迂闊が過ぎた一星くん
どうにもこうにも、腑に落ちないことだらけだった。
FFI初戦、韓国との試合。日本屈指のストライカーである豪炎寺は、その強烈な必殺技もさることなが、スピード、スタミナ、テクニックや咄嗟の判断力など、総合的に見てもハイレベルな選手だったはずだ。そんな彼がただの接触で、向こう数試合の欠場が確定するほどの大怪我を負った。──彼は光を見た、そう言っていたとのちに鬼道から聞いた。無論それは、円堂などの眩しい人間に対する比喩を唐突に口走ったわけではなく、物理的なものだ。誰かが故意に陥れたのであれば、無視していい事態ではない。
そして、韓国側で起きた味方同士の接触事故。あれは仲間割れと見て間違いないだろう。向こうのキャプテンが、フィールドで一際目立っていた選手──確かペクと言ったか──に何度か注意をしたり、掴み掛かっているのを見た。その直後にそちら方のキャプテンは味方からの乱暴な接触を執拗に受け、選手交代する事態となった。仲間内で何があったのかは知らないが、チームが二分していたのは確実だろう。
何の確証も手掛かりもないが、今日の試合に違和感を覚え、この世界大会に疑心を抱き始めているのは凪沙だけではない。だが情報が足りない今、いくら考えを巡らせても事態が好転するわけではなかった。そして目下の問題はそこではなく、これほどの序盤から豪炎寺という戦力を失ってしまったことだった。
彼が離脱してしまうなど勿論誰も予想などしなかったし、イナズマジャパンにとってもあまりに大きすぎる痛手だ。ただでさえチームには不安が募っているだろうに、さらに追い討ちを掛けるように疑惑点を指摘するのはいたずらに不安を煽るだけだった。故に凪沙は、この疑念を共有した豪炎寺と鬼道と共に、一先ずメンバーには余計なことを漏らさないようにと示し合わせた。
一体全体、どうしてこうも厄介事が尽きないのか。どこか痛む眉間を揉んでいると、不意にぬるい風が部屋の中をかき混ぜた。
「あ、いけね……窓」換気のために朝方開けたっきりだったと思い出し、凪沙は椅子から立ち上がる。それから窓枠に手を掛けたところで、彼女は動きを止めた。
「うわ……」
──と、つい情緒の欠片もない感想が漏れたが、今のは嫌悪感によるものではなかった。むしろこれは、驚きと感嘆によるものだ。
窓の外では、深く鮮やかなダークブルーの空に、美しい星々が数えきれないほど散りばめられている。地元とは違い、随分とはっきり目視できると思った。空気が澄んでいるからだろうか。
その圧倒的な光景に目を奪われつつ、四角く切り取られた外を眺めていると、ある人影が入り込んできた。瞬間、現実に引き戻され、凪沙はその人物を確認しようと目を凝らす。
(あれは……一星?)
夜に融けそうな濃紺の髪を乱しながら、湖沿いを駆け抜けるその男。随分とスピードを上げ、息が上がっているように見えた。ほんの軽いランニングかと思ったが、どうにも全力で絞り出しているようだった。今日の試合に出ていない分、ベンチで持て余した体力や、あるいはやり切れない思いを発散させているのかもしれない。
オーバーワークというわけでもないが、かといって明日も朝は早い。そもそも、夜更けにあまりハードな運動をするのも如何なものか。
彼とはなるべく個人的な関わり合いを避けたかったが、見つけてしまった以上無視もできない。一応マネージャーとして声を掛けにいくべきかと、凪沙はハンガーに掛けてあった上着を羽織り部屋を出た。
──玄関口に向かうその後ろ姿を、遠目で見た者が一人。彼女がその男に気付くことはなかった。
*
凪沙が出入り口についた頃、ちょうどランニングから帰ってきたその男もまた、施設に戻ってきたところだった。肩に掛けたタオルで汗を拭っていた彼は、凪沙の姿を認めると、数秒ほど呼吸を忘れたように立ち止まる。
「……や、おかえり」
「──っ!」
小さく掛けられた声に、一星は夢から覚めたように、詰まらせた息を吐き出した。だがその予想外の出来事は、一星の意思の強そうな目を大きく見張らせ、手から滑り落ちそうになったジャージのズボンだけは、なんとか持ち直す。拭ったはずの汗が、また額を伝った。
「自主練は良いことだけど、あまり夜遅くまでやるもんじゃないよ。明日にも支障をきたす」
「あ、そ……う、ですね」
いつもと違い、どこか歯切れの悪い……というより、挙動不審に見える。浮かべた笑顔もどこか不自然で、硬いものに感じられた。凪沙が訝しげに思っていると、不意に一星が、ユニフォームの半ズボンから伸びる左足を庇うように浮かせ、右足の後ろに隠すように添えるのが目に入った。
「はは……すみません、今日の試合ずっとベンチだったし、体動かさないと鈍ってしまいそうで」
