視力検査と風丸

「しまった……」

 教室について鞄を開けた時、風丸はようやく己の失態に気がついた。落胆した声で独り言ちると、鞄の上に伏せるように項垂れる。蒼く艶やかな長髪が、鞄の上をなめらかに流れた。
 「おはよ、どうした」そばからやや眠そうな声色で尋ねられ、風丸はおもむろに顔を上げる。

「おはよう華那芽……いや、今日健康診断あるだろ?」
「ああ……」

 二年に上がってから同じクラスになった凪沙は、始業式の時から隣の席で、次の席替えがあるまでこのままだ。要領を得ない風丸の台詞をすぐに理解した凪沙は、風丸の顔……もっと言えば、彼が指先で気にしている、左目をまるまる覆っているその長い前髪に、隣の席から視線を注いでいた。

「視力検査か」
「これ絶対怒られるよな……」

 彼はその分厚いカーテンを掻き上げ、耳に掛けようと試みる。しかし決して少なくはないそれが掛かり切ることはなく、すぐにはらりと定位置へ戻ってしまった。やっぱり駄目かぁ……と呟く風丸に、ワンテンポ遅れて「ん……?」と疑問の声が上がる。

「去年はどうしてたの」
「ああ、いつもカチューシャで全部上げてるんだけど……」
「カチューシャ……風丸が?」
「おう」

 洗顔時などは例外とすると、普段はほとんど使うことがないが、風丸には愛用しているカチューシャがあった。その姿を見せたことがあるのは、幼馴染みの円堂くらいだろうか。
 風丸がその特徴的なヘアスタイルを変えることは、学校ではほとんど皆無に等しい。ゆえに凪沙はどうにも想像が及ばないらしく、考え込むようにしてそれきり黙ってしまった。

「……ちょっと失敬」
「何……わっ、」

 かと思えば、凪沙の腕が急に伸びてきて、その細い五指は迷うことなく風丸の顔に向かっていく。彼がたじろぐ暇もなく、そのまましなやかな手つきで長い前髪をめくり上げられた。ある程度の距離は保ちつつ、凪沙はうろたえる風丸の素顔をまじまじと眺める。

「ああ、なるほどこういう感じ」
「おま、いきなり驚くだろ……」
「ごめんごめん」
「思ってないだろ」

 そのあまりの平然っぷりに、まるで自分が彫刻等の美術品にでもなったかのような気分だった。居心地が悪い、というほどでもないが、近くで顔を見られるのはどうにも心が落ち着かない。視線を置く場所にも困り、風丸は斜め下に目を逸らした。しかしそれも一瞬で、どこか吸い寄せられるように再び凪沙の方を見る。彼女の静かな、水面下のような落ち着いた瞳と、目がかち合った。
 ――あ、人間の目って、こんなに透き通ってて綺麗なんだな。
 そんな率直な感想が出てきた頃には、いつの間にか凪沙の顔は遠ざかっていた。両の目でしっかりと見つめた他人の瞳に、どこか不思議な心地になっている。誤魔化すように頭を振って、少し浮いた前髪を元に戻した。
 「ちゃんと左目あったんだね」「無かったら怖いだろ……」などとくだらないやり取りをいくらか交わすが、不意に凪沙が閉口する。不思議に思っていると、

「……風丸ってやっぱ綺麗な顔してんね」
「は!?」

 臆面もなく、まるで今日はいい天気だねとでも言うかのように、さらりととんでもないことを言ってのけられた。あまりの出来事に、思わず心臓が跳ね立つ。しかし彼女に他意はないことはわかる。それどころか、凪沙の場合は大抵の男が喜ぶ「かっこいい」よりも、「可愛い」というニュアンスを込めているようにさえ思えた。それはあながち間違いでもないのだろう。凪沙とは一年生の時からの付き合いになるが、彼女が身近な男子の容姿を「かっこいい」と褒めたたえるとは思えなかった。

「揶揄うなよ」
「褒めてんだよ」
「どうだか……」
「で、結局どうするの」
「あ、やべ……」

 言われて思い出した。そうだ、自分はこの長い前髪をどうにかしようとしていたのだ。最悪手で押さえておくという手もあるが、部屋で監督している可能性のある生活指導の菅田先生に後でどやされることは目に見えていた。

「ああ、じゃあ私のピン貸そうか」
「本当か!? ……あ、いや、やっぱり大丈夫だ」
「え? や、困ってんでしょ。使えば。私は別になくても困らないし、第一二本あるし」
「いやー……その……」

 もごもごと口ごもる風丸。凪沙はそれ以上問いただすことはなかったが、しかしその眼はじっと風丸を見つめている。彼は頬を掻きながら、ほんの少し照れたように、困ったように、戸惑った理由を喉から絞り出した。

「ピンク色……」
「……」
「……」
「……風丸ってやっぱ可愛いね」
「ほらやっぱり!」


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