新入生の音無さん

「ごめんちょっと、私忘れ物しちゃったから先に行ってて!」
「え? いいよ待ってるよ」
「だ、大丈夫大丈夫! すぐ追いかけるから!」
「そーお? それじゃあ先に行ってるね」
「は〜い!」

 ──なんて豪語したは良いものの、私は涙目になりながら自分の無計画さにほとほと呆れていた。
 入学してから早二週間。慣れない制服を身に纏い、新しいクラスメイトの存在や授業、部活動の仮入部などで周りも自分もてんやわんやな日々だった。
 そんな今日のある休み時間。教室移動の途中に、私は急遽友人と別れた。理由は先ほど述べたものではない。あれは咄嗟の嘘だった。
 ふらりと階段の踊り場でしゃがみ込む。下腹部を襲う鈍痛に、教科書を持つ手にギリギリと力が入った。おかしい、いつもはこんなに酷くないはずなのに。ストレス? 中学が始まって色んな環境が突然変わったストレスのせい? それとも春休みに調子に乗って美味しいものたくさん食べたから? ええいそんなことはどうでもいい今私はとにかくお腹が痛いんだ!

 すぐに治ると高を括っていたが、待てど暮らせど一向に痛みが引くことはない。元々教室を出るのが遅かったせいで、誰かが通ることもなくとうとうチャイムが鳴ってしまった。しんとした階段に淡々と響く高い機械音が、容赦なく不安を掻き立てていく。血が足りないような感覚に頭がくらくらしてくる。どくどくと心臓が跳ね、じわりと額に汗が浮くのがわかった。

「う、うう……」

 どうしよう、授業始まっちゃった。今さら友人の携帯電話にメールを入れたところで気付いてもらえないだろうし、かと言って今から走って教室に向かう元気もない。第一まだ四月、学校が始まったばかりだというのに、初っぱなから遅刻して教室に入るのも嫌だった。もっと言えば、先生に問い詰められたり怒られたりすることや、クラスの人にじろじろと見られたり「音無が遅刻した」と印象づけてしまうのが怖かった。ああ、どうしよう、どうしよう。いっそこのままサボってしまおうか。でも無断で授業を休むなんて。次の時に何て言われるかわからない。

 駄目だ、体調のせいでどんどん思考がネガティブな方向へと進んでいる。音無というよりやかましだなんて男子にからかわれることさえあった私が! あろうことかネガティブ思考だなんて! やだやだ、これじゃあまるで昔に戻っちゃったみたい。そんなのは嫌だ、認めたくない。でも、じゃあ、一体ここからどうすればいいの?

 ──こんなふうに、怖くて身動きが取れなくなって縮こまっていた時、いつもすぐに駆けてきてくれたあの人のことが、不意に頭をよぎった。いつでも私の手を握って引っ張りあげてくれた、守ってくれたその人とは、もう会うこともないのに。
 脳に浮かんだその幼い姿をかき消すように頭を振る。余計に頭のくらくらが増してしまった。馬鹿、馬鹿だ。馬鹿すぎる。う、吐きそう。
 ぐるぐると回っているのは思考か頭か目か世界か。まとまらなくなってきた脳内に不意に入り込んできたのは、きゅ、と上履きが擦れる音だった。

「どうしたの」

 それはまさに救いの声だった。涼やかで平淡な声だったが、私には慈愛の女神の御声のようにすら聞こえたのだ。
 踞ったままゆっくり顔だけ上げる。その女の人は、リボンを付けていないから何年生かわからなかったが、少なくとも先輩であることはすぐに悟った。入学したばかりで早速制服を着崩すような度胸のある一年生など、早々いないに違いない。

「一年生?」
「あ……はい……」
「具合悪いの」
「ちょっと……あの……お腹痛くて、」
「歩ける?」
「……ま、まだ、無理です」
「そう」

 その先輩は小さく相槌を打つと、私の前から離れてしまう──かと思えば、踞る私の右隣にしゃがみこんできたのだ。戸惑うようにそちらを向くが、先輩はこちらを見ることなく真っ直ぐ斜め下に視線を向けている。

「あ、あの」
「少し楽になったら保健室行こうか」
「え、あ、えっと、先輩? は、授業は……」
「先生が休みで自習。教室移動の時に忘れ物して……その帰りにあんた、貴方の声が聞こえてきたから」

 あ、あの唸り声が聞こえてたのか……なんだか恥ずかしくなってしまい、小さく俯く。視界の端で先輩がこちらを向くのが分かった。その様子を横目でそっと眺めると、先輩は私の抱える教科書を見て、少し考え込むようにしてから口を開いた。

