試食と細工と貸しひとつ

 もうもうと沸き上がる湯気。食欲をそそる匂いは目ならぬ鼻に毒だった。思わずゆるみそうな表情を引き締め、怪訝そうに彼は問う。

「……何ですか、これ」
「ビーフストロガノフ」

 表情変えずに言ってのける凪沙に、一星はますます眉をしかめた。ビーフストロガノフ。そんなこと見ればわかる。とくにロシアに長く滞在していた一星にとっては、凪沙に半ば強制的に食堂へ連れてこられ、しばらくテーブルで待たされていた時点で、漂ってくるその匂いから何の料理が待ち構えているのかわかっていた。

 正直なところ、一星は今すぐにでも自室に戻りたかった。というより、凪沙と顔を合わせていたくなかったのだ。今の彼女は、一星に余計な感情を抱かせた。
 自室の扉がノックされ、戸を開いた先に凪沙が立っていた時、一星は腹の底で何かが煮えたぎるように熱くなるのを感じた。同時に、突き飛ばしてしまいたくなる衝動が溢れる前に、戸を閉じようとした。しかし、いつかの時の一星と同じように、彼女は扉の側面に手を滑り込ませると、どこにそんなパワーがと問いたくなるような力強さで押し開いたのだった。

『暇でしょ、ちょっと付き合って』

 そう一方的に告げるや否や、力技の強制連行だ。ぐいぐいと腕を引かれ、下手な方向に捻られているせいか上手く抵抗もできない。細身の──特別痩せているわけではないが、野郎ばかりのここでは女性陣は皆一回り細く見えた──後ろ姿はどこか柔らかそうでもあり、到底男より強そうには見えないのに。一体どこでそんな力と技を培ってくるのだこの女は。その背中を睨み付けながら、一星は目的地もわからないまま凪沙に引っ張られるしかなかった。
 そして、これだ。
 一体全体何のつもりなんだ、この女は。傍らに立ったままでいる凪沙を、椅子に座った一星は窺うように一瞥する。

「メニューの意見箱に入ってたから、作ってみた」
「……へぇ、随分マニアックな人もいたもんですね。誰が投書したんだか」
「さあ、無記名だったから。でも基山あたりじゃない、前に好物って話してたし」

 意見箱とは、凪沙がサポート役の秋と共同で作ったものだ。食堂のメニューに対する要望を投書(無記名可)することで、料理長のような存在であるヨネとともに検討し、栄養やコストの面をクリアすれば晴れてメニューに追加される。

「ロシアの家庭料理って言うから、アンタなら本場の味知ってると思って呼んだ。試食して」
「はぁ? なんで俺が……」

 そうは言っても体は素直で、丁寧にテーブルナプキンの上に置かれたスプーンに気付けば手が伸びていた。(……それにしても本格的だな。)ご丁寧に粉パセリまで掛けられている。中心となって調理しているヨネや秋と比べれば、大したことないのだろうと思っていたが、存外この女も料理が上手いらしかった。
 米とルーを少しずつ掬いとる。懐かしい匂いだ。一星はその小さな一口を、ゆっくり、あるいはどこか恐る恐る口に運んだ。
 丁寧に咀嚼し、口いっぱいにトマトの酸味と牛肉の旨味、それから玉ねぎの甘みが広がる。サワークリームの爽やかな後味。鼻から抜ける風味の、その懐かしさに、一星は形容しがたい気持ちを覚えた。強ばっていた体が弛緩するのがわかる。つん、と何かが内から鼻を刺激したような気がした。
 ロシアにいた頃に食べた本場の味には届かなかったが、それでも純粋に、一星の味覚はある種の感動を覚えたのだった。

