一星を知る
どんな事情があろうと、決して赦されないことというのはあるのだろうか。それを決めるのは被害者本人の気持ちか、法律か、大多数の意見か、人間的な道徳心か。気持ちの上で「それならば仕方がない」と納得できる事情であったなら、それまでの行いを赦すべきなのだろうか。
周りがもう赦しても良いだろうと言っても、被害者本人が赦せないことはもちろんある。反対に、どれだけ被害者本人が納得していても、周りが納得できないことだってある。
赦すことは難しい。なんとかして自分の気持ちに折り合いをつけなければいけない。それには強さが必要だ。その強さを果たして、私は持っているのだろうか。
*
「あら、凪沙ちゃん」
心地の良いやわらかな声色が、小さく反響する。大浴場を独り占めしていた凪沙は、湯船に浸かりながら扉のほうをゆるりと見やった。
「秋ちゃん」
長い前髪を留めていたヘアピンを外した秋が、今日もお疲れさま、と労りの言葉を掛けながらシャワーの方へ向かっていく。呼応するようにお疲れ、と呟いてから凪沙は視線の位置を戻した。「聞いたわ、い──」秋が何か話し始めたが、同時にシャワーのコックが捻られ水音に掻き消されてしまう。
「ごめーん、何も聞こえなぁい」
「あはは、そうだよね」
全身を洗い流した秋は、備え付けではなく自ら持ち込んだシャンプーで髪を洗い始めた。──ちなみに凪沙やつくし、杏奈も家で愛用したシャンプーを持ち込んでいる。九割方が備え付けを使っている男性陣とは正反対だった──もこもこと泡立てていきながら、再び口を開く。
「一星くんのこと。風丸くんが私にも、って伝えに来てくれたの」
「ああ」
「きっと皆、思うところはたくさんあるのよね」
「そうだねぇ……」
浴槽からシャワーまでの距離を埋めるように、普段より少しだけ声を張って言葉を交わす二人。数秒の間を置いて、秋は再びシャワーを捻るとシャンプーを洗い落とした。水を吸って重くなった髪は、丸く反るように跳ねた普段とは違い、首にへばりつくように真っ直ぐ下りている。それをかき集めるようにして軽く持ち上げてから、今度はコンディショナーを少量、短い毛先に浸透させるようにつけていく。
「円堂くんはきっと、一星くんを助けたいって言ったんじゃない?」
「あー当たり。円堂に賛同するやつも多かった。もちろん、納得してないやつもいるけど」
「そう……」
「秋ちゃんはどう思った?」
「そうねえ……、難しいなぁ……」
うんうん考えつつコンディショナーを洗い流す。軽く水気をしぼって、持ち込んだバレッタでまとめ上げてから、同じく持ち込んだボディ用のスポンジで体を洗っていく。
「私は皆より一星くんとの関わりが少ないから、なんとも言えないけど……でも、一星くんってまだ一年生でしょ? 去年まで小学生だったんだもの、先輩の私たちにできることがあるなら、してあげるべきなんじゃないかなと私は思う」
「そっかぁ」
「だけどもし……皆が、一星くんが今までしてきたっていうことを全部忘れて、なあなあにしてしまったら……鬼道くんが、報われないじゃない?」
「……うん」
「円堂くんに怪我をさせようとしたのだって、もちろん赦せることじゃないもの。結果的に無事だったからよかったものの……。だけど、円堂くんがそれについて怒ってなんかないし、何より円堂くん自身が一星くんを信じてるんだから、周りがそのことにずっとこだわっていても仕方がないのかもしれない」
言い切って、秋はまたシャワーを手に持ち泡を洗い流していく。凪沙は額に張り付いていた前髪を煩わしそうに横に撫でわけた。
「凪沙ちゃんは? どう思ってるの?」
「私は……」
持ち上げていた利き手を再び湯船に沈め、凪沙はしばし沈黙した。考え込むように目を伏せていたが、しばらくしてまたおもむろに口が開かれる。「……わかんないや」そこから紡がれた言葉に、洗顔料を泡立てていた秋は少しだけ眉を下げながらも笑った。
「わかんないんだよなぁ、どうすれば正しいのか。円堂の言うことは道徳的に考えりゃ尤もなのかもしれないけど、でも、灰崎たちが反発する気持ちもわかる。秋ちゃんの言ってることだってよくわかる……」
「うん」
「……でも私はやっぱり、事情がわかっても納得はできない……と、思う……多分」
「うん」
断言できず、たどたどしく言葉を付け足していくに、秋はやわらかく相槌を入れていく。肯定も否定もしないが、すべて吸収して受け入れてくれるようなやわらかさだった。
「私が被害者面してるのもきっと可笑しな話なんだろうけど……でも、私はあいつらが
害われたことをなかったことにはできない。そんな簡単に割り切れないし……」
「うん」
「……だけどさ」
「うん?」
「だけど、それ以上にあんなガキに対して、あんなことをする以外の道を断とうとする奴等のほうが、よっぽど人間的にクソだと思うし赦せないんだよね」
今度は迷いのない口調だった。凪沙のまっすぐな気持ちに触れ、秋は確かな笑みを浮かべる。ゆるめられた口元が、十分に泡立てられた洗顔料に埋もれていった。
凪沙は、かつて聞いた一星の寝言を思い出していた。彼は、兄ちゃんが助けてやるからと、そう覚悟を決めていたのかもしれない。彼の行動はすべて弟のため。例えそのために自分がどう犠牲になっても、何に手を染めることになっても。
だけどそんなのは、あまりにも悲しい。
