猫をかぶった一星くん

「マネージャーさん、それ僕が持ちますよ」

 大量の資料が入ったダンボールを運んでいると、不意に背中に声が掛かった。振り返れば、鮮やかな夜空のような髪色の男が、にこやかな笑顔を浮かべている。
 事前に目を通していた、選手情報がファイリングされたバインダーを脳内でめくる。名前は確か── 一星、といったか。ロシアでサッカーをしていたという中学一年生。その資料は本当に簡易的なもので、必要以上のデータは記載されていなかったが、それにしても彼のページは、他の選手よりやけに空白が目立っていたのが印象に残っている。ロシアで活躍していた選手だったから、情報が少ないのだろうか。

「別に大丈夫だけど……」
「いえ、任せてください。どこに運ぶんですか?」
「監督の部屋に……ってだから、マネージャーの仕事だし選手の手を煩わせるわけには」
「女性がこんなに重いものを持つことありませんよ。さ、貸してください」

 彼がどれほどロシアに滞在していたのかは知らないが、そんな紳士的な台詞を笑顔で吐けるのは、やはり触れてきた文化の違いだろうか。一星は私からダンボールを取り上げると「それじゃ、行きましょう」と笑いかけた。それに対するありがとうが一拍遅れたのは、少し大袈裟なくらいの女性扱いに私が慣れていなかったせいか。──最初はそう思ったが、彼の善行はどこか押しが強く、なんとしても私の代わりに運ぶという意思を感じられたからだと、少し経ってから気が付いた。言うなればそれは小さな違和感だった。

「ええっと、確か華那芽凪沙さん、ですよね? 僕は、」
「一星だっけ……よろしく」
「わっもう覚えてくださってるんですか! 光栄です、ありがとうございます」

 そう言って一星は満面の笑みを浮かべた。いや、むしろ先程顔を合わせたばかりのただのマネージャーを、フルネームで覚えてるほうが凄いだろ。しかし今時、素でこれほど礼儀正しく丁寧で謙虚な男子中学生がいるだろうか? ……だがそれはどうしてか、一歩間違えれば慇懃無礼にも繋がりそうな感があった、ような気がした。

「……それで、一星は雑用の手伝いなんてしてていいの?」

 余計な考えを振り払い、手持ち無沙汰になった手を首に当てながら問う。私たちマネージャーらはイナズマジャパンのメンバーとは別のバスで、先にこの河口湖スポーツセンターに到着し諸々の用意を進めていた。後から来た彼らは、宛がわれた個室に一度荷物を置いてからすぐにミーティングルームへ集合したはずだ。それが終わり選手らは各々空き時間を過ごしているはずだが、例えば自室で荷物などの諸々のセッティングをしたり、先程配られた諸注意等の冊子を確認したり、そうでなくとも、これから共に戦うメンバーと時間を共有するほうが余程有意義に感じられるが。

「ああ……いえ、でも、華那芽さんが一人でこれを運んでいるのが見えたので。さ、早く行きましょ!」

 はぐらかすように曖昧に頷いた一星は、私を置いていかんばかりに歩みを速めた。なんか先程から、意思疏通できた心地がしない。まさかこれも触れてきた文化の違いのせいだというのか。どこか訝しげな気持ちになりながらも、まだ何も知らない相手のことを決めつけるのは早計だと小さく首を振る。

「そういえば、イナズマジャパンの皆さんはお知り合いが多いんですよね?」
「ああ……まあそうだね。同校出身も多いし、何より全員フットボールフロンティアで戦った仲だから」
「へえ……あの、華那芽さん。よければ皆さんのこと、簡単にでいいので教えて頂けませんか?」
「え?」
「僕だけ新参者だから、やっぱりちょっとだけ不安もあって……皆さんとサッカーする前に、あらかじめ皆さんのこと知っておけたらなぁと……はは、情けなくてすみません」

 ああ、なるほど。本題はそれか。
 一星は無理矢理にでも私と話す機会を作って、彼らのことを聞きたかったのだろう。確かに一星以外、ほとんどのメンバーが大会等を通じて互いに知り合っている。彼が先程言った通り、不安があっても何らおかしくはない。
 だけど何故、その説明役にあえて私を選んだのかがわからなかった。それならいっそ同性でキャプテンでもあり、どう見ても私の数億倍は人が良さそうで話し掛けやすい円堂あたりに声をかけるべきではないのだろうか。この時間を使って直接彼らと話し、親睦を深めるほうがよっぽど後にも繋がる気がするが。そうも思ったが、その言葉は口にすることなく飲み込む。

「……まあ、私も全員について詳しく知ってるわけじゃないけど……。じゃあまず、アンタと同じ一年は灰崎っていう銀髪ロングの男と、坂野上っていう赤い髪の元気そうな男。灰崎は星章学園のエースストライカーで……」

 私は一年から二年、三年へと、自分の復習も兼ねながら紹介していった。途中、彼が知らないであろう強化委員の説明も軽く交えて。そして最後に残った──無意識的に、最後に回していたのかもしれない──のは、キャプテンとして選出された円堂だった。

