円堂と木野とはじめまして

 春の匂いが鬱陶しいくらい鼻につく。環境の大きく変わるこの季節が、一年のうちで最も嫌いだった。
 前方の黒板はカラフルなチョークで彩られ、歓迎の言葉がいっぱいに綴られている。その下の緑は光沢さえ見てとれるほど綺麗に磨かれているのに、こんなに書き込まれたら一瞬で真っ白だなと凪沙は思った。よほど生徒に対する親しみの強い担任なのだろう。
 慣れないローファーで此処彼処が痛む足を、上履きを半脱ぎにして労る。それから、リボンの下の、一番首を絞めつけている第一ボタンをこっそり外した。
 周囲には、戸惑いを隠して自己紹介したり、さっそく打ち解け合って弾む会話をしたり、出身の同じ友人同士で駄弁るような遠慮のない声が混沌としている。別に羨ましく感じているわけでも、不愉快に思っているわけでもないが、凪沙にはそれがまるで、周囲全てを透明な壁で隔たれているみたいに、別世界のように感じられた。

「あの〜……」

 と、その壁越しに声をかけられたのはその直後だった。初めは自分に話しかけているとはつゆほどにも思わなかったが、その女子の声に、誰の声も続かないのが数秒続いたため、凪沙はようやく後ろを振り返ったのだ。
 すっぽ抜いてた踵をなんとなく上履きに収めつつ、改めて相手の顔を見る。外ハネのショートヘアーに、大きく丸い瞳。纏う雰囲気からは、いかにも人の良さそうな感が出ていた。
 あ、とかえっと、とか、小さく戸惑う声がしたのを、凪沙は喧騒の中でも逃さなかった。振り返った相手が仏頂面だったらそうなるか、と凪沙は心中頷く。すみませんね、こんなのが最初に話し掛けた奴で。
 彼女は多少口ごもったのも一瞬で、初めから掛けたい言葉は決まっていたように、その後はすんなりと話し始めた。

「ヘアピン、同じやつだね」

 そう笑った彼女は、自分の長い前髪を留めていた桃色のヘアピンを指差した。なるほど、確かに凪沙が髪に二つ並べて着けているそれと、同じものだった。とくに装飾もない、色だけが華やかで可愛らしい桃色のヘアピン。快活や女の子らしさとは程遠い自分では、イメージに合わないことくらい重々承知していたが、それでも凪沙はこれを使っていた。しかし見れば見るほど、自分よりもこの可愛らしい目の前の女子のほうが、似合っているように思われた。

「私、木野秋」
「どうも……」

 きのさん、と口の中で確かめるように転がす。「あなたは?」と訊ねられると、『きのさん』の飴玉を端に寄せて小さく「華那芽凪沙……」と返した。

「同じクラスだね、よろしく! 凪沙ちゃんって呼んでもいい?」
「……好きにいいよ」

 屈託のなく眩しい秋の笑みに、今度はこちらが戸惑う番だった。続けざまにメールアドレスの交換を提案され、凪沙はとうとう彼女から視線を外す。
 やべ、この人見かけによらず凄いグイグイくる……。
 コミュニケーションが下手というわけではない……つもりだが、自分と仲良くしたいと思ってくれる相手に対しての態度がいまいち上手く作れなかった。
 ちょっと待って、と断りを入れ、鞄のどこかにしまっていた携帯電話を手で探る。
(まあでも、最初が肝心だもんな……とはいえ友達くらい選べるんだから、選べって)
 内心そう吐き出したのは、嫌味か本心か、それとも自己防衛だったのか。

 ごそごそと探って、ようやく指先に小さな『球』が当たる。それを摘まんで引き上げてやれば、そこから紐、携帯電話と連なって出てきた。こんな扱い方をしているせいで、紐の結び目部分はほつれ、中の透明なテグスが見え隠れしていた。

「あっ、」

 そのストラップを見たかと思うと、秋は声をあげた。その顔はどこか嬉しそうで、そしてほんの少しだけ、複雑そうにも見える。ような、気がしたが、やっぱり気のせいかもしれない。

「凪沙ちゃん、もしかしてサッカー好きなの?」

 その『球』は白地に五角形の黒が規則的に塗られていて、つまりはサッカーボールを模したストラップだった。しかしこれは、サッカーが好きだから、自分で買って身近なものに付けているわけではなかった。違う、そういうわけではなくて。

「あー……いやこれは別に、」
「サッカー!?」

 凪沙の返答に被せて、突如近くから発せられた砲弾のような声が、頭の中で響き渡る。余程興奮しているのか、それとも普段からこれほどまでに馬鹿でかい地声なのか。後者であれば、是非とも関わりたくなかった。

