灰崎と木野と路地裏と

「何してんの」

 そんな冷たい声色とともに、乾いた衝撃音が響いた。灰崎は閉じかけていた鉛のような瞼を、無理やり押し上げる。霞む視界に映ったのは、この状況にはあまりにも場違いな、女。彼女は拳を握りしめた男の、その太い手首を、華奢な腕一本で易々と捕えていた。相手も灰崎に怪我を負わされているとはいえ、あの体格差にあの形勢はあまりにミスマッチだ。彼女はその手の力をどれほど強めたのか、男の汚いうめき声が鈍くひねり出される。

「こんなガキ相手に、恥ずかしいねアンタ」

 相手を煽っているとしか思えないその台詞。案の定逆上した男は、握りしめられた手を無理やり解くと、醜く表情を歪めてその女に向かって拳を振りかざした。灰崎は思わず、無意識的に、弾かれたように立ち上がる。駄目だ、間に合わないと思った。
 しかし次の瞬間、男の拳はコンクリートの壁を突いていた。にわかに信じがたいことだが、女が片手一本で往なしたらしい。男は遅れてやってきた、割れるような拳の痛みに唸り声を上げる。女は何か低い声で一言二言呟いた。猛烈な痛みと屈辱に、男の歪んだ顔は醜く皺だらけだ。彼は脂汗を浮かせながら、何か吐き捨てるように叫んでその場を逃げ去っていった。

「……や、大丈夫?」

 振り返り手を差し出した女の顔は、逆光のためか、頭を殴られて視界が霞んでいるためか、不明瞭でよく窺えなかった。相手に直接攻撃はしなかったものの、明らかに喧嘩慣れしている、こんな薄汚い見知らぬ不良を助けるような物好きの顔を拝んでやろうと思っていたが、どうやら叶わないらしい。

「ねえ、アンタ、―――――……」

 ―――あの時、アイツは何と言っていたか。今となってはもう朧気な記憶だ。ただひとつ、髪に二つ留められた桃色のピンが、薄暗い路地裏ではやけに目立って見えて、その色だけはいつまでも灰崎の網膜に焼き付いていた。







 それは既視感だった。

「何してるの!」

 その震えた高い声は、しかし凛とした強い意志を持って、細い裏路地に反響した。
 灰崎は鈍い痛みを訴える腹に力を籠め、なんとか体勢を立て直しそちらを見やる。そこにいたのは、こんな狭くてほの暗い裏路地には到底不釣り合いな、女子生徒だった。

「一人の子に寄ってたかって、恥ずかしくないの!?」

 こちらから数メートル先。鞄の持ち手を強く握りしめ、虚勢を張るように立ちはだかっている。緑色のスカートから覗く足は、過剰に細いわけではないが、喧嘩など到底したことがないように華奢だ。小さく開いた口はぶるぶると震え、桃色のヘアピンで分けられた前髪は、顔色の青白さを余計に目立たせていた。
 馬鹿だと思った。非力な奴が、無策で危険地帯に足を踏み入れる。それほど愚かなことはない。それも、自分の友人や家族のためならいざ知らず、今初めて出会ったような人間のために、そんな危険を冒すだなんて。それほど馬鹿げたことなどない。ちゃちな正義感のためか、恩の安売りかなどは知らないが、彼女の行動は灰崎の腹の奥に言い知れぬ感覚を覚えさせた。

「あァん? 誰だてめえ」
「痛い目見たくなかったら、さっさと失せな」
「それとも何、今度はアンタが相手してくれんの?」

 灰崎を取り囲んでいた二人の男が、標的を彼から彼女に切り替えた。朦朧とする頭で、全ての声を聞き取れたわけではないが、その下卑た笑い声だけは灰崎の神経全てを、ねっとりと逆撫でするような不快さを与えた。
 複数の土を踏む音とともに、女の小さく怯む声が耳を突く。灰崎は小さく舌を鳴らし、痛む全身に力を込めた。碌に抵抗することもせず、何度も蹴りを食らった腹が重い痛みを訴える。顔にまとわりつくボサボサの長髪の隙間から、なおも獰猛さを孕んだ緋色の瞳を覗かせ、彼は彼女に近づく二人の男目掛けて―――駆け出そうと、した。
 耳に、衝撃。
それは物理的なものではなかったが、耳を聾さんばかりの、凄烈な機械音だった。細い細いこの裏路地では、音が跳ね返り余計に耳の奥にまで響き轟く。灰崎は酷く顔を歪ませながら、何事かと視線を泳がす。そこでその女が、距離を詰めてきたその男たちに向かって何かを突きつけているのに気付いた。それが防犯ブザーであることがわかった時には、男たちは何か捨て台詞を吐き捨てながら灰崎の横を通り抜けていった。

「はぁっ……はぁ……」

 ブザーを止めた女は、脱力したようにそのまま地面にへたり込んだ。それから、はは、と小さく笑い出すと、「本当に役に立つ時が来るなんてなぁ」と独り言ちるのが聞こえた。
 ……一体、何なんだ。
 言いたいことは幾らかあったが、このままではブザーの爆音で引き寄せられたギャラリーにあらぬ疑いをかけられることは明白だ。灰崎はややおぼつかない足取りのまま、女のもとへ近寄ると自身もしゃがみ込んで視線を合わせた。これで一先ず、俺に絡まれブザーを鳴らしたなどという誤解が生まれることはないだろう。

「おい……馬鹿か、てめぇ」
「ふふ、貴方が無事でよかった」
「聞いてんのか」
「聞いてるわよ。貴方、星章学園の灰崎くんでしょう? 選手なんだから、喧嘩なんてしちゃ駄目よ」

