闖入者一星
のっそりとベッドから上体を起こし、痛むうなじに手を当てて首を回す。ゴキゴキと控えめに怪しい音が鳴った。微睡んでいるのか、そのまましばらく目を伏せていた凪沙だったが、次第に意識が明瞭になってきたのか、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。時間を確認し、いつもの起床時間を少し過ぎていることがわかって、立て続けにアラーム設定も確認した。どうやら普段通り鳴っていたらしいが、気付かなかったようだ。
普段からある程度余裕をもって起きているため、別段焦る必要もない。凪沙はいつも通り洗面所に向かうべく、寝起きの緩慢な動作で布団から這い出た。
幾ばくかして大体の身支度が終わる。それからマネージャーに支給されたジャージを用意し、寝間着を脱いだところで、コンコンと軽い音が鳴った。それがノック音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
こんな朝早くに、と舌打ちしたくなる衝動をなんとか抑える。彼女には、ドアの向こうに立っているであろう人物が予測できたのだった。
「おはようございます、一星です。凪沙さん起きてますか?」
部屋主のアクションを待たずして、ドア越しに掛けられた声。その発言者が想像通りの人物であったことに、今度こそ舌打ちが漏れた。このまま返事をせずに狸寝入りでも決め込みたいところだったが、そういうわけにもいかない理由があり、彼女はその場から声を張った。
「おはよう、起きてる。何の用?」
「あ、えっと、朝からすみません。折り入って話したいことが……入ってもいいですか?」
代表選手たちの個室は基本的に相部屋であるが、マネージャーの凪沙には一人部屋が宛がわれている。だがそんな彼女の部屋も彼ら同様、不用心なことに鍵がついていなかった。一星を部屋に上げてやるつもりもその義理もないが、下手すれば彼は無垢と無知を装って勝手に入ってきそうにさえ思えた。最悪の事態を回避するため、凪沙はハーフパンツとTシャツだけ早々に着たところで、少し余裕をもってジャージを被った。それから前髪を手ぐしで軽く整えると、靴を雑に突っ掛け、扉の方へと向かう。数センチだけ開き、その奥の夜空の瞳と目がかち合ったところで、凪沙は改めて口を開いた。
「部屋散らかってるから駄目。小声なら外でも問題ないでしょ」
それから必要最小限だけ戸を開き、その隙間からするりと体をくぐらせてから素早く扉を閉める……という算段だったのだが、考えが甘かったらしい。一星は脈絡なく戸の側面を鷲掴みにすると、そのまま力ずくで押し開き、凪沙を奥に押しやりながら強引に部屋に入り込んできた。
「ちょっと!」
「なんだぁ、綺麗じゃないですか。それに僕気にしないので大丈夫です!」
「アンタが気にするかどうかは関係ない、早く出てけ」
「まあまあ、僕と凪沙さんの仲じゃないですか」
「勝手に変な仲作んな、勝手に椅子に座るな」
自分勝手に動き回る一星を苛立った口調で咎めるも、彼は一向に堪える様子がなかった。そして出ていく様子もなかった。凪沙はまたひとつ舌打ちを溢すと、半開きだった扉を諦めたように閉めてから、彼を睨み付けつつベッドに腰かけた。
「……で、何の用」
「いえ、昨晩は大変でしたね。大丈夫でしたか?」
──やはりそのことか。凪沙の眉間にさらに皺が刻み込まれた。
一星はこちらの出方を窺っているらしく、実に曖昧で抽象的な問い方をしている。凪沙は首に手を当てると、記憶を掘り起こすように視線を泳がせた。
「……ああ、そういや、自主練帰りのアンタに声掛けに行ったね……だけど寝惚けてたのかあんまり覚えてないんだよね」
「あ、そうだったんですか。僕、凪沙さんに相談したくて、あの後近くの椅子に並んで座ったんです。でも凪沙さんお疲れだったのか、すぐに寝落ちてしまったみたいで……」
「……へえ、それは悪いことしたわ」
「いえ、そんな! むしろ僕のこと心配して迎えに来てくれたんですよね? へへっ、嬉しいなぁ」
「や……あれはマネージャーとして」
「それで僭越ながら、その後僕が凪沙さんをおぶって部屋まで運ばせてもらいました」
「聞けやって……ああ、そう、わざわざありがとう」
「いえ! 女性をあのまま放っておくなんてできるわけがありませんから」
いかにも善良そうな笑みを見せる一星に、凪沙が笑い返すことはない。
人の部屋でやたらと慣れたような様子なのは、昨日もこの部屋に入ったためか。そういえば、昨夜羽織っていた上着はいつのまにかハンガーに掛けられていた。つまり一星は昨日、寝落ちた凪沙を背負って運び、靴と上着を脱がせ、布団に転がし、ご丁寧に掛け布団まで被せたというのか。考えただけで顔面が引きつりそうになるのを何とか堪え、小さなため息に無理矢理昇華した。
「……で、その相談って何だったの」
「えっと、僕その……早く僕も、試合に出たくて! でも僕には海外経験があるとはいえ、国内で活躍していた皆さんにはまだまだ遠く及ばないし、きっと監督の印象も薄いと思って……どうすればいいのかなぁって」
太い眉をハの字に下げ、身を縮こませることのなんとわざとらしいことか。そもそも、そういったことは
マネージャーではなく円堂か、監督に直接相談したほうが適任だろうと凪沙は眉をひそめる。だが一々問うのすら煩わしく、そもそも十中八九凪沙に会いに来るための口実だと思われた。
「……まあ、私はあの監督に雷門でお世話になってたけど、あの人あれでも結構色々考えてるし、視野は広いよ。全員のこと平等に見てると思うし、いずれ機会は巡ってくると思う」
「──へえ……やっぱり似てるんだなぁ」
「え?」
「いえ、ありがとうございます。そっか……凪沙さんに相談できたおかげで、なんだか安心できました! 僕、早くスタメンになれるようにもっと練習頑張りますね!」
「……そ、頑張って」
無関心過ぎず、かといって関心が有りすぎるようには見えない程度の塩梅を狙って、在り来たりなエールを送る。それを受けた一星は、さぞかし嬉しそうにはにかんで見せた。
「では、そろそろ失礼しますね。朝からすみませんでした」彼は凪沙に礼儀正しく一礼すると、椅子から腰をあげて扉の方へと向かう。一応マナーとして見送るべきかと、凪沙も立ち上がってその後ろに続いた。
「それじゃあ──あれ、凪沙さん、後ろ髪絡まってますよ。もしかして寝起きでした?」
「ああ……まあ」
「僕直します。動かないでください」
別に自分でやるから、と抵抗する間もなく、一星は素早い動きで凪沙の背後に回る。ちょっと、と声を上げるも、彼は固定するように凪沙の肩に左手を乗せ、有無を言わせず余った右手で手ぐしを通し始めた。微かに温もりを持った指先が、時折頭皮や首筋をなぞり、後ろに向かって肘鉄を打ち込みたい衝動をどうにか我慢する。
「髪綺麗ですね」
「……風丸の方が綺麗」
「もしかして照れてます?」
「は? いいから離せありがとうもう大丈夫だから」
矢継ぎ早に告げ振り返れば、一星はぱっと身を翻した。それからにっこりと笑って、それじゃあ今度こそ失礼しますと扉の奥に消えていく。彼が退室してから、本日何度目かの舌打ちが鳴り響いた。
back
topへ