「今そこの二人サッカーって言った!? 俺、実はサッカー部入ろうと思ってて! 二人ともサッカー好きなのか!?」

 その男子は昂ったテンションに任せ、矢継ぎ早に質問してくる。目が覚めるような強い橙のバンダナと、そこから耳か角のようにぴょこぴょこ飛び出した毛束が印象的な彼は、小脇に抱えていたサッカーボールを二人に掲げて見せるように突き出した。

「俺、円堂守! サッカーや」
「却下」

 硬直、そして沈黙。
 仕返しのつもりか、より強い否定の気持ちの表れか。彼がおそらく一番伝えたかったであろう言葉を、凪沙は言葉の鉈で容赦なく断ち切った。
 一瞬の間をおいて、「なんでだ!? 楽しいぞ!?」と抗議の声が上がる。

「興味ない」
「そんなこと言わずに!」
「うるさい声でかい」
「サッカーやろうぜ!!」
「少なくとも私は興味ないから」
「じっ、じゃあそっちの君は!」
「えっ私?」

 とりつく島もない凪沙と懸命に勧誘する円堂に置いてけぼりを食らっていた秋は、思わず上ずった声を出した。そこからすぐに調子を戻し、「私も、サッカー好きなの」と笑いかければ、円堂はこれ以上嬉しいことはないかのように目を煌めかせた。

「ほんとぉ!? 色んな奴に声かけてみたんだけどさ、サッカー部に入ろうとしてる奴全然いなくて……!」
「そうなの? 残念だね……」
「それでさ、放課後になったら入部届け出しに行こうと思ってるんだ!」
「もう!? すごい、やる気満々ね!」
「ああ! 俺もう中学でサッカーやれるのがずっと楽しみでさぁ……! それで君は? サッカー部入るの!?」
「……うん、そうね、マネージャーって、募集してるかなぁ」
「よっしゃあ! きっとしてるよ!」
「だといいなぁ」

 楽しそうに会話に花を咲かせる二人に、今度は凪沙が置いてけぼりを食らう番だった。
(ああ、そうそう、そうやって二人で話しててよ)
 そう愛想のないことを考え、凪沙はもう自分は用済みだろうと言わんばかりに前に向き直した。まだ大した会話もしていないが、二人は恐らく根っからの眩しい人間なのだろう。私とはあまりにタイプが合わない、これじゃ互いに疲れるだけだから、余計に関わるのはやめようよ。流石に面と向かってそんなことは言えないが、そう思った。そもそも、今盛り上がっている共通の話題はサッカー部、私がいつまでもでかい面して輪に入っているほうがよほど迷惑だろう。なんて言い訳も、最後に付け足して。

「で、君ももし興味が湧いたら、見学だけでも!」
「って隣かよ」

 思わず荒げそうになった声をなんとか小ボリュームに抑える。秋と話していた円堂は、ようやく落ち着いてきたのか一息つくと、凪沙の隣の席に腰を下ろしたのだった。確かに、黒板に貼られている座席表を確認すれば、「華那芽」の隣には「円堂」の文字があった。つまり、次の席替えがあるまで、右には円堂、後ろには秋。

(ああ、これは……)

 円堂と秋は、「三人で」会話をしているという認識があるらしい、度々凪沙に話を振りながらサッカー談義を続けていた。時にはプレゼンのように、身振り手振りを交えながらサッカーの楽しさや面白さを語っている。その表情からは、底抜けに「楽しい」と「好き」が溢れ出ていた。(だから私に気なんか遣ってないで二人で話せばもっと楽しいって……)それでも無碍にできなかったのは、彼らが本当に、心底楽しそうに、心を弾ませるようにサッカーの話をしていたからか。それとも。

「あ、そういえば、アドレスまだだったね」

 と、秋がアドレスの記載された画面をこちらに見せてくる。それに便乗するように、円堂も「あっ! 俺も俺も!」と慌てたように携帯電話を突き出してきた。凪沙はお世辞にもにこやかとは言えない表情をなるべく誤魔化しつつ、書かれているアドレスを手打ちで電話帳に足していく。それからすぐに空メールを送り、二人もまた凪沙のアドレスを登録した。円堂の方はどこか慣れない手つきに見える。買ってもらったばかりだろうか。

「二人とも、これから一年間よろしくね!」
「おう! 木野にえーっと……」
「華那芽」
「そうそう! 華那芽! よろしくな!」
「……こちらこそ」

 彼らの眩しい笑みには到底釣り合わない顔で、小さく会釈する。それから円堂に、自分のプロフィールの載った画面を見せれば、彼は「華那芽華那芽ーっと……」と確認しつつ凪沙の名前を打ち込み、登録を完了させた。それからまた、秋とのアドレス交換に移る。

「……あのさ、」
「ん?」
「なぁに?」

 画面に集中していた二人が、同時に顔を上げた。四つの目が凪沙の方を向き、思わず閉口しかける。だが凪沙はそのまま、喉から口にせり上がってきた言葉を、呑み込むことなく吐き出した。

