闖入者一星2
「これは命令だ、華那芽凪沙」
ああ、ああ、もう。何がどうして、こんな状況になったのだと。これまでを省みるのも億劫で、あるいは馬鹿馬鹿しく。床に突き倒し、あまつさえ乱暴な力で押さえつけてくるその男に、凪沙はただただ表情を歪めるばかりだった。
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遡ること数時間前。次の対戦相手であるオーストラリアの情報を仕入れることができず、ミーティングを執り行えなかった選手たち。だが時間は有限、彼らは各々の課題を克服するため、自主練習に励んでいた。そんな中、マネージャーとして自室でデータの整理をしていた凪沙のもとに、一人の男が訪れていた。
「──で、どうしたの急に」
備え付けの冷蔵庫から出したお茶を紙コップに注ぎながら、凪沙は突然の来訪者にそう問う。少しの間を置いてから、彼──鬼道は、神妙な面持ちで口を開いた。
「未遂ではあったが……円堂が一星に狙われた」
おもむろに紡がれた言葉は、凪沙の呼吸を一時的かつ強制的に止めた。注ぎ終えたお茶の水面から波紋が消えるまでの間、彼女はぴくりとも動くことができなかった。その金縛りにも似た現象がようやく解けたところで、「何があったの」と努めて冷静に、差し出したコップと共に質問を投げかける。
「一星がシュートしたボールに、刃物……長く鋭利な針が仕込まれていた。それも、壁に突き刺さるほど頑丈なものだ。もしもあの時俺が声を掛けていなければ、ゴールにいた円堂は確実に……」
「……で、そのボールは」
「一先ず久遠コーチに預けた」
「そう……」
「だがあれは、証拠こそないが確実に一星の仕組んだことだ。聞けば、円堂を練習に誘ったのは一星だという。そして細工が施されていたボールはあの一つだけ。それに加え、あれはある一点を蹴り出さなければ仕掛けは発動しない。これを偶然などと言う言葉で片付けて良いわけがない!」
彼の情調に合わせて、徐々に語気が強まっていく。手に持った紙コップが形を変えたところで「鬼道、」と凪沙が彼を呼んだ。鬼道はハッと顔を上げると、ややきまり悪そうに悪い……と呟いた。
「一星が何企んでんだかわかったもんじゃないけど、少なくとも、私達の味方だとは思わない方がいいね」
「ああ……監督にも一星のことを尋ねたが、プライバシーの侵害だと一蹴されてしまった」
「はぁ? あの監督……私達はチームメイトについて知る権利あるだろうが……」
「華那芽は何か知らないのか。アイツは、お前にどこか懐いている節があるだろう」
「いや、やめてくんない」
鬼道の指摘する通り、一星は何かにつけて凪沙に絡みにいく姿を見せている。だがあれは純粋な気持ちで凪沙を慕っているわけではないことを、彼女はわかっていた。凪沙は念を入れて一層声を潜めると、憎々しげにそっと囁いた。
「……一星は懐いてるとかじゃなくて、私のことチョロい奴くらいに見てる。だから私はこのままアイツに警戒されないようにして、変な動きしないようなるべく近くで見張ってるから……」
「……ああ、わかった。すまない」
「や、なんで謝んの……むしろ鬼道にばっかり損な役回りさせてるし、こっちこそごめん……」
空気が淀み、重いものになる。窓は空いているがどこか息苦しい。入り込んだ風が、データの整理途中だったデスク上のノートをはためかせる音さえ、居たたまれなさを呼び起こす。腹が急激に底冷えするように感じた。凪沙は誤魔化すように自身に入れた茶を飲み、それに倣うように、鬼道も自分の分を二口ほど飲んだ。喉はあまり潤わなかった。
「……ねえ、そういやさぁ、鬼道はこの記号わかる?」
「記号?」
嫌な空気を一旦払拭させるように、凪沙は唐突に切り出した。「記号っつーか……こういう、砂時計みたいな……」指でどうにか頭にある図を形作り、鬼道に説明して見せる。彼は口元に手をやり少し考え込むようにしてから、何か思い付いたように顔を上げた。
「思い付くとすれば……オリオン座の意匠、だろうか」
「オリオン座……」
「それで、そのマークがどうしたんだ」
「ああ……いや、何でもない」