「キャプテンの円堂は……まあ、知ってるだろうけどゴールキーパー。元雷門中のキャプテンで、今年は利根川東泉のキャプテンとしてフットボールフロンティアに参加してる。とにかく馬鹿正直で、熱血で、ひたむき。あと、よく豪炎寺や鬼道と一緒にいる」
「へえ、豪炎寺さんや鬼道さんと」
「ま、何かあったら円堂に相談するといいんじゃない。あいつなら親身になって聞いてくれると思うよ」

 一通り話を終えたところで一星に向き合えば、彼は満面の笑みをこちらに向けていた。それは何のひずみもないような、極めて整った手本のような笑顔だった。

「やっぱり詳しいですね。華那芽さんに聞いてよかった」

 ──ぽつり。消えかけていた違和感が再び顔を出す。不意に止まりそうになった足を、なんとか動かし続けた。

「実は、バスの中で円堂さんたちが華那芽さんのこと話してるのが聞こえてきたんです。だから、仲良いんだろうなあって思って」
「……そう」
「皆さんのことを知れてよかったです! ありがとうございました!」

 別に彼は可笑しなことは言っていない。それどころか、礼儀正しく姿勢を伸ばし、にっこりと感謝を述べる一星はどう見ても真面目でまだ幼い──とはいえ私と二つしか違わないが──一年生だ。それなのに、彼の挙動には受け入れがたい分子が含まれているように思えてならなかった。一度抱いた違和感というのは、そう簡単に払拭されるものではない。

「しかも選手全員の情報がもう頭に入ってるなんて……こんなに優秀なマネージャーさんがいれば、きっと今後も安泰だなぁ」

 ──たかが味方選手の情報くらいで優秀? それは誰にとって? 安泰って、イナズマジャパンのこと? 本当に? 
 一星の高らかな独り言が、長い通路に溶けていく。小さな違和感が、形を変えて微かな不信感となる。一体なんだこれは? まるで心臓が変に浮いたような、気分の悪い心地だ。
 思えば彼の発言は、作られた台本をなぞったような丁寧さがあった。そこから彼の本心が、まるで見えないのだ。
 わざわざ本人ではなく、別の人間を介して情報を聞き出したあたりには、小心者らしさが窺えた。そう思っていた。だがその時以外の彼は、少なくとも自分に自信がない部類の人間ではない。いや、その言動から察するに、彼はむしろ──

「華那芽さん!」
「……え、ああ、何」
「部屋、着きましたよ。それじゃあ僕はこれで失礼しますね」
「ああ……うん、ありがとう」

 一星は私に負荷をかけないようにと、ゆっくりダンボールを返却した。その際一瞬だけ触れた手が、やけに冷たい気がした。

「あっそうだ」

 そのまま去ろうとした一星がきゅ、と踵を返した。互いに向かい合う形になり、態度に出さないようには気を張りつつも、心だけは無意識に身構えてしまう。

「あの、華那芽さんは相談するなら円堂さんが良いって仰ってましたけど、その……」
「……?」
「また、華那芽さんにも相談しにいっていいですか?」

 下がった眉に、少し背を丸めてまでして作った上目遣いと、どこか甘えたようなまるみを帯びた声。照れたように後頭部に添えられた手。
 ──あ、わかった。

「……いいよ。いつでも来れば」
「わあ! 本当ですか! ありがとうございます、……凪沙さん!」

 はしゃぐ一星は、それから私に一礼すると、そのテンションに任せて飛び跳ねるように去って行った。その姿が角を曲がって完全に見えなくなってから、取り繕っていた『平常の顔』がくしゃりと歪むのが、鏡を見ずともわかった。
 その違和感に、私はようやく気づいたのだ。今までそんなことをされた経験など無いようなものだったから、随分と時間が掛かってしまった。いやあ、本当に遅かった。長かった。時間を掛け過ぎた。
 ──これ私、媚び売られてるじゃん?
 気遣いも、表情も、か弱いフリも、溶け込むように自然な名前呼びへの転換も。その為だと思えばすべて腑に落ちた。いや、どれだけちょろい女だと思われてんだ私は? 笑っていい?

 味方メンバーと仲良くなるため、その情報を少しでも知りたい。そんな純粋な心持ちだったらわざわざ媚びなど売る必要はない。皆無だ。だからきっと、一星の言動には何か別の邪心が混ざっているに違いない。それが何かは知りもしないが、私を『知りたい情報をペラペラと教えてくれる女』といった具合に見ていることは多分、間違いないだろう。それに私が気付いたことに、生憎彼は気付いていないらしいけれど。まったく詰めの甘い男だ。大丈夫かお前。

 彼、一星は謎ばかりの選手だ。彼のことを、私たちの誰も知らない。渡されていた資料にも、彼の情報だけはほとんど無いようなものだった。不思議に思いネットで検索しても何も出てこない。わかっているのは精々ロシアでサッカーをしていたこと、他国で二年以上経験があることから国家友好親善大使の肩書きも持っていること、それくらいだ。あとのことは、これから知っていくしかない。──彼が教えてくれる確証なんて、どこにもないけれど。

(一体何考えてんだ、アイツ……)

 頼むから面倒なことにはなるなよ……まるで意味のない祈りを心の隅で捧げてから、私は監督室の戸をノックした。


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