「……サッカー部、頑張れ」

 どうしてこんな言葉が出てきたのかは、凪沙自身もよくわからなかった。わからないなりに、「頑張れ」と一歩引いた位置からの応援を投げかけることで、自分はサッカー部には入らないということを意思表示したかったのだろう、と無理やり理由づけた。
 二人は大きな目をしばたたかせたあと、嬉しそうに顔を緩めて強く頷いた。その笑顔の、なんと眩しいことか。たかが今さっき出会った人間の、適当に吐き出した言葉に、それはそれは嬉しそうな表情を見せるから、凪沙は居心地悪そうに視線を逸らした。
 リボンで締め付けられた襟首に、圧迫感を緩和させようと指を引っ掛ける。なんだか器官が苦しくて、胸に変な心地を覚えたのも、慣れないリボンのせいだろう。明日からは外してこよう。凪沙はそう胸に誓いながら、早く担任が現れないかと祈った。


 





「なんかサッカーボール抱えてる奴いたけどさあ、うちサッカー部ないんだよな。カワイそーに」
「え? そうなん? サッカー部ない学校って珍しくね?」
「いやホントホント。それどころか何か知らねーけど、サッカー自体嫌われてる風潮があるって兄貴が前に言っててさあ……」

 入学式に組み込まれていた部活動紹介で、その名前はなかった。その時からもう、薄々予感はしていたのだ。そしてまだ名前も知らないクラスメイトたちの会話が、それを決定づけた。
 放課後になってすぐ、円堂は入部届をもって職員室へ駆けていった。秋も一先ず見学しようと、後からそれについていった。この話を聞いているのは、教室に残っていた凪沙だけだ。しかし、おのずと二人もわかることだろう。残念だけど、いくら熱意があっても入る部活が無いんじゃ仕方がない。明日、あれほど張り切っていた二人の、残念がっている様子を見ることになるのがどこか億劫に思えたが、自分には関係のないことだと割り切り、凪沙は鞄を肩に掛け席を立った。

(明日なんて声かけりゃいいんだ……? いや……そもそも別に私から声掛ける必要ないか。もしなんか話振られたら、適当に……)

 ああ、こんなことを考えている場合ではない。さっさと学校を出て、帰り際にスーパーによって、今日の夕飯の食材を買って帰らなければ。凪沙は先ほどからぐるぐると頭に回っている二つの顔をかき消すように頭を振り、早足で校門へ向かう。しかし、そこを潜り抜けようとしたところで、突如ぴたりと足を止めた。それから振り返り、数歩戻る。また振り返り、校門を潜ろうとする。一歩踏み出した足をまた引っ込め、再び踵を返して校内に戻った。今度は、振り返らなかった。

(何してんだ私は……)

 ここの桜は、四月の上旬でもまだ華麗に咲き誇っていた。薄ピンクに点々と染められた校庭をあちこち回り、細かく視線を動かし確認してから、また移動する。それを何度も何度も繰り返し、慣れない敷地内を四方八方探し回って、ようやく凪沙の耳はその声を捉えた。
 慌てて近くの桜の木の裏に身を隠す。周囲の生徒の視線がちらちらと凪沙を刺していたが、今の彼女にはそれを構う余裕はなかった。
 そっと幹から顔だけ覗かせる。そこにあったのは、薄汚れた小さな掘っ建て小屋だった。それも随分と古い。そこの出入口を何度も潜っては、中の埃まみれのダンボールや廃材のようなもの、果てには巨大なガラクタなどを、一生懸命外に運び出している影が二つ。円堂と秋だった。二人は新品のジャージに着替えていたが、あちこちがすでに薄汚れている。

(掃除……?)

 その古ぼけた小屋は、どうやら物置になっていたようだった。それをあの二人だけが綺麗にしているということは、つまり、あれがサッカー部の部室、あるいは部室として使っていいとのお達しが出たということだろうか。

(となると、サッカー部作る気か?)

 その熱意は一体どこから湧いてくるのだろう。入学初日、周囲と親睦を深めたいだろうに、それをも後回しにして、掃除なんてしている。その上そんな雑用みたいな労働を、凄く、楽しそうに。やっぱり変わった人たちだと、薄々感じていた感情を凪沙はとうとう心の中で言語化した。

(そんな変な人たちを、木の陰からじっと見てる私も大概変人じゃん……)

 はたと気付き、口端から乾いた笑いが漏れた。あーあ、一体全体自分は何をやっているのだろう? さっさと帰ればいいのに。さっさと帰って、やっておきたいことはいくらでもあるのに。
 それなのに凪沙は、何故かその場からちっとも動くことができなかった。地面と足とがくっついてしまったように、まるで動かない。許された自由は、木の陰から彼らを覗き込むことだけ。
 それから何分経っただろうか。もう随分と働きっぱなしの二人だが、一向に疲れる様子が見えない。よほどタフなのか、隠しているのか、それとも楽しさで忘れているのか。

