鬼道の申し出

 地区予選決勝戦は雷門の勝利に終わり、雷門は無事本選進出への切符を手に入れた。フィールド脇のベンチでひとり忘れ物等の最終確認をしていた凪沙は、ふいに慣れ親しんだ声で名を呼ばれ、ぱっと振り返った。

「鬼道?」
「さっきぶりだな」

 彼女を呼んだのは鬼道だった。試合前に丁度、彼の妹の春奈も交えて話せる機会があり、その春奈とは試合後にも話をしている。つまり凪沙に用事のある者はその二人くらいなものだが、鬼道は今、春奈ではない別の人物を後ろに連れていた。
 すらりとした長身の男だ。眼鏡を掛け、帽子の影が顔に落ちている上に、長く伸びた前髪が左目を分厚く覆っている。随分と表情の窺いにくい風貌だった。
 その彼と視線が合致し、凪沙は無意識のうちに姿勢を正した。男は数歩前に出て鬼道の隣に立つと、凪沙をまっすぐ見据えて口を開く。

「雷門のマネージャーか。私は星章学園で監督を務めている久遠だ」
「あ……はい。どうも。華那芽といいます」
「先程は良い試合だった、ありがとう。それから、本選進出おめでとう」
「ありがとうございます。星章も前の試合ですでに出場は決まっているんですよね。また雷門(うち)と戦う時が来たら、その時はまたよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」

 マネージャーという立場において、他校の監督と差し向かいで話すことはほとんど無いに等しい。故に凪沙はどこか緊張の糸を張っていたが、少し言葉を交わしたところですぐにそれは緩んだ。そばに旧友がいたおかげでもあったのかもしれない。──その旧友がまた一歩前に出て、凪沙に尋ねてきた。

「華那芽、雷門の監督はどこにいる?」
「監督? 伝言なら預かろうか」
「いや、他の雷門メンバーには内密に、本人に直接話したいことがあってな。できれば呼び出してくれると助かるんだが……」
「……内密? そちらの監督お立ち合いの上で?」

 彼の申し出には幾らか引っ掛かるところがあり、凪沙は静かに声を潜めて問う。普段はほとんど透けることのない鬼道の分厚いゴーグルの奥に、鋭い瞳を見た気がした。

「灰崎のことだ」
「灰崎?」

 凪沙はその覇気のなかった目を僅かに見開いた。
 灰崎凌兵。「フィールドの悪魔」と呼ばれる彼は、星章学園のエースとなりうる実力者でありながらも、そのほか素行は極めて悪く、協調性がまるでないことがありありと伝わるような男だった。──過去形だ。彼は多くの試合を通じて、サッカーに対する姿勢が変わったように思えた。
 そんな彼とは何度か個人的な交流があった。とはいえそのほとんどは偶然の巡り合わせか、あるいは凪沙から声をかけたものである。だから灰崎にとっての凪沙が、どれほど印象に残っているかなどわかったものではない。それでも凪沙は彼の名前に反応を示した。ほんの些細な理由が、凪沙に彼をどこか放っておけない人間だと思わせていた。

「灰崎のことで、うちの監督にどんな用があんの。全然結び付かないんだけど……」
「ああ、実はな……」

 鬼道はそこで台詞を切って、ぐるりとあたりを見回す。近くに誰もいないことを確認してから、しかし念を入れるように、彼は凪沙の耳にそっと口元を寄せた。

「──……!」

 その話を聞いて一瞬目を見張った凪沙だったが、すぐに元の調子に戻る。それからふっと、軽い笑みを鬼道に向けた。

「なるほどね……まあ、『前例』もあるわけだし」

 そう言うと、彼もまた共通の思い出を想起したらしく、愉快そうに喉を鳴らす。このまま昔話に花を咲かせても良かったが、久遠がいる手前それは自重すると、凪沙はスカートのポケットからスマホを取り出した。そこに慣れた手つきで、鬼道らが監督に用があるとの旨を打ち込み送信する。

「にしても、さっきの今って……流石の推測と行動力。何手先まで読んでるんだか」
「フッ、どうだろうな……それに、善は急げと言うからな」
「まあ、そうだね」
「近いうちにアイツは変わる。だがそれにはやはり、サッカーが必要なんだ」

 彼がそう断言するのは、灰崎がサッカーを好いているからに相違ない。それは今回の試合を、無論雷門視点で観ていた凪沙にも、よく伝わっていた。

「ちなみに規約上、両校のレベルが同程度であることが求められるそうだ。だが星章と今の雷門なら問題はないだろう」
「まあ、スポンサーも必殺技もなかった新生雷門も、こうして最後に星章に勝ち越して、予選突破して、随分箔も付いたことだしね。相手が星章でも、条件クリアは余裕でしょ」
「あとはそちらの監督が首を縦に振るかどうか、にかかっているがな」
「や、あの監督がこの話断るとは私には思えないなぁ」
「フッ、そうか……趙金雲、つくづく変わった男だ」
「コーチや学校側すらも、あの人については全然把握できてないからね」

 監督のさまざまな奇行、奇言、奇策を思い返しながら、凪沙はハハと苦笑する。けれど彼はその非常にわかりにくい実力を以てして、ここまで確実に雷門を勝利へと導いてきたのだ。少なからず、凪沙が一目置いているところはあった。

「でもなんで雷門? 勝ち上がれない可能性はどのチームにもあるでしょ。やっぱり贔屓目ってこと?」
「まあ、雷門というチームに期待していることに間違いはないな」

 その言い分は、他にもまた理由があるということだった。とすれば、やはり……凪沙の脳裏を過った少年の姿が、眩しいくらいの笑顔を湛えたある男の姿と、少しだけ重なる。
 少しだけ、ほんの少しだけ。愚直で一直線なところが。人を奮い立たせるのが上手いところが。似ているのかもしれない。
 言外に、互いの言わんとすることを理解した二人が笑みを溢し合ったところで、スマホの通知音が、監督から返信が来たことを告げた。どうやら適当に誤魔化し、無事に選手らと別れられたようだ。何処其処で待っているとの文面を受け、凪沙は鬼道と久遠に向き合った。

「返信きたので、それじゃ、案内します」

 鬼道は悪いな、と一言詫び、久遠は軽く頭を下げた。凪沙はベンチに置きっぱなしにしていたエナメルバッグを肩に掛け、二人の少し前を歩き出す。
 ──しかし、この手を本当に使うことになるとすれば、それは星章が決勝まで勝ち進むことなく敗退した時だ。そんな可能性まで考えたくはないだろうに、つくづく鬼道の冷徹ぶりは恐ろしい。あるいは、それほど灰崎という男のことを、放っておけないのか。何にせよ、彼が味方であった頃はどこまでも心強かった分、本当に厄介な敵だと、凪沙はどこか複雑そうな面持ちで首に手を当てた。


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