その返答に、鬼道は一瞬怪訝そうに眉を潜めたが、そうか、とだけ返した。再び沈黙が訪れそうになり、その間を繋ぐためか、凪沙は「そういえば、一星について円堂はなんて?」と重ねるように問うてくる。
「ああ、一星がやったと決まったわけじゃないと……アイツを疑うことはしなかった」
「あー、やっぱりなぁ……。円堂は良い奴だからなぁ、仲間は全員仲間だと思ってるっていうか、疑うことを知らないっていうか」
「そうだな……だからそれは、俺たちの役目だ」
鬼道の言う『俺たち』とは、彼自身や凪沙だけでなく、怪我で離脱してしまった豪炎寺のことも指しているに違いなかった。鬼道は、チームの誰よりも彼の離脱を悔やみ、惜しみ、焦燥を感じているように見えた。
不安や疑心、焦り、悔しさ、怒り、あらゆる感情の塵が、鬼道の心に少しずつ積もり、その精神を蝕んでいる。責任感の強く、一人で抱え込もうとする彼に、どうすれば寄り添えるのか。──だが凪沙もまた、豪炎寺の離脱や、この世界大会における違和感、チームメイトと監督らに対する疑念……そして、自身のことをなかなか守ろうとしない、それどころか敵かもしれない人物まで受け入れてしまう円堂に対する不満で、鬼道と同じように精神を疲弊させていた。
「……なんかさぁ……疲れるね」
「……そうだな」
「誰かを疑うのも、信じてもらえないのも、辛いもんなぁ」
「……ああ」
零した声は紛れもない本音であり、弱音でもあった。そしてそれは、たった15年しか生きていない子ども二人で抱えるにはあまりに荷が重かったのだ。
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凪沙は出来る限り、一星が視野に入る場所に居続けた。監視と悟られない程度の距離は保っていたが、最悪こちらの魂胆が割れたって構わない心づもりだった。それ以上に、もう彼の好き勝手にさせてはならないと思っていた。
一星の方もまた、いつものように誠実そうな好青年のような振る舞いで周囲に溶け込んでいた。そして、これほどまでに注意深く見ていたことで凪沙は気が付く。──彼は時折、どこか遠くを見ている。それは景色を眺めているわけでも、海の向こうにいるであろうまだ見ぬライバルに想いを馳せているわけでもないことは、その表情からわかった。
彼は見ている。誰も見ていない地点を、全く別の方向を、じっと見据えているのだ。
(ただの厨二野郎じゃないなら、何か一物抱えてる奴なんだろうとは思ってたけど)
一日のマネージャー業務を終えて自室に戻った凪沙は、椅子に腰掛け備え付けのデスクに突っ伏しながら考えた。出会った当初から不可解な点の多かった一星だが、ますますわからないことだらけだ。ただ彼の目的が、このFFIで日本に優勝をもたらすことでないことだけは、流石に勘づいていた。そして彼が、豪炎寺に怪我をさせた奴等の仲間であることも。
やはり彼から目を離してはいけないと思った。メンバーの誰かが、今度こそ怪我を負わされるなど絶対にあってはならないことだ。
鬼道は、西蔭にも監視をするように声を掛けたという。だがいくら監視の目を増やそうとも、彼の行動すべてを把握するのは困難であるし、そこまで引っ付いていれば確実に警戒されてしまうだろう。チームの空気も乱れかねない。豪炎寺が離脱した今、チームに余計な不安を与えるべきではない。
(どうしたもんか……)
後頭部を雑に掻きながら、その流れで首に労るように手を置く。今朝から痛むその理由は、よくわかっていた。
「……ん?」
不意に感じた手元の違和感に、凪沙は眉根を寄せた。何かがごろっと異物感を訴えている。それを指先で探り当て、ジャージの襟の折り返し部分に手を差し込むと、覚えのない何かに触れた。
「何だこれ……」
つまみ出したそれは、薄型の機械のように見えた。決して太くはない裏襟に収まるほどの小ささだ。この正体が何かはわからないが、少なくとも良い類いのものでないことは明らかだ。むしろ嫌な予感しかしない。そのまま捨てるのも心もとなく、少々乱暴だが壊してしまうか、そんなことを考えたところで、ふと今朝方の記憶が蘇った。
髪が乱れてるだのなんだので、人の髪に間髪を入れず手ぐしを通し始めたアイツ。あの時、一瞬だけ、襟に違和感を覚えたのだ。──あの時か!