「――さて、粗方運び出せたし、片付けてきましょうか」
「そうだな! で、これどこに運べばいいんだっけ?」
「えーっと、確かまだ余裕のある倉庫があっちにあるって……」

 二人は相談し合いながら、運び出した大量のダンボールや大道具を一つ二つと持てるだけ持ち上げると、倉庫があるらしい方へ向かった。それからしばらくしないうちに帰ってきて、次々と荷物を運搬していく。

(おいおい……円堂はまだしも、木野さんにはキツいでしょうが)

 円堂には見た目の印象通り、女性という生態に対するデリカシーや気配りが薄いと見えた。失礼を働くというわけではないが、男女の力量差を大して考えてないように見える。いや、よく見れば秋のほうは易々と運んでいるような気もする。いかにも控えめで、運動よりも勉強の方が得意そうなイメージがあったが、思いのほか身体能力は高いのかもしれない。
 しかしどちらにせよ、あの量はたった二人で運びきるには、相当の苦労を要するだろうということは、誰の目からしても明白だった。

(……)

 円堂と秋が鞄を置いて職員室に向かって、凪沙はしばらくずっと、用事の無い教室に残っていた。途中で切り替えるようにして帰宅体勢を取るも、その両足は校門を潜ることをしなかった。慣れない敷地内を、必死になってあちこち探し回った。木陰からそれを眺め始めて、気が付けば三十分以上が経過していた。

(……いや、本当、馬鹿みたいっていうか、馬鹿じゃん)

 本当に、自分は一体何をしているのか。凪沙は自分への呆れを交えた大きなため息を吐くと、彼らの方に向かって、迷いなく歩き出した。今度は、驚くほど簡単に足が動いた。

「……あれっ、華那芽?」
「え? 凪沙ちゃん?」

 凪沙の姿を捉えた二人が、驚いて作業の手を止める。帰ったんじゃなかったのか。どうしてここに。二人の双眸がそんな疑問を訴えているのが、手に取るようにわかった。
 凪沙は鞄を肩に掛けたまま、そばに積まれていたダンボールの一つを腰を入れて持ち上げる。それなりの重量があったが、この程度なら全く問題はない。
 二人の表情を見るのが、どこか躊躇われた。しかし凪沙は、しっかりと二人を見据えて、真一文字に結んでいた口を開いた。

「これ……どこに運ぶって?」

 二人の目が大きく見張られた。それから、とびきり美味しいものを食べた時とか、サンタからのプレゼントが届いた時とか、宝くじが当たった時とか、イメージとしてはそれくらい、それはもう嬉しそうに、頬を染めて目いっぱい口角を上げて、破顔させたのだ。

「華那芽!」
「凪沙ちゃん!」
「ちょっ……別にサッカー部入るわけじゃないし、そんな喜ばれても困るっていうか、あっ、うわっ」

 その眩しい顔が急に迫り、凪沙は驚きのあまりダンボールを地面に落としてしまう。重力に逆らっていた名残で浮いた右手を円堂が、左手を秋が取り、ぎゅっと握った。
 ――慣れない。
 嬉しさと、優しさと、感動と、喜びが混ざったような。そんな、大きな価値さえある宝石のような、きらきらとした感謝の瞳を向けられるほどのことをしているつもりは、決してなかった。そんな目を向けられることも、痛いくらいに気持ちが伝わる人の手の温もりも。こんなことは一向に慣れていなくて、戸惑いを隠せない。
 頬が普段より熱くなっていることに気が付き、それがさらに己の挙動不審さを加速させる。そんな自分が酷く滑稽で、恥ずかしく、どうにか誤魔化したくて「早く作業しないと、日暮れるよ」と絞り出すように呟いた。どうしてかその手を自ら振りほどくことは、できなかった。

 真新しい制服が汚れることを、凪沙自身は別段気にも留めなかった。しかし秋はそれを気にし、それを見た円堂は着ていたジャージの上着を脱ぐと、凪沙に差し出した。春とはいえまだ四月の頭、中に着ている半袖だけでは寒かろうとも思ったが、まるでその様子がなかったため有り難く拝借することにした。背丈は大して変わらないように見えたが、そのジャージはほんの少しだけ大きかった。

「よーし! それじゃ、掃除再開だ!!」
「おー!」

 やる気満々といった風に、満面の笑みで拳を天に突き上げる二人。そんな彼らが、想い描いたサッカー部を作れたらいいと。建前も嘘偽りもない心で思った凪沙は、彼らに釣られるように頬を緩め、目を細めて笑った。


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