鬼道と灰崎を迎える
「や、待ってたよ」
「悪いな、出迎えありがとう」
「案内役はいたほうがスムーズでしょ」
雷門中学校の正門脇で待機していた凪沙は、やってきた二つの影に笑みを見せた。それに呼応するように、片方の顔にも薄く笑みが浮かべられる。対してもう一方の顔には、どこか少しだけ地に足が着いていないような、ほんの不安定な色があるように見えた。それを誤魔化すように、彼は長く伸びた前髪を指先で弄る。その彼に、凪沙は視線を移した。
「久しぶり灰崎。これからよろしく」
「……ああ」
一瞬の間を置いてから、一言返すと灰崎はまたそれきり黙ってしまう。事の運びを隣の男、鬼道に任せているようにも見えた。
灰崎のそっけない態度もさして気にすることなく、凪沙は改めて二人に向き合った。
「それじゃ、新部室まで案内するから」
「……その前にひとつ、頼みがあるんだが」
鬼道からおもむろに紡がれた言葉に、凪沙と灰崎はきょとんとまばたきをした。
*
「……変わっていないな」
「安心した?」
「ああ」
どこか愛しげな声色で、鬼道は返す。隠された素顔も、きっと優しく目を細めているに違いなかった。
「悪いな灰崎、付き合わせて。お前にも見せておきたいと思ったんだ」
「……いや」
「これが一年前、俺が世話になっていた雷門サッカー部の部室だ。……驚いただろう」
「ああ……まさかこんな古ぼけた小屋みてーな部室から、『伝説』とやらが生まれたとはな」
長らく使われていなかった──もう今後使われることもないのだろう──サッカー部の旧部室は、最後に見たその日からほとんど変わることなく、雷門中の片隅で密やかに息をしていた。どんどん改築が重ねられ、新しくなっていく校舎群からは、この小さく古い小屋は異様なほどに浮いている。だが鬼道にとっても、凪沙にとっても、ここは今でも、この学校で最も気持ちが馴染む場所だ。
そんな二人の目が、見たこともないほど優しいものだから、灰崎の心地をどこか所在なくさせる。それと同時に、ここではなく、灰崎のいるべき場所は別のところにあるのだと痛感するようでもあった。
「思いの外、綺麗なままなんだな」
「まあ……たまに私が掃除してるし」
思いもよらぬ凪沙の返答に、鬼道はその厚いゴーグルの下で人知れず目を見開いた。鬼道の様子に、凪沙は気が付かない。
彼女は一体どんな気持ちで、たったひとり思い出の詰まったこの部屋を掃除していたのだろう。
それは鬼道には到底計り知れるものではなかった。凪沙は帰宅部ではあったものの、サッカー部設立当初からその存在とともに過ごしてきたと聞く。彼女にとっては、サッカー部の存在それ自体が日々の目標であり、夢だったのかもしれない。目的をもって、目標に向かってバラバラに旅立った自分たちとは違う。彼女がたったひとり雷門に残されたことは、同時に彼女にとっての『何』を意味していたのか。当時はあまり考えていなかった。考えないようにしていたのかもしれない。
「……俺は、お前はてっきり円堂と木野に着いていくものだと思っていたんだ」
「え?」
「あの二人が同じ利根川東泉を選んだと聞いて、すぐにそう思った」
「や……そりゃ私サッカー部じゃないし。強化委員なんてできるほどの知識とか、サッカーにかける情熱とか無いし……そもそも同じ学校に強化委員のマネージャー二人も派遣できないでしょ」
「……まあ、それもそうなんだがな」
「あんたたちは皆と一緒にやるサッカーじゃなくて、世界に通用する強い日本のサッカーを選んだんでしょ。だったら、中途半端な気持ちで首突っ込んじゃいけない」
彼女の声は流れる水のように真っ直ぐで、揺れることはない。昔からそうだった。彼女の意思は強く、そうと決めてしまえば他者どころか、本人の感情すらそこに介入するのは難しい。器用なようで、不器用な人間だと思っていた。今でもそう思えてならない。
「なら、今お前が雷門でマネージャーを務めているのも中途半端な気持ちからか?」
今度は凪沙が目を見開く番だった。そんなこと訊かれるとも思ってなかったし、考えたこともなかったのだろう。彼女はきっと今まで、振り返らずに必死でひた走ってきた。
「俺は驚いたんだ。あれほど円堂に誘われても首を縦に振らず、一年前も当たり前のようにここに残ることを選んだお前が……何故だろうか、と今でも思っている」
「……そういや、前にも似たこと訊かれたな」
どこか遠くを見ながら、手持ち無沙汰な右手を意味もなく首に当てる。何かを思い出しているのか、言葉をかき集めて並べているのか。少ししてから、凪沙ははっきりと口を開いた。
「まあつまりさ、あの時は持ってなかった気持ちがあるんだよね」
ほんの少しだけトーンを上げるつもりだったらしいが、予想よりもその声は響いた。口を閉ざしたままの鬼道と、ずっと黙って耳を傾けていた灰崎とで構成されたこの場には釣り合わず、いっそ滑稽なほどのアンバランスさを醸し出す。凪沙はある種の観念を覚えたように、また少しトーンを下げ、自分らしい調子で続けた。
「……円堂から預かったから、っていうのも、もちろんある。円堂たちが大事にしてたものを、私も大事にしたいから」
凪沙の羽織っていたジャージの、少し擦りきれたような裾が、風を含んでやわらかにはためく。
──俺たちのサッカー部を頼んだぞ、華那芽!