どくり、腹の底が煮え返るようなただならぬ苛立ちが沸き起こる。対照的に氷のような表情を浮かべた凪沙は、それを持った手に渾身の力を込め、結局正体がわからないままに──否、すでに薄々勘付いてはいた──ゴリラもかくやという破壊力で握り潰した。
「……舐めやがってあのクソ一年坊主」
機械の残骸が、デスク脇のゴミ箱に恨みを込めて叩きつけられる。大方の怒りは一星へ向けられたが、気を許してもいない相手に簡単に背中を取らせた自分への憤りも少なくはなかった。特別ストイックな性格でもなかったが、この油断っぷりでは一星も自分を甘く見るはずだと、凪沙は舌打ちを漏らした。
──と、突如なんの前触れもなく、戸の開く無機質な音が空気を揺らし、凪沙は反射的に振り返る。それとほとんど同時に発せられた声に、危うく憤死で短い生涯を終えることになりかけたがなんとか現世に留まった。
「あーあ、まさかもうバレちゃうなんて予想外でし」
「帰れ」
闖入者の台詞を遮るように、恐ろしく冷たい声色で言い放つ。しかし彼、一星充は意にも介さず、ずかずかと不躾に部屋に入り込んできた。同時に凪沙も動き出し、これ以上の進入は許さんとばかりに彼の前に立ちはだかる。──こいつは円堂に取り返しのつかないような怪我を負わせようとしたのだと、言葉にできないほどの憤りで震える拳を背中に隠しながら。
「勝手に開けるな、ノックをしろ、何度不法侵入したら気がすむんだテメーは」
「やだなぁ、僕と凪沙さんの仲じゃないですか」
「どんな仲だ。蹴り出すぞ」
「そんな堅いこと言わずに。それにしても凪沙さん、ゴリラじゃないんだから……勘弁してくださいよ、それ高価な代物だったんですから」
あまりにもいけしゃあしゃあと言ってのける一星の、あまりの非常識さにとうとう言葉も出なくなる。彼はさらに無礼を重ねるように、絶句する凪沙の脇をすり抜けると、異性の寝床であるなど知ったことかと言わんばかりに彼女のベッドに深く腰掛けた。
「あーあ、喉乾いたなぁ」
「帰れ」
「っていうか、僕にはお茶すら出してくれなかったのに、凪沙さんってば鬼道さんのことばっかりもてなすんだもん。僕拗ねちゃいますよ」
「盗聴野郎に出す茶はない」
「あ、やっぱりバレてました? あれが盗聴機だったって。ま、見つけてすぐここに僕が来たんだから、予想もつくか」
カラカラと笑う一星に、凪沙の苛立ち具合はさらなる上昇を見せる。今にも爆発せんとばかりに膨らんだそれの、空気を抜くように不意の針を刺したのもまた、一星だった。
「凪沙さん、あの刻印見てしまってたんですね」
「は?」
にっこりと笑みを絶やさない一星の発言に、凪沙は動きを止めた。腹の底の沸騰が急激におさまり、何度か目をしばたたかせる。
こくいん、刻印? はて、刻印とは?
記憶の糸を丁寧に手繰り寄せ、それらしい結び目を探していく。そしてようやく見つけた唯一の心当たりといえば、鬼道曰くオリオン座を象ったのではないかという、一星の左足に刻まれたあのマーク。
──えっ、何だこいつあまりにも迂闊すぎでは?
