一星の策略

「あ痛っ、ちょっと凪沙さん、もう少し優しくしてくださいよぉ……」

 懇願するような一星の声は、容赦なくスルーされた。
 捲り上げたユニフォームのその下、鍛えられた腹にはいくつもの打撲の痕が広がっており、生々しく変色していた。比較的柔らかいサッカーボールによる怪我とは思えない有り様だ。
 圧迫のため包帯をきつめに巻き、縛った後は同時に冷却も行っていく。本人が酷い痛みを感じていたり、著しい腫れなどがないのは幸いだったか。とはいえ、彼に対して早く怪我が治りますように、などと献身的でマネージャーらしい感情を抱くことなどもうできるはずもなく。凪沙はただただ義務感のみで、彼の手当てを行っていた。

「……その鬱陶しい猫かぶりやめろ。反吐が出る」
「えー? 酷いなぁ。僕の半裸を見たり触ったりした仲じゃないですか」
「気色悪い言い方すんな、もう二度とアンタの手当てはしない」
「そんなこと言っても、凪沙さんは甘っちょろい……じゃなかった、優しいから僕がまた怪我したら放っておけないんでしょ? 僕好きだなぁ、凪沙さんのそういうところ」

 氷のうを押さえつつからりと白々しく笑う一星に、腹の奥をざわりと混ぜ返される心地を覚えた。目が笑っていないというのは、こうも伝わるものなのか。それとも、わざと伝わるようにしているのか。

「……でも、本当に酷い人なのは鬼道さんだよなぁ」

 ぴたり。余った包帯を巻き取る凪沙の手が止まった。翳った表情は怒りを帯び、凪沙の口を閉ざさせる。

「あーんな陰湿で卑怯で、自分じゃなく人に手を下させるような人……」

 鬼道を踏みにじる言葉の刃を選んで選び抜いて、一星は凪沙の前で彼を侮辱していく。それは鬼道と同時に、凪沙の心も土足で踏み荒らしていくこととほとんど同義であった。

「いつか……選手生命を失うような、もーっと卑怯なこと、しなければ良いですけどねぇ?」
「──!!」

 つり上げられた口角と目尻は、ねっとりと、まるで全身にまとわりつくような不気味で下卑た笑みを、一星の顔に作り上げた。そしてその口から、ゆっくり舐め上げるように紡がれた言葉は、凪沙の脳に強烈な警鐘を打ち鳴らす。
 彼女の手から包帯が滑り落ちる。立ち上がった勢いで、派手な音を立てて丸椅子が倒れた。それに目をくれることもなく、彼女は追いたてられるように部屋から飛び出した。
 床に投げ捨てられた包帯は、ころりころりと転がるようにほどけていく。そうして、凪沙が走り去っていった方を見つめて笑う一星と、倒れた椅子の間に白線を引いていた。







 ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てる。考えたくもない可能性が脳裏から離れず、凪沙は髪を振り乱しながら全力で通路を駆け抜けた。数メートル先の角を曲がったところで、聞こえてきたのは剛陣の戸惑いを帯びた怒鳴り声。他にも多くの音や声が混沌としており、凪沙は嫌に冷えた手を一層強く握りしめ、前方に見える雷門側の控え室をひたすら目指した。

「ちょっと、何の騒ぎ──!」

 漸く辿り着いたそこで目にしたのは、異様で異常な光景だった。
 首からカードホルダーを提げた黒服の男たちが、選手が使っていたロッカーを乱雑に漁っている。室内の選手らは動かないよう命ぜられているのか、声だけの抗議をする者もいたものの、全員その場から動かず唖然とその光景を眺めていた。

「……ここのロッカーを使用しているものは!?」

 突然、男の一人が鋭く声を張り上げる。同時に、凪沙は一つの予感が現実になるのを肌で感じた。何故ならそこを、そのロッカーを使っていたのは──

「……お、」
「一星くんだったと思います」

 言葉を紡ごうとした鬼道に被せて、凪沙が出入口の方から凛と発した声に、男たちは一度静まり返った。
 ──この期に及んで、我ながらよくも冷静さを取り戻せたものだと思った。口を衝いて出た言葉が虚言であることを誰よりも知っている鬼道は、ゴーグルの下でその鋭い双眸を丸くした。

「何をっ……いや、それは本当か?」
「ええ、確か」

 黒服の男たちの視線全てが、凪沙に無遠慮に注がれる。それは品定めするような、あるいは疑ってかかるような視線だ。目は口程に物を言うなどと言うが、信憑性の疑わしいその口よりかは、確かに何倍も語っていると思った。

「疑うなら、ライセンスカードを確認したら如何でしょう。多分鞄に入ってるんじゃないですか」

 ──絶対に好き勝手はさせない。何もかもをアンタの思い通りになんてさせてやるものか。その強い執念が凪沙を突き動かす。後を考えずに飛び出した一手に次ぐ一手を、喋りながら考える。

