まぶたをうっすらと透かして、白んだ光がゆっくりと射し込んでくる。カーテンの隙間から覗く朝の気配は、まだ静けさを残していて、街のざわめきも遠く、ひとときのまどろみに私を浸らせていた。
 背中に、温かい重みを感じる。伸ばした指先に触れたのは、しっかりと私を抱きしめている腕。気づかないうちに私は彼に背中から包み込まれていたらしい。胸元にまわされたその腕に、そっと指をからめると、彼の呼吸が、小さく揺れるのが伝わった。

「……おはようございます」

 寝起きのかすれた声。耳元にかかるようにして囁かれたその声に、私はくすぐったくて肩をややすくめる。

「ん……おはよ。」

 背中にあたる彼の体温がどこまでも柔らかい。無言のまましばらく彼は、私の髪に顔を埋めて、動かなかった。まるでこのぬくもりを手放したくないとでも言うように。

「……夢じゃ、ないんですよね」

 ぽつりと呟いた彼の声に、私は思わず笑う。

「うん。夢じゃないよ」
「ほんとに……?」
「ほんとに」

 すると、腕に込められる力が少しだけ強くなった。私は身体の向きを変えて、彼と向かい合う。瞳が、そっと重なる。

「……変ですね、なんか。ぜんぶ見せたあとに、こうして顔見るのって」
「……ぜんぶ?」
「……えー。言わせんでくださいよ。恥ずかしいなぁ、もう」

 頬を少しだけ染めて目をそらす彼の姿が、なんだか今まででいちばん愛おしく見えた。私はその頬にそっと手を添えて、指先で髪を撫でる。

「昨日の夜……ほんとうに、しあわせだった」
「……俺もです。泣きそうなくらい。ていうか、
ちょっと泣いてたかも……」
「ふふ、知ってる」
「うわ、やめてくださいよ……記憶に残さんで」

 そんなやり取りをしながらもふたりの顔はどこまでも近く額を寄せ合って互いの呼吸を感じ合うように静かに見つめ合った。

「……ねぇ」
「はい?」
「これからもさ、こうしていけるかな。ちゃんと話して、ちゃんと抱きしめ合って……」
「もちろんです」

 そう言って彼は私を再び腕の中に引き寄せた。そうして背中を優しく撫でるようにして、やわらかな声で続ける。

「もう、ちゃんと決めましたから。」
「……ん? なにを?」
「逃げないし、黙らない。言葉を惜しまないって
……あなたにだけは。」

 その声が胸の奥に降り積もる。どこまでも穏やかで、あたたかい朝だった。満ち足りていて怖くなるくらいに……。それでも私は彼の胸元に顔をうずめ、目を閉じた。このぬくもりがほんとうにいま、私のものなのだと。そう何度も心の中で、確かめるように──。


 *


 シャワーを浴びて身支度を整えたあと、私は、キッチンに立った。とはいえ、昨夜の余韻もあり凝った料理をする気力はなく冷蔵庫にあった卵とベーコンをさっと焼いてあとはトーストと果物を添えるだけの簡素な朝食だった。それでも食卓の向こうでやや寝癖のついた髪のまま、コーヒーを啜っている彼の姿がそこにあるだけで、なんでもない朝が、どこか特別なものに感じられた。

「……すごいですね、これ」

 と、彼がパンの端をちぎりながら呟いた。

「なにが?」
「いや、こういうの。普通の朝ごはんっていうか
……誰かが俺のために用意してくれた、ごはん。あんまり、なかったんで」

 私は言葉を飲み込んだまま、テーブルのうえのカップに目を落とした。誰かが自分のためにただ一緒にいる時間のために、なにかをしてくれる。それは彼にとってはたぶん想像よりずっと珍しいことだったのかもしれない。

「……食べて?」

 そう小さく言って彼の皿にベーコンをひと切れ多く乗せた。それを照れくさそうに笑いながら、彼はフォークを手に取る。
 静かな時間が流れる。カーテン越しの光はやわらかく、テレビの音も携帯の通知もないこの朝がまるで、世界にふたりきりでいるように思えた。ふと、そのときだった。

「……ねぇ、名前さん」
「んー?」
「もしかしたら近々……福岡に拠点、戻すことになるかもしれないです」

 こんがりと焼けたパンにバターを塗ろうとしていた手が、ふと止まる。

「え……?」
「正式決定じゃないですけど……まだ、内部での調整中。でも、上からそういう話が来てて」
「……ヒーロー活動の、拠点?」
「はい。こっちの任務が落ち着いたら次の段階として、地方再構築の一環で戻ってくれって」
「……」
「たぶん……しばらくはそっち中心になるんじゃないかって話です」

 彼はあくまで淡々と語っていた。けれど、少しだけ、カップを持つ指が強ばっていたような気がした。

「それって、いつ頃……?」
「まだ。数ヶ月先か、もしくは──明日か」
「……」
「でも……ああ、なんでだろうな。今、言っときたかったんですよ。こういうふうに普通の時間を過ごしてるときに」
「……うん」
「なんか……あなたには隠し事、したくなくて」