「……や、アンタ馬鹿なの……?」
「はぁ?」
「普通……『刻印』なんて単語、日常生活で早々出てこないでしょ。マークだとか模様だとか、そうでなくてもタトゥーとか適当に誤魔化せば良かったのに」
「……!」
「『刻印』なんて仰々しく呼んだら、何かしらがバックについてるような重要なものなんだって主張してるのと同じだけど……」
「!!!」
まさしく「気付かなかった」「その通りだ」と言いたげな絶望的な表情で、口を開いたまま固まる一星。しばらく寒々しい沈黙が部屋に充満していたが、たっぷり二十秒ほどの間を置いて、彼はフンッ! と鼻で笑うように硬直を解いた。
「まあ、別に、共同生活してるんだからこんなものはいずれバレると思ってますよ。それを見越した上で凪沙さんに教えてあげたんです」
「(負け惜しみだ……)」
「まあでも、鬼道さんに刻印について伝えなかったのはありがとうございます。あの人にバレると最も厄介だ。お陰さまで、もう少しの間やりやすい環境でいられます」
「……別に、今からチーム全体に教えてやることだって私の自由だけどね」
挑発するような物言いを聞かせれば、一星はますます笑みを深めた。怪訝そうに目をすがめる凪沙にも、構う様子を見せない。
「刻印のことを忘れろなんて無茶は言いませんよ。第一そんなのは信用できないので。だから……」
突然、一星の顔から、すとんと抜け落ちたように胡散臭い笑みが消え失せる。──その刹那、肩に衝撃。視界が勢いよくぶれて、浮遊感が体を突き抜ける。凪沙はほとんど反射的に体を捻り、受け身を取って床に倒れた。すぐさま上体を起こそうとして床に手をつくが、それより早く、凪沙をすっぽり覆い被さるように影が落とされる。それが一星のものであると理解した時には、背中を床に押さえつけられ、利き腕を乱暴に捻り上げられて自由を奪われていた。
「これは命令だ、華那芽凪沙。お前が見たものはこれ以上、決して口外するな」
「……それこそ、私がはいわかりましたっつったところで信用できないでしょ」
床に伏したまま低い声色で問えば、虚勢だと思ったらしい一星が、フ、と口元を緩めたのが背中越しにわかった。
「万が一俺が不利な状況に陥ったら、お前らの大事な円堂守は今度こそ無事では済まないぞ」
「……」
こうも証拠が残って困るようなことを簡単に言ってのけるとは、やはりこいつはかなりの迂闊野郎に違いない。今度からボイスレコーダーでもポケットに仕込んでおくかと凪沙は思考を飛ばした。そうでなければ、今すぐそのにやけた顔面を殴り飛ばしてしまいそうだった。
「聞いてるのか」
「はいはい聞いてる聞いてる……でもアンタさ、状況がわかってないの? アンタは私に命令できる立場にないでしょ。私に一方的に弱味を握られた……っつーか、アンタがポンコツなせいで弱味を握らせてしまったんだから」
「……状況がわかってないのはアンタのほうだろ、華那芽凪沙」
凪沙の罵倒に一瞬余計な口を利きそうになったらしいが、すぐに余裕を含んだ語調に戻る。手を押さえる力が先程より強まった。
「俺の後ろでは、アンタたちのような小物じゃ到底手に負えない、大きな力が動いている。俺には逆らわない方が良い……ここにいる奴らだけならともかく、手の届かないところにいるお前の大事な奴まで、お前は守り抜けるのか?」
それは──ここにはいない、家族や友人のことを指しているのか? 守り抜くだって? 一体何をしようとしている? たかだか私ごときの些細な障害相手に、一体どれほどの手を打とうとしている? 今日の傷害未遂といい、アンタは、アンタの後ろにある大きな力とやらは、どのレベルまでの犯罪行為を、自分達の目的のため行えるというのか?
考えてもわからないことがひとつ、またひとつと増えていく。それが消化されることも一向にない。近くの大人も頼りにならないどころか、大事なことを何も教えてくれないような信頼し難い人たちばかりだ。一体全体何故だろうか? どうしてこうも面倒でわからなくて不安で腹立たしいことばかりが起こるのか? そういう星のもとに生まれたから? 死神か某小学生探偵のように事件を引き寄せる人間でもいるのか? 何の因縁? 何の因果? 嫌がらせ?