「……あったぞ。君は嘘を吐いたな? この鞄は鬼道有人のものではないか!」
「あれ? 可笑しいな……すみません、記憶違いだったみたいです」

 すっとぼけたように首に手を当てて見せる凪沙。男は彼女をきつく睨み付けてから、改めて鬼道に向き合うと、手に持っていた箱──蓋を開いたピルケースを彼に見せつけた。

「これは、ドーピング効果のある薬物だな?」
「なっ……なんだと!?」

 鬼道の驚愕に満ちた声。部屋のあちこちからも信じられないといったような声が上がった。ドクンドクンと忙しなく跳ねる心臓に気付かないふりをして、凪沙は思考を回し続ける。

「ドーピング違反により! 鬼道有人、君を代表選手失格と見なす!」
「待ってください! 鬼道はそんなことをするわけがない!」
「言い分は取り調べ室で聞く」
「話を聞いてくれ! これは何かの間違いだっ……!」

 男らは鬼道の腕をひねり上げ、後ろ手に拘束すると力ずくで強引に連れ出そうとする。鬼道本人や円堂、風丸が反論するも、聞く耳すら持っていないようだった。
 彼らは鬼道を連行しながら扉の前まで来ると、一度足を止め、そこに冷たい視線を落とした。戸の前には、凪沙が力強く立ちふさがっていた。

「……また君か」
「待ってください」

 意志の強い声が、ロッカールームに反響する。痛みと混乱で顔を歪めていた鬼道が、小さく彼女の名を呼んだ。その声をしっかりと拾った凪沙は、毅然とした態度で男たちを見据えて口を開く。

「可笑しくないですか。ロッカーの使用者なんて、あなた方にとってはそれが誰でも構わないはずなのに、私の答えを信じられないとばかりに随分疑って……それどころか、動揺していたようにも見えましたけど。それで薬が見つかれば、今度は彼が服用したのだとすぐに決めつけて、スポーツ選手に対し酷く手荒に連行しようとするなんて」
「邪魔だ、そこをどきなさい」
「まるで犯人が鬼道くんである……もしくは、少なくとも一星くんではないと分かっていたみたいじゃないですか? それで、誰にも有無を言わせる暇を与えないよう強引に連れていこうとしてる」
「どきなさいと言っているのが聞こえないか」
「誰かが故意に、鬼道くんの鞄に薬を忍ばせた可能性もある。だから多分、まずは聴取と検査をするべきですよね。それなのに、荷物に薬が紛れ込んでいただけで代表失格を宣言するなんて、随分と乱暴じゃあないですか」
「どけ!!」

 男の怒号に数人の肩が大きく揺れるが、凪沙は堂々とした態度を決して崩さない。痺れを切らした男が、凪沙の肩を掴むと横に退かせるように強く引っ張る──凪沙はあえて重心を動かすことをせず、足をもつれさせたふりをして、そのまま重力に乗って床に派手に転倒して見せた。

「だっ……!」
「華那芽!」

 地面に倒れる彼女には目もくれず、男たちは隙を突いて鬼道を連行し、退室してしまう。凪沙を呼ぶ鬼道の悲痛そうな声が、耳の奥で強くこだました。
 すぐさま駆け寄った円堂の手を借りて、凪沙は立ち上がる、痛む膝をさすっていると、円堂同様に駆けつけていた風丸が尋ねた。

「大丈夫か? ……お前、わざと転んだよな? どうしてだ、危ないだろ」
「痛って……本当に信頼できる人らなのか、確認したいじゃん。普通女子を、しかも子どもを突き倒しておいて無視する? 名札見たところFFI管理局の人たちらしいけど、あれはどう考えても尋常じゃないでしょ。明らかに、『どっか』の息が掛かってるんじゃないの……アンタも良く知ってるであろうさあ、」

 曖昧に台詞を切って、凪沙はおもむろにドアの方を振り返る。その動きに合わせて、一同の視線もそちらを向いた。

「相変わらず凪沙さんは気配に聡いですねえ、忍者みたい。もしくは……地獄耳っていうのかな」

 ゆっくりと扉が開き、そこから顔を出したのは一星だった。普段の謙虚そうで控えめな笑みは鳴りを潜め、どこか下卑たような、癇に障る表情を浮かべている。
 試合で幾度となくダメージを与えられた彼は、別室で凪沙から手当てを受けていたはずだが、そういえば先に来たのは彼女だけだったと、メンバーはようやくそこで気付いた。

「鬼道さん、失格になっちゃいましたねぇ」

 一部始終を見聞きしていたのか、一星は鬼道が連れていかれた方を横目で見やりながら、煽るような声音で現状を今一度呟く。真っ先に反応したのは、全国大会で鬼道と共にサッカーをしていた灰崎だった。