 また一つ、舌打ちがこぼれた。ファンか、他校のマネージャーか何かか知らないが、勝手なことを抜かすな。俺が何かしたわけじゃねえ。あっちが勝手に絡んできやがっただけだ。その上、俺は手も足も出してない。それに、俺たちはもう負けた。選手だのなんだの、もう関係ねぇんだ。勝手な妄想して、偽善者ぶってんじゃねぇよ。
 そう突き放すように言ってやろうとしたが、それすらも今の灰崎には億劫だった。吐き出そうとした言葉をすべて飲み下し、代わりにじろりと女を睨み付ける。大概の人間は、この顔を見せれば一瞬で怯んで逃げ去っていく。しかし女は、あろうことか、ふふふとまた笑い出したのだ。

「てめぇ、ナメてんのか」
「ふふ、ごめんなさい。貴方みたいな子のこと、思い出しちゃって……いつも周りを遠ざけるみたいに、怖い目つきをしてたの。でも、ちっとも怖くなんてなかった」
「……どこぞの男と一緒にすんじゃねェ」
「やだ、女の子よ」
「ますます一緒にすんじゃねェよ。てめぇやっぱりナメてんだろ」
「その子がこのブザーを常に携帯するようにって、持たせてくれたの。同学年の同性によ? 面白い子でしょ。それにやさしくて、きっと心配性でもあったのね」

 先ほどの男たちにはあれほど怯えていたというのに、灰崎に対してはまったく怖がる様子のない女に、灰崎の腹のざわつきと居心地の悪さは余計に増していく。

「あの、さっきはごめんなさい」
「あ?」
「勢いで言っちゃったけど、きっと貴方、巻き込まれてただけなのよね」
「……」
「喧嘩なんてして問題を起こしたら、きっとチームにも迷惑がかかるから。だから、やり返さなかったんでしょ? 仲間のこと守ったんでしょ?」
「……虫唾が走るようなこと抜かしてんじゃねェよ」

 強く否定できなかったのは、女の言うことが的外れではなかったからだった。もう何度目かわからない舌打ちを零し、灰崎は緩慢な動作で立ち上がった。それに続くように、女もスカートの裾を払いながら体勢を立て直した。

「そうだ、私、木野秋っていうの。利根川東泉のサッカー部マネージャー。今日は用事があってこっちまで来てたの」
「……そうかよ」

 利根川東泉。聞きなれない名前だ。どうせそのへんの雑魚校だろう。さして興味も湧かなかったが、何故かこの女のことは、今後も記憶に刻まれるのだろうと思った。
 灰崎はよろけつつ、置き去りにしていた自分の通学鞄を拾う。それから、秋の心配するような声を無視して、先に外へと出た。
 明度も彩度も低かった裏路地から一転、目が眩むほどの明るさに思わず目を細める。すると、この一帯を支配するような、けたたましい音声がどこからか聞こえてきた。

「フットボールフロンティアの中継ね」

 後ろを追いかけるように出てきた秋が告げる。彼女に釣られて見上げると、巨大な街頭テレビが、『雷門vs白恋 キックオフ!!』というテロップとともに、両校の試合を中継していた。その画面がコートの選手陣を映した時、その後ろに一瞬、見覚えのある顔が映った。
 雷門側のベンチ、そこの一番端に腰を下ろしていた女。――確か名前は、華那芽凪沙と言ったか。何度か会場で出会い、俺の何が面白いのか、その度に話し掛けてきた記憶がある。
 その彼女が、誰よりも先に目に留まったのは、「その色」を見付けたから。
 ――ああ、思い出した。

「……昔、お前みたいなお節介に会った」
「えっ?」
「お前と、同じ色のピンをしていた」

 秋はその大きな目をさらに丸くした。先ほどから、秋の頭を何度もよぎっていた少女が、灰崎の言う「お節介」と重なる。

「頼んでもねぇのに割り入ってきて、手なんか差し出しやがって……」

 ―――あの時、灰崎はその手を取らなかった。そもそも地面からは疾うに立ち上がっていて、そんな手など必要なかった、そのはずなのだ。だから余計なことをするなとの意を込めて、それをはね除けた。俺に関わるなと、さっさと何処かに行けと。それにも関わらず女は、今度は灰崎の手を無理やり取ると、薄暗い路地から表の光が差し込む出口へと引っ張って連れ出したのだ。
 あの時どうして振りほどくこともなく、黙って腕を引かれていたのか。その手の温度が、眩しい光が、まるで魔法のように、あの時の灰崎を支配していた。

『ねえ、アンタ、太陽のもとも、暑くて眩しくて鬱陶しいけどさ。――たまには悪かないよ』

(……何が太陽だ)

 いつだったか、鬼道が「太陽に選ばれた」と称していた男、稲森明日人の姿をテレビが映した。途端に胸がざわめき出す。この気持ちは、なんだ。

「……きっとその子は、昔の自分を見ているようで、放っておけなかったのかもしれないわね」

 少し間を開けてから、秋は、懐かしむように目を細めた。その様子に、灰崎は少しだけ目を見張る。――こいつは、あの女のことを知っているのだろうか。そしてそいつは、俺と似ていたのか。だから、俺に声を掛けてきたのだろうか。

『その存在に俺自身も救われ、変えられたんだ』

 不意に、鬼道の言葉が脳内でリフレインする。

「……そいつも、」
「え?」
「いや……何でもねぇ」

 言って、灰崎は誤魔化すように長い前髪をいじった。そいつも、太陽みたいに鬱陶しいやつに変えられたのか、なんて。一体俺は、何を馬鹿なことを聞こうとしてるんだ。ああ、馬鹿馬鹿しくて、やっていられない。
 それでも灰崎は、そこに映る稲森の姿から、しばし目を逸らすことができなかったのだ。


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