「それ、どうした」
「え?」
「左足。……怪我でもした?」
「……!」
一星の纏う空気が変わったことを、凪沙は見逃さない。これで何もなければ、笑い話が過ぎるくらいに、その変化は凪沙に違和感を訴えた。
有無を言わさず一歩二歩と近付けば、一星は明らかに狼狽え出した。その様子に、凪沙は一種の確信を覚える。その彼がしゃがみ込んで手で隠すより早く、間合いに滑り込んだ凪沙は視線の先へと手を伸ばし──
そこからの記憶は、ない。
*
「ったく……消してけや」
ミーティングルームに一人残された灰崎は、モニターの電源を落としながら鬼道への愚痴を零した。
(にしても、いずれ話すって──)鬼道に告げられた一言が頭をよぎる。何故今では駄目なのか、自分に信用がないとでも言うのか。自分ではなくあの円堂だったら、話していたのか。
彼は慎重な男だ。憶測で物を言い、チームの不安を煽るようなことはしないことくらいわかってはいる。だがどうしだって釈然とせず、どこかに引っかかりが残る。
ああ、クソ、やめだやめ。頭を巡る不毛な思考をかき消すように頭を振り、灰崎は部屋を後にする。そのまま自室へ向かおうと歩き出したところで、通路の突き当たり、その曲がり角から人影が現れた。
「あ? アイツ……」
あの青い髪は、同じ一年生選手の一星だ。ロシアでサッカーをしていたという彼のことを、灰崎はまだあまり知らない。今日の試合もスタメンではなく、そのプレーもまだまだ謎だ。その彼がどうしてこんな遅くに……それによく見れば、何かを背負っている。あれは──
「凪沙……!?」
「あ……灰崎くん」
灰崎の驚愕する声に、一星は振り返って彼の存在を認めた。その際に背負ったその頭がずり落ちそうになり、彼はすぐに灰崎から目線を外すと、膝のクッションを使い軽く背負い直す。どこまでも己のペースを貫く一星に、灰崎は鋭い目つきを一層細めて、力強い足取りで近付いていく。
「おい、なんでお前がそいつを背負ってんだ」
「凪沙さん、入り口近くの椅子で居眠りしてて……」
「あ? ……そいつがか?」
灰崎はじろりと、訝しげに彼を一瞥した。その顔は明らかに一星の言動を疑っている。
凪沙との付き合いは取り立てて長いとも言えない。それでも彼女が、夜遅くにそんなところで眠りこけるほど不用心な人間だとは思えなかった。そもそも、彼は見ているのだ。今日の試合映像を確認していた鬼道に会う前に、個室を出てどこかへ向かう凪沙の姿を。まさかそんなところでわざわざ仮眠をとるために、部屋を出たわけでもあるまい。だが状況を説明付けるような仮説は、思いつかなかった。
「僕も意外だとは思ったんだけど……あ、もしかして僕が自主練から帰ってくるのを待っててくれたのかなぁ」
「そいつに限ってそれはねェ。自惚れんな」
「冗談だよ、ひどいなぁ」
どこか嬉しそうにはにかむ一星を一刀両断すると、彼は眉を下げて笑った。その笑顔すらもどこか嘘くさく見え、灰崎の不信感はますます募るばかりだ。
背負われている凪沙に目を向ける。目を伏せ眠っているようだが、どこか寝苦しそうに眉間に力が入っているのがわかった。普段からニコニコと愛想の良いタイプではないが、それでもこのような険しい表情をしているのは珍しいように思える。
灰崎は無意識に手を伸ばすと、凪沙の顔にかかった前髪を指先でそっと掻き分け、その眉間に触れた。そのままぐいと押してやれば、一瞬その顔をさらにしかめたが、それから先ほどよりかは幾ばくか弛緩したように見えた。その様子に、灰崎もわずかに口元を緩める。
「……灰崎くん?」
「……!」
一星に名を呼ばれ、灰崎はぱっと身を翻した。誤魔化すようにその長く伸びた自身の前髪を掴んでから、一星を睨み付ける。
「おい、そいつ部屋まで運ぶのか」
「そりゃあそうだよ。女性をそこらへんに放置するわけにはいかないでしょ」
「……俺もついていく。お前一人だと信用できねえからな」
「え? ……ああ、もしかして僕が送り狼にならないかって? やだなあ、そんなこと言ったら同じ男同士、灰崎くんだって信用ならないんじゃない?」
「だとコラ」
ぴきりと米神に青筋が浮かぶその姿は、さながらヤクザのようだ。だが一星は動じることなく、彼を置いていくように歩き出す。灰崎も慌てて隣に並ぶと、彼の挙動を見張るように睨み付けながら、その隣をぴったりと離れることはなかった。
「……あの、そんなに見られると……え、何?」
「別に何でもねぇよ」
「もしかして灰崎くん、凪沙さんに気があるの?」
「ばっ……違ぇ!」
「……まさか、じゃあ、僕に」
「違ぇ!! そのドン引きした顔やめろ!!」
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