「……うまい」

 思わず口からそう零れ、は! と慌てて顔を上げる。凪沙は、笑ってこそいなかったが、どこか満足げに見えた。なんたる失態だ。「ま、まあ初めてにしては上出来なんじゃないですか」あとから付け足したが妙に無理やり感が出てしまい、決まりの悪さを隠すために次の一口を口に運んだ。噛んで、よく味わって、次、さらに次。 「別に、入らなかったら全部食べることないから」と言われたが、どうにもスプーンが止まる気がしなかった。

 凪沙は一星から一つ離れた椅子に腰を下ろした。データの整理だろうか、彼女が何かを小さな手帳に書いている隣で、一星は目の前の料理を一心に食べ続けた。冷めないうちに、と速いペースで口に運んでいると、消化が悪いからよく噛んで食べろと横目で注意された。口うるさいなと思いつつも、それに従ってしまったのはきっと、これ以上文句を言われずに味わいたいと思ったからだ。







 人目を惹く、鮮やかな濃桃色の頭髪が揺れる。野坂悠馬は、優雅な足取りにいつもの余裕たっぷりな笑みを浮かべて、凪沙のいるラウンジまでやってきた。

「や、お疲れ」
「凪沙さんも、ありがとうございました」

 ──どうでも良いが、今年から縁を繋ぎ始めた人間は、どうにも当たり前のように下の名前を呼んでくる傾向にあった。呼び方にこだわる方ではないから、名字だろうが名前だろうが気が付ければ問題はないのだが、円堂らといた時は同学年からも後輩からも軒並み名字で呼ばれていたものだから、どこでここまで顕著に違いが出たのかと疑問に思わないでもない。──なんとなく、最初に呼び始めた稲森たちの影響がある気がした。人口の少ない孤島出身であるから、呼称に関してもアットホームなところがあったのかもしれない。

「いやぁ、助かりましたよ」
「別にいいけど……で、本当にアイツの部屋に何かあったの?」
「ええ、おかげ様で無事発見できましたよ」

 美しい微笑を浮かべる野坂は、まるで何でもないことのようにあっさり述べた。

「どうやら僕たちを会場に運ぶバスに、細工がされていたみたいですね」
「ばっ……!」

 思わず声を荒げそうになって、どうにか凪沙は押し黙る。バス、バス? に、細工だって? 

「なんっつうデジャヴ……」
「え?」
「や、なんでもない……」

 昨年のフットボールフロンティア真っ只中に起こった、顧問の冬海に纏わる騒動が思い出された。彼と同じく帝国のスパイであった土門が寝返り、告発を決意しなければ、冬海が移動用のバスのブレーキオイルを抜いたことが明るみに出ないまま、円堂たちはそれに乗り込んでいただろう。
 彼はあの後、理事長代理にクビを言い渡され突然の無職になってしまったわけだが、ところがどっこい。ああいう人間に限って元気にのさばっているものだと、凪沙は知っている。

 フットボールフロンティアの決勝戦、凪沙は試合を観に来ていた彼に偶然出会っていた。そして凪沙はそれまで、よもや冬海が稲森たちの故郷である伊那国の中学で、校長をしていることなど知る由もなかった。しかもスポンサーのいない伊那国メンバーの受け入れについて、ツテのある雷門に対し彼があれこれと手を回したことで、ようやくあのような形になったことも。
 縁あってその話を聞くまでに至った凪沙は、流石に驚きを隠せなかった。今でも冬海のしたことを忘れていないからこそ、彼が物語を回す歯車に関わっていたことに、酷く複雑な気持ちを覚える。冬海も冬海で、影山に従わなければ彼自身──あるいは、彼とその家族、身近な人たちの人生が脅かされることに苦悩し、「他に仕方がなく」していたらしかったが、だからといって簡単に納得できるわけもなかった。