いい加減、普通のサッカーを、させろ。
「へえー……でもそれってさぁ」
──今度は一星の視界がぶれる番だった。凪沙は自由な右足を思いきり振り切り、一星の足を払った。バランスを崩した彼が倒れ込む前に、凪沙を掴んでいた手を離し床につく。解放された凪沙がその隙に一星の下から素早く抜け出すと、今度は彼の背に手を突いて強制的に床にうつ伏せにさせた。
「アンタの手にも負えなくて、アンタも逆らえないってことなんじゃないの」
拘束とはこうやるのだと言わんばかりに、凪沙は彼の腕を背中側に引くと容赦なく内側に折り畳む。もう片方の腕も同じようにし、それを動かないよう手で固定した。怪我の残るようなものではないが、一星は苦痛そうな唸り声を上げた。
「アンタがそこまで言うってことは、その刻印とやらは相当重要なものだってことでしょ。いいの? アンタが間抜けなせいで、その刻印がチーム全体、それどころかネットにでも流出して、世間一帯に広まってしまったら……アンタの言う大きな後ろ楯は、こんな秘密も隠し通せないような迂闊な馬鹿を抱えておいてくれるほど寛容なのかね」
「ぐっ……はな、せ……!」
「……とはいえまあ、捨て身の覚悟で、また円堂たちに何かされても困るし」
「お、おい、聞いて……!」
「私はアンタの隠し事を知ってしまった。アンタは代表メンバーにすぐ危害を加えることができる。これじゃあ私もアンタも、下手に動けないね」
「ぎ、ギブ! ギブギブ! 凪沙さぁん……!」
とうとう手のひら返したように、子犬ボイスで訴える一星。あまり騒ぎ立てて人が来ても困ると、凪沙はようやく彼を離してやった。解放された一星は凪沙から一定の距離を取ると、両腕を労りつつ凪沙を睨み付けた。数分前の威勢はどこへやら、その青い瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。
「ど、どこで覚えてくるんだそんな技……!」
「アンタに教える義理はない」
「……ジャングルで習得でもして」
「一星」
小さな声で悪態をついた一星だったが、遮るように名前を呼ばれ思わず肩を揺らす。思わず身構えたが、凪沙はその場から一星を見据えるだけだった。
「アンタは『まだ』一緒に戦うチームメイトだって、円堂はそのつもりらしいから……だから親切に教えるけど、個人的な感情ばかり挟んで行動すると、そのうち足元掬われるよ」
「……、」
「それと」
今度は、先程より低く落ち着いた声色だ。十分な冷静さを纏って見える。だが彼女の吐き出した言葉には、圧倒的なまでの感情が滲み溢れていた。
「もしも本当に、円堂に取り返しのつかないような怪我させることがあったら、私はマネージャーの立場も気にせず、後先考えず、自制心保てずに、アンタに同じことしてしまうかもしれない」
淡々と紡がれた台詞は、一星の言葉を詰まらせるのには十分だった。ピリピリと空気を伝って、凪沙の静かな憤怒が一星に突き刺さる。たじろぐことさえ許されないような空気感に、一星はただただ立ち竦むしかできなかった。
「わかったらさっさと出てけ」再び空気を揺らしたその声はもう、あの暴力的なまでの怒りを帯びてはいなかった。凪沙はしっしと追い払うように手を振る。一星は大人しくそれに従い、無言のまま部屋を出ていった。パタリと扉を閉じ、そこに背を凭れると、うわ言のように凪沙の名を小さく呟く。
あの冷徹でどこか冷めたような凪沙にも、あそこまで憤りを感じるほどに想える相手がいるらしい。するとどうしてか、じわじわと笑いが込み上げ、喉から零れ出していく。それは一体、誰に向けた嘲笑だったのだろうか。
(足元掬われるだって?)一頻り喉を鳴らした一星は、それからフッと悪どい笑みを口元に湛え、誰にともなく囁いた。
「それより早く、俺がアンタらに巣食ってやりますよ」
「……いやだから何で、人に聞かれちゃまずい独り言を人がいる近くでするんだよ……」
「!!!」
戸を数センチだけ開いた奥から覗く、心底呆れたような、あるいはドン引きしたような瞳に一星は愕然と固まり、凪沙は深く長いため息を吐いた。
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