「……別に、一星を庇いたいわけじゃないけど……私はあっちもこっちも大事にできるほど器用じゃないし、そんなに優しい人間になんてなれない。でも、一星がそうしたんじゃなくて、力のある大人が一星にそうさせたんだとしたら、誰かがあのクソガキをまも……前に、立ってやらないと、この先ずっと続くことになるんじゃないかと思うし……それは駄目だと思う」
凪沙の声が途切れてから、再び秋の手によってゆるくシャワーが流れる。以前、顔に直接シャワーは当てない方が良い、手でぬるま湯を掬い取って流した方が肌に良いのだと夏未から聞いたことがあったが、いつもついつい簡単な方を選んでしまう。とくに、時間をかけたくない今は。
泡をすべて洗い落とした秋は、ぷはっと一呼吸して酸素を取り込む。シャワーで乱れて落ちてきた前髪を掻き分けながら、口を開いた。
「一星くんは、きっと凪沙ちゃんのこと慕ってるわ」
「え? いや……ないない、猫被られてるだけだって」
「ううん、そんなことない。それに凪沙ちゃんだって、一星くんのことずっと気に掛けてたじゃない」
「えっ……私が?」
「だからもっと単純に、素直に考えたらきっとわかると思う」
そう言って笑う秋に、凪沙は少し意表を突かれたようだった。それから少し考えるように視線を泳がせていたが、それもまばたきをひとつ挟んで止まった。
「……私はさ、皆には楽しいサッカーをしてほしい。私はずっと、円堂たちが楽しそうにサッカーしてるのが──……」
その続きは、ブクブクと気泡の膨らんで割れる音に埋もれて消えた。水面の下でまだ少し、もごもごと口元が動いているが、凪沙がそれを言い直すことは結局なかった。ただ秋には、その言葉の残骸が何だったのか伝わったようだった。その『皆』に、無意識下で一星も含まれているのだろうということも。
「そうね。私も、皆には楽しいサッカーをしてほしい。楽しくサッカーしてる円堂くんたちが好きだもの」
そして何の気なしに凪沙の気持ちを代弁して見せる秋に、凪沙は少し居心地悪そうに顔をしかめつつも頷く。不愉快というわけではない。湯船に浸かっていることだけが、頬が上気している理由ではなかった。
バススツールから腰を上げた秋が、ようやく凪沙のいる浴槽に向かう。──それより2、3テンポ遅れて、何かがガタンと音を立てた。
「え?」
「ん?」
二人はしばし顔を見合わせたが、まあいいかとすぐに思い直すと、「お邪魔しまぁす」「へいらっしゃい」などと気の抜けた会話を弾ませ始めた。
*
(ふざっけるな……!)
──隣接する男子風呂で、ある衝動に耐えるように震える影が一つ。
普段選手らは、マネージャーやサポーターと同じ時間帯に入浴することはない。しかし彼の足に刻まれた人に見せたくないものは、体温の上昇に伴い浮かび上がるなどといった難儀な仕組みであり、そもそもそれがなくともあんな奴らと仲良く風呂なんて絶対にごめんだと、彼は頑なに他のメンバーと入浴時間をずらしているのだった。それが今日、たまたま女性陣の入浴時間帯と被ったようだ。
つまりそれまで誰も、まさか隣の浴室の声が耳を澄ませれば、少し声を張っていれば筒抜けだなんて、知りもしなかったのである。
(アイツら好き勝手言いやがって……! だいたい、俺が何してきたか分かってるくせに、そのくせ俺のこと何も知らないくせに、庇うようなこと言ってんじゃねェよ! ふざけんな! 正義気取りか!? 庇うな、庇うな!)
水気を含んだ頭を抱え、シャワーの前で踞る。シャンプーに手を伸ばそうとして、壁越しに声が聞こえることに気が付いてから、そしてその内容が自分のことであるとわかってから、一星はずっとこうやって聞き耳を立てていた。このままでは風邪を引いてしまうとわかっていても、彼は一向に動くことができなかった。
(なんなんだよどいつもこいつも……! 円堂守も、木野秋も……とくに、お前だ華那芽凪沙……! 俺を赦せないんだろ? おまえの大事な奴らを傷つけて、お前のことも散々利用して、馬鹿にして、振り回してやった! なのに、結局は庇おうとしてんじゃねェか! なんでだ? なんで俺を見限らない? なんで俺を、俺なんかを……!!)
やり場のない感情が、爆発しそうなほどに体内で膨張して身体を圧迫する。歯を食い縛り、癖のついた頭をかきむしった。
壁越しに届いた声が何度も頭を巡り、固めていたはずの覚悟が掻き乱されていく。
(誰もあんなやつを慕ってなんかいない! チョロいやつだと思ったから利用してやってただけだ! だから俺は、お前に庇われる筋合いなんてない! そんな道理も謂れもないんだよ! どうして、なんで……!)
そう、自分は凪沙のことを慕ってなどいない。そのはずだ。甘えたようなフリをしたのも、懐に入るため。度々絡みに行ったのも、情報を引き出すため。部屋に入ったのも、とにかく全部自分の役目を果たすことに少しでも繋がると思ったから。ベッドに転がってうっかり寝てしまったのは誤算だったが、とにかく、自分は凪沙に何の感情も持ってなどいない。せいぜい馬鹿なやつだと嘲るくらいの気持ちしかない。そのはずなのだ。そのはずなのに……。
一星には、今自分を襲う感情の正体がわからなかった。名前をつけることができずに、ただただ強烈な、心臓をどろどろに溶かしてしまいそうなほどの怒りであると感じていた。
一星は隣から物音がなくなるまで、とうとうその場を動くことができなかった。
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