「一星……! テメェが鬼道をハメたんだな!」
「なんのことかなぁ灰崎くん? だけど、良くないよねぇドーピングなんて。鬼道さんがそんな卑怯なことをする人だったなんて幻滅だなぁ」
「テメェェ!!」

 一星の、鬼道へのわざとらしい侮辱に、とうとう感情を爆発させた灰崎が掴みかかった。右手で胸倉を鷲掴みにし、背中側の扉にその体を押し付け、引いた左拳を強く握り固めている。明日人が宥めるような声を上げ、凪沙も止めに入ろうと動き出すが、しかし同時に動いた男の姿を視界の端に認め、足を止めた。

「いいのかなぁ、灰崎くんっ……君も鬼道さんみたいに、選手生命を失いたくなければ、おとなしくしておいたほうが身のためだと思うよ?」
「ンなの知ったことかよ!」
「やめろ灰崎!」

 振りかざそうとした拳を、力強く止めたのは円堂だった。自分よりもかなり背の高く体格の良い灰崎を易々と止められたのは、流石キーパーといったところだろうか。邪魔すんじゃねェよ! と振りほどこうとする灰崎に、精一杯落ち着かせた声色で円堂は言い聞かせる。

「今問題を起こしたら、お前まで試合に出られなくなるぞ! ……そんなことになったら、鬼道が一番辛く思うはずだ」
「……ッ、」

 その言葉に灰崎はハッと目を見開いた。彼の強い瞳に見つめられ、今まで近くで触れてきた鬼道の想いや、彼が見せてくれた多くの『光』が一気に思い返される。──灰崎はとめどなく溢れ出す感情を、吐き戻しそうになりながらも何とか飲み下すと、掴んでいた一星の胸倉を突き放すように手放した。
 ようやく解放された一星が、襟元を正しながら明日人の名前を呼ぶ。

「明日人くん、ありがとうございました」
「え……、」
「あの時助けにくれたおかげで──邪魔者を消すことができました」

 その囁きは、一体何人の耳に入ったのだろう。凪沙にはわからなかったが、少なくとも彼女自身と、言われた明日人自身、そして隣にいた灰崎に聞こえたことは予測できた。
 一星はそれから、明日人の返答を聞くことなく部屋を出ていった。感情の捌け口が見当たらない灰崎が明日人をなじろうとするが、昂った感情のせいで上手い言葉を見つけることができず、しまいには物に当たり始める。備え付けの長椅子をなぎ倒したり、床に叩きつけたりしていたところで剛陣が見かねて止めに入ったが、何故か彼は殴り飛ばされた。誰かが止めに入ることもなかった。それでも場を和ますようにセルフエコーをかけ床に倒れていくその勇姿に、凪沙は内心拍手を送った。

「灰崎、落ち着いて」
「っるせェ! これが落ち着いていられるか! 大体、なんでテメぇらはそんなに冷静でいられて……!」

 灰崎はそこで言葉を失った。視界の隅で凪沙の手が、拳を作るように握り固め、酷く震えているのが見えたのだ。襲い掛かる圧倒的な怒りと悔しさを、どうにかして押さえつけ殺そうとしているのが、嫌でも伝わってきた。

「……冷静になんてさ、なれないって」
「……」
「わかってたのに……私がアイツの行動をもっとちゃんと見張っていればって」

 冷静になどなれるわけがなかったのだ。心底歯痒そうに眉間にしわを刻み、歯を食いしばっているその姿に、灰崎は叫び出してしまいたい衝動を今度こそ堪える。手に持っていた長椅子を、ようやく床に放った。

「……とにかく、いつまでもここでうだうだしてても仕方がない。皆、荷物纏めて合宿所戻るぞ」

 円堂の声を皮切りに、メンバーは重い心を引きずったまま各々支度を始める。その内多数が、先ほど雑に荷物を漁られたという事実に直面し、怒りや不愉快さで表情を歪めていた。そんな中凪沙も、一先ず自分の荷物を纏めようとロッカーに向かったが、拳の解けた彼女の手のひらを見た灰崎は息を呑んだ。──丁度手を握り、爪が刺さるであろう位置から血が滲んでいる。マネージャー業に支障を来さないようにある程度は切ってはいるようだったが、それでも食い込んで皮膚が裂けるほどに、強く強く握りしめていたようだった。

「おい」
「何……灰崎」
「手、ちゃんと手当てしろよ」
「! ……わかってる」

 凪沙はきまり悪そうに視線を外した。それから酷く濁り淀んだ空気の中で、苦しそうに息を吐き出す。低く俯いたのは、髪の毛で表情を隠すためだろうか。おかげで彼女の顔を窺うことはできなかったが、辛そうに歪められているのだろうと予想できるのが、灰崎に虚しさをひたすら与えていた。


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