。��強くなる�≠チてこんなにも難しくて、苦しい。

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