「……で、その細工って?」
「僕が彼の部屋を確認してる間、西蔭には念のためバスを確認してもらってたんです。そうしたら、タイヤになにか、人為的に細工された跡がありました。それで僕はそれと一致するであろう遠隔操作スイッチを、一星くんの部屋から見つけたわけです」
「……それで、どうしたの?」
「まあ、素人の僕らが下手に弄るわけにもいきませんのでね。ああ、大丈夫、夜中にその手の業者が来るよう手配しておいたので、心配には及びませんよ。世間だけでなく、僕と西蔭、凪沙さん以外のメンバーにも内密に事は済むはずです」
「ツテが可笑しい……」
「無事に取り除けた暁には、別の何かにでもセンサーを移そうかなぁ。なんてハハハ」
「呑気が過ぎる……」

 どこか遠い世界の話のようで、頭痛がした。事の大きさにも、目の前の、たかだか中学二年のこの男が平然とそれに対処していることにも、着いていける気がしなかった。凪沙はとうとう考えることをやめた。

「そういえば凪沙さん。よくあの一星くんを連れ出せましたね。彼、今は誰に対しても警戒心剥き出しだから、どうしたものかと困ってたんですよ」
「あー……試食させてた」

 言い淀みながらなんとか返す。正直に力技と餌付け、とは流石に言い難かった。──あの投書は、無論凪沙がでっち上げたものだ。基山の発言に関しては真実であったから、一星の警戒を少しでも解くためについ名前を出して巻き込んでしまったが。すまん、と小さく心の中で詫びを入れた。
 それにしても、意外だった。彼は態度にはなるべく出さないよう努めていたようだったが、存外凪沙の料理を気に入ってくれたらしかった。空になった皿や、これメニューに追加されるんですか、との問いは、そのことを何より顕著に表していた。
 普段の食事作りにも凪沙は参戦しているのだが、他の女性陣とも共同で作業しているため、誰がどの料理を作っているのか特定することはできない。つまり「凪沙の作った料理」と認識して食べさせるのは初めてだったのだ。……だからこそだろうか? 一星を部屋から連れ出し、そこに引き留めるためだけに作った料理で、彼が純粋に喜んだというその温度差に、小さな罪悪感のようなものを凪沙は覚えていた。
 それでも、彼がここ最近ずっと張っていた気を緩め、「うまい」と言ったことを、嬉しく感じてしまったこともまた嘘ではなかった。
 無言で顔をしかめた凪沙に、しかし何か悟っている様子の野坂は小さく笑った。

「凪沙さんは優しい人だなぁ」
「は?」
「やっぱり、凪沙さんに頼んで正解でした。彼、凪沙さんのペースにはどうにも呑まれちゃうみたいですし」
「いや……まさか」
「ああ、それはそうと、凪沙さんにはお礼しないといけませんね」
「や、別にいいよ……っていうか一星足止めしてただけだし」
「いえ、凪沙さんは僕たちを守るための大役のひとつを担ってくれたんですから」
「んな大袈裟な……だいたいあんたが気付かなかったら、もれなく全員えらいことに巻き込まれてたみたいだし……その引き金をあいつが引くことになってたわけだし、だから別にお礼とかいらないって。むしろ西蔭にしてやりなよ今回一番の功労者じゃん。MVPだよ」

 そう訴える凪沙をよそに、野坂は「ええと……何かないかな」とポケットをがさごそと探る。しばらくして探り当てたものを、するりと取り出した。

「あ、これいりますか? チョコマーブル。ケースに移してしまってるんですけど」
「……いらね……」
「あはは、ですよねぇ」

 凪沙の返答は予想済みであったらしく、「これは西蔭にあげることにします」とポケットにピルケースをしまいながら、彼はけらけらと笑って見せる。

「それじゃあ、この件は貸しにしておいてください」

 そう言って唇へとしなやかに指先を持っていく野坂に、凪沙は小さなため息をついた。





*****

そういえば息するように捏造してしまっていたのですが、一星くんがスイッチ受け取ったのって試合当日ですね…?でも現実的に考えてその短い時間で諸々手を打つの難しそうだなという先入観から、前日くらいの感覚で書いてました…あまり気にせずふわっと読んで頂けるとありがたいです。


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