円堂は彼女に、このジャージとともに雷門サッカー部を託した。何故サッカー部でもない私に、と訊ねたが、お前は俺たちの仲間だろ? と心底不思議そうに、当たり前のように返された。
深い意味などなかったのかもしれない。残してしまう友人への、置き土産のようなものだったのかもしれない。だけど誰もいなくなるサッカー部を、彼らにとってかけがえのない『雷門サッカー部』という存在を預けられたことで、凪沙は大きな役割を与えられた気がしたのだ。彼らがいつ帰ってきても良いように。彼らの居場所を守るように。
だがそのうち凪沙は、誰もいない雷門サッカー部に無意識にしがみつくようになってしまっていた。彼女の時間は、そこで止まってしまっていた。無いものを追っても仕方がないことくらいわかっていた。それでも、皆は前に進んでいることがわかっていても、前に進めなかった。進むべき『前』が、凪沙にはなかったのだ。
その止まった時間を、伊那国からやってきた彼らが再び動かした。そして目の当たりにした彼らの愚直さに、凪沙は僅かに既視感を覚えたのだ。
円堂たちの居場所を、出会ったばかりの他人に明け渡すことを凪沙は迷った。迷って、何度も考えて、それでも「今度こそは」と、そのすぐそばで背中を押してやりたいと思った。そして、円堂がもし意味を込めてこのジャージを預けたのだとしたら、そういうことなのだろうとも思った。サッカーをやりたい奴の背中を、押してやってくれと。
凪沙は彼ら越しに、どこにもないと思っていた『前』が見えた気がした。それと同時に、彼女は。
「そうだな……たぶんさぁ、私は皆に近付きたかったんだよね」
薄く開かれた口から紡がれるのは、羨望の混ざった確かな本音。風が吹き抜け、木々を瑞々しく揺らめかす。
「しっかり夢持ってさ、好きなものに一途に、馬鹿正直に、真っ直ぐ前だけ見て走ってるあいつらに、あんたたちに、近付きたかったんだよ」
凪沙はいつも声が届くほど近くで、しかし手が届くには遠すぎる場所から彼らを応援していた。彼女自身もあえてその距離を選び、また満足していたようにも思える。だがその言葉を聞いて、鬼道の中の凪沙はまた少し色を変えていく。新たな色を纏っていく。
「……お前、案外寂しがり屋なんだな」
「ばっ……灰崎!」
沈黙していた灰崎が不意にぽつりと漏らし、鬼道が慌てたように彼の口を手で塞いだ。だが時すでに遅し。凪沙は表情をどこかに落としてきたような真顔で、「そろそろ行こうか」と二人の横を潜り抜けてしまった。どんどん遠ざかっていく青と黄のジャージに、残された二人は顔を見合わせる。まずいことをしたように冷や汗を浮かせ眉を潜める鬼道とは対照的に、灰崎は気にも留めていない様子だ。
「……灰崎、お前」
「なんだよ。俺は思ったことを言ったまでだ」
「お前にはデリカシーというものがないのか……」
「なんだと」
妙な温度差を間に挟みながら、二人も遅れて彼女の後ろを追いかけ始めた。だがふと前の肩が揺れ、何事かと考える前に聞こえてきたのは、予想外にも、はははと軽やかな笑い声だった。意表を突かれたように、彼らは唖然としてその背中を見つめる。
「や、ほんと、そうかもね。そうなんだと思う」
何が、と気がつくまでには少し時間が掛かった。凪沙は振り返ることなく、歩みを止めることもなく、ただただ前を向きながら語り続ける。
「でもそれ以上に憧れてたんだろうな。円堂や鬼道たちにも、稲森たちにも。純粋にいいなって思えたんだよ。羨ましかった」
以前と比べて、凪沙は本当に素直になったと鬼道は思う。口に出すことが増えた。それが誰の影響かなど、少しも考えずともわかった。なにしろ鬼道自身も、どれほどその男の影響を受けてきたことか。
「それと」
今彼女はどんな顔をしているのか。きっと見せてはくれないのだろうと思った。だがその予想さえ覆すように、凪沙は髪を揺らして顔だけ振り返る。
「また円堂たちの作り上げた『雷門サッカー部』が優勝するのを夢見てんだ」
に、と歯を見せて笑う。彼女がこんな風に笑うのは、灰崎はもとより鬼道ですら見たことがなかった。細めた目元に寄った不格好な皺が、彼女の見る夢と雷門サッカー部への想いを語る。
「だから灰崎」凪沙は、灰崎の赤い瞳に視線を注いだ。それをしっかり受け止めて、灰崎もまた凪沙の目を見つめ返す。
「勝ちに行くよ」
「……もちろんだ。そのつもりで俺はここに来た」
「ホームシックになってる暇ないからね」
「って誰がなるか!」
「そうか……たまには水神矢を派遣してやろう」
「お前までおちょくってんのか! 鬼道!」
二つの笑い声に挟まれた灰崎は、掴み掛かりたい衝動をどうにか抑え、代わりに長い前髪を掻きむしる。「鬼道パパもたまには来てあげたら」「誰のパパだ!」「そうか。ならあの猫も連れてきてやろう」「いらん!」完全に二人のペースに巻き込まれた灰崎は喉から言葉にならない唸り声を捻り出し、その様子に二人はまた笑った。
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