 彼の横顔は、朝の光に照らされていて、どこか子供のように素直だった。この時間が彼にとってどれほど貴重なものなのかを痛いほどに感じた。

「ありがとう……言ってくれて」
「嫌です? 俺が、遠く行くの」

 ふいにそう言われて私は、ぎこちなく笑った。いや、笑ってしまうしかなかった。だって──

「そんなの、嫌に決まってるでしょ」

 そのひと言に彼の手がふと止まり、次の瞬間、とてもとても嬉しそうな顔をして、そして優しく私の指にそっと触れた。
 それ以上の言葉はどちらからもなかった。でもわかっていた。この朝が特別なのは光のせいでもコーヒーの香りのせいでもない。二人がそれぞれの心の奥で、少しずつ��これから�≠�考え始めているからだってことを。


 *


 それから数日が経った日の夜、いつものようにベッドに横たわりながら私は、スマートフォンを耳に当てていた。

「……もう布団、入ってる?」
『入ってますよ。今日はちょっと早めに休もうと思って』
「そっか。めずらしいね」
『名前さんが朝弱いの、俺知ってるから。だからなんか、朝の時間をちゃんとくれる人に、俺も、できるだけ合わせたいっていうか』

 くすぐったいような、でもまっすぐすぎるその言葉に私はふと笑ってしまった。画面越しに顔は見えなくても彼の声が今日もあたたかく耳をくすぐってくる。けれど、その夜は少しだけ違った。

『あのさ、名前さん……。ちょっと、まじめな話してもいいです?』
「うん、どうしたの?」

 間があった。けれど、その間が、彼の誠実さを表している気がした。

『福岡の件。実は、正式な連絡、もう来ました』
「……、そう、なんだ」
『異動は二週間後です。任務は主に九州圏の広域警戒網の整備と若手の育成。あと、ヒーロー育成校との提携で現地での講義も始まるみたいです』
「わぁ……忙しくなりそう、だね」
『はい。でも──今までみたいな機密任務よりはずっと穏やかな内容ですよ』
「そっか……」
『やっと誰かのすぐそばにいる活動ができる気がします』

 その��誰か�≠ノ、私も入っているのかどうか。そんなことを聞くのはいささか野暮すぎる。でも彼の声にはたしかに、あの日の朝とおなじ温度が宿っていた。

「福岡、……もう住む場所、決めたの?」
『いえ、前の家そのままなんで。そこ戻ります』
「ふうん」
『事務所は福岡市内です。前のとこから、移動する予定で』
「そっか……」
『海が見える高台のビルを候補にしてます。まだ改装中ですけど完成したら羽根広げるにはちょうどいい場所で──』
「へえ……いいなぁ」

 うっかり漏れたその一言が、ほんの少しだけ、彼を黙らせた。けれどすぐに、少し照れたような笑い声が続いた。

『来ます?福岡。夜景きれいですよ。……あと、朝も。うまいもんもたくさんありますし』
「仕事、あるし……簡単には行けないよ」
『わかってます。でも……誘ってみてもいいかなって思ったんです。言ってもいい相手がいるって悪くないですね』

 静かな夜に、言葉は二人の距離をそっと照らす。彼の未来のなかに少しでも自分が存在しているのならそれは、どんな約束よりも深くあたたかい。

「……まだ先のことだけど。うん。私も、考えておくね」
『ありがとうございます。そのときは、また隣で、朝ごはん、食べてくれます?』
「……うん、喜んで」

 カーテン越しに見える月は、もうだいぶ欠けていたけれど二人の声のやりとりは満ちていく途中の光みたいに穏やかに、心を照らしていた。

『……じゃあ、寝ましょうか』
「うん、だね。」
『おやすみなさい、名前さん』
「……うん、またね。」

 スマートフォンの画面がふっと暗くなる。まだ少し熱を持ったそれを私はそっと胸元に抱き寄せた。彼の声を、体温を、今もまだ、肌のどこかに感じているようで、それを手放すのが惜しかったから。そうして天井を見つめながら目を閉じる。

 福岡──。彼がそう口にしたとき、一瞬、胸がきゅっと締めつけられたのは、なぜだろう。会えなくなることが寂しいのか。それとも私のいない場所に彼が未来を見ようとしていることが怖いのか……。けれど、それでも私のなかにはちゃんと「行ってらっしゃい」と言える自分がいた。
そしてその��いつか�≠ェ来たとき、彼の隣で朝を迎える自分を、どこかで願っている私もいた。

「……おやすみ、ホークス。」

 小さく囁いて、目を閉じる。きっと、彼も今、同じ月を見上げている。そのことだけが、今夜の私を、少しだけ強くしてくれる気がした。


 通話を切ったあとの部屋はやけに静かだった。指先に残った熱が、まだほんのかすかに耳の奥に滲んでいる。

「あーあ。遠距離ったい ……」

 呟いて天井を仰いだ。見慣れたこの仮住まいの部屋もあと数週間かしたら、もうここにはいないのかと思うと、どこか夢のような感覚すらする。
 いつもは羽根で消す照明。今日はなんとなく、音を立てずに立ち上がり、照明のスイッチに手をかけた。部屋の灯りがゆっくりと落ち、淡い月光だけが、窓の向こうから差し込んでいる。
 ──遠いな、と思った。彼女のことが。たった今まで、声を交わしていたばかりなのに。あんなふうに笑ってくれて、約束もしたばかりなのに。それでも物理的な距離以上に目に見えない何かがふたりのあいだに流れている気がして、胸の奥に小さな穴が開いたようだった。

「なんでこげんタイミングなんやろ……」

 呟きは闇に消えていった。それでもカーテンの隙間から射す月の光は、顔の輪郭を、やわらかく撫でていた。
 誰もいない夜。けれど確かに胸の奥では誰かが生きているような気がした。


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