「次、音楽か。あの先生温厚だから別に怒ったりしないよ。心配しなくても大丈夫」
「えっあ、ほ、ほんとですか……? 良かったぁ……」

 思わず安堵の息が漏れた。不安が和らいだからか、少しだけ痛みがマシになったような気がした。それにしても何故私が心配していることがわかったんだろう?
 それから少しの沈黙が続いた。いつもはポンポンと話題が浮かんでくるこの頭も、今ばかりは上手く機能してくれなかった。先輩も先輩でそれきり黙ったままだ。時折何か喋ろうと口を動かすが、やっぱり閉じてしまう。それを何度か繰り返して、先輩は今一度口を開いた。

「部活はもう決めた? 入るの?」
「えと、新聞部に入りました」
「へえ……話聞いたり写真撮ったりするの好きなの?」
「はい! 先輩は、何か部活入ってるんですか?」
「一応帰宅部」
「一応……?」
「や……帰宅部……だけど、よくサッカー部に顔出してる」
「サ、ッカー……」

 思わず言葉が詰まった。かき消したと思ったあの人の姿が、再び頭に浮上する。ぎゅ、と、お腹ではなくて鳩尾のあたりが痛くなったような気がした。幸い先輩は私の様子には気付いていなかったようで、話し続けた。

「まあ、なかなかまともに活動できてないんだけどね」
「え、そうなんですか? どうして?」
「んー…去年発足したばっかりで、人数足りてないし練習できる場所もないし。うちはどこの部活も盛んだから、見込みのないぽっと出の部活は冷遇されんだろうなぁ」
「そう、なんですか……」
「一年が少しでも増えてくれれば、少しは状況変わるのかもしれないけど……ま、なるようにしかならないからなぁ」
「あ……の、頑張ってください!」
「ありが……あ、いや、まあ私はサッカー部じゃないんだけどね」

 たどたどしく付け足す先輩に、ふと疑問が湧く。彼女は随分とそのサッカー部に入れ込んでいるように感じられるが、何故自身は所属していないのだろう? マネージャーとか、やってても可笑しくなさそうなのになあ。聞いてみようかとも思ったけど、もしかしたら野暮な質問かもしてないと思い直して黙った。

「そっちも、新聞部頑張れ」
「あっ、ありがとうございます! 頑張ります!」

 とび跳ねるようにお礼を伝えると、先輩は口元に少しだけ笑みを浮かべた。その顔がとても優しく見えて、ほわ、と心に暖かさが充満する。それが全身に伝わったところで、そういえばいつの間にか痛みが少し軽くなっていることに私は気がついた。

「あ、あの! 少し楽になったので、私保健室に行きますね」
「そ、良かった。じゃ行こうか」
「え?」

 まるで一緒に行くかのような口ぶりの先輩は、先に立ち上がって私に手を差し出してきた。それに甘えて引っ張られるように腰を上げながら、私は問う。

「あの、先輩、私保健室の場所なら知ってます。一人で行けます」
「途中で倒れられたりしたら私が嫌だから、付き添う」
「で、でも」
「いいから。ほら、荷物貸して」
「えっあっ、」
「無理はしないほうがいい」
「あ……ありがとうございます……!」

 や、や、優しい〜〜〜!! なんて親切なんだろう、この先輩は。そもそも先輩にいいことなんて一つもないのに、こんなところにしゃがみ込んで私を一人にしないでいてくれた時点で、この人が優しいことは十分にわかっていた。だけどどうやら彼女は、感謝されることや「親切な自分」であることにあまり慣れていないらしい。どこか気まずそうに、居心地悪そうに視線を逸らしながら「行くよ」とゆったりしたペースで歩き出した。

 二人で並んで歩きながら先輩は、生活指導室の前は菅田先生が面倒くさいから走らないほうがいいとか、購買のカツサンドが美味しくてオススメだとか、ぽつりぽつりと、雷門中の色んなことを教えてくれた。
 しばらくして保健室が見えてくると、再び腹痛が舞い戻ってきた。先輩に軽く支えられながら、美人な女の先生に迎えられる。先生にベッドのほうへ誘導されている間に、先輩は私の代わりに紙に名前を書いてくれていた。持って貰っていた教科書に名前が書いてあるはずだから、それを見たのだろう。

「じゃあね、お大事に」

 ここまでのお礼を述べようと声を絞り出す前に、先輩はあっさりと退室してしまった。ああ、もっとちゃんとお礼を言いたかったし、まだまだ色々お話したかったなぁ……。そこで私は、そういえば名前すら訊いてなかったことを思い出す。完全に失念していた。名前どころか、二年なのか三年なのかもわからない。
 この学校は人数もかなり多いから、え、それじゃあまた会うのは難しいの? ──いやいや!
 こんな時こそ、新聞部員の本領を発揮する時だ。あの部の中学生らしからぬ情報網を使って、絶対に見つけ出してみせる! 並々ならぬ気合いと覚悟を固めたところで、とうとう力尽きたのか急激な疲労感と眠気が襲ってきた。私はそれに逆らう術もなく、そのまま眠りに落ちた。


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