一星光という少年
「隣良い?」
後方のシートに浅く腰掛けていた一星光に、至って平坦な声色が降りかかる。緩慢な動作で顔を上げると、感情の窺えない表情の凪沙が此方を見下ろしていた。
「今回は聞いてくれるんですね」
「返事は聞かないけどね」
言って空いた隣に座り込む凪沙に、一星はほんの控えめに笑う。それ以上の会話は挟まないまま、間もなくしてバスはキャンプ場に向かい発車した。
小さく揺られながら、凪沙はちらりと一星を盗み見た。つもりだったが、彼もこちらへと目線を寄越していたため、ぱちりと瞳がかち合ってしまう。
一星は決まり悪そうに眉を下げ、すぐにまた視線を下に落としてしまった。かと思えば、またこちらに顔を向けて小さく口を開く。しかしやはり、何も言葉を発することのないまま、再び目線を落とした。
きゅ、と固く結ばれた唇。一度は光を宿した瞳が、暗く翳る。
あれは、罪悪感の顔だ。
そして、これまでのすべてに対することへの後悔だ。
どうやら記憶は全て残っているらしい。一星光は、何度も一星充との人格と入れ替わる中でしきりに「怖い」「この人たち何を言ってるの」と怯えていた。金雲の言っていた人格統合の影響だろうか、今の彼は「彼が生み出した兄の人格」と「本来の弟としての人格」の、二つの人格に刻まれていた記憶と知識が保持されているらしかった。
何かを言いたそうに、しかし言葉として吐き出せずに、彼は目を伏せる。喉元に停滞したたくさんの言葉の残骸が、細い気道を圧迫しているかのようで、彼はただひたすら苦しそうだった。
「……ま、過去にあったことは変わらなくてもさ、」
その彼の代わりに、凪沙は水のようにさらさらと言葉を紡いでいく。
凪沙ですら、もしも過去をやり直せるならと思ったことなど数知れない。彼が今、どれほどの後悔を抱えているかなんて、とても計り知れるものではないことくらいわかっていた。ずっと心の支えにしてた、目的であり目標であった人が、突然消えてしまったのだ。一体何のために自分は手を汚してきたのだと。何のために他人を傷つけてきたのだと。
けれどそうやって頭を抱えて自問していたって仕方がないのだ。時間は決して待ってはくれない。彼が向くべきは、足元でも、ましてや後ろでもない。
「FFIも、『イナズマジャパンの一星光』も、まだまだこれからなんだから」
果たして何を言えば正解なのか、わからなかった。どれほど手探りしても、模範解答が掴めたことなど一度もない。それでも凪沙は、たくさんの言の葉の中から丁寧に一枚ずつ拾い上げて、彼にそっと差し出す。
「……、」
しかしそれを、一星が受け取ることはない。はね除けることこそしなかったが、それを受け取る自信が、資格が、自分にはないと感じているように思われた。一星は何かを言いかけて、やはり口を閉ざす。それ以降も黙ったままだった。
(一星はきっと、このままチームを離脱しようと考えてるんだろう)
今まで散々、チームを内部から蹂躙された。そのせいで未だに戻ってこられていない者もいる。彼が踏み荒らした痕跡は、現在もまだ残っている。忘れたわけじゃない。
だけど彼は今、精一杯だった。自分のことだけでもう手一杯だった。それは誰が見ても理解できることだった。それを、わざわざ責めて追い立てるつもりは毛頭ない。かと言って、よしよし、大変だったね、と享受しこれまでのことを綺麗さっぱり清算できるほど、大人にはなれない。そもそもそういうことが『大人』であるのかすらわからない。
今、一星に対してどう感じているのか。どうしてやろうと思っているのか。どうすればいいのか。凪沙には何もわからないけれど。それでも彼をチームから追い出してやるなんてことはもう、考えてなかったし、これから考えることもないと、彼女はそう思っていた。それだけは絶対だった。
だからこそ、彼がこれまでの責任を負おうとして、日本代表の地位を自ら捨ててしまうのは駄目だ。何が正解かなんてわからないけど、それが正解ではないことはわかっていた。
──でも、声を掛けるべきは私じゃない。私では、彼は受け取ってくれない。それができるのは、私じゃなくて、同じフィールドで、同じボールを追いかけた彼らだ。そう凪沙は思う。
ふいに、一星の方へ視線を向ける。彼は瞼がやけに重そうで、どうにか押し開けるので精一杯なように見えた。
「眠い?」
「……ちょっと、疲れたみたいで」
「そりゃそうだろうね」
「少し……寝ますね」
「はいはい、お休み」
余程疲れていたのだろう、少ししてすぐに彼は寝入ってしまったようだった。交通の騒音で寝息は聞こえなかったが、頭が不安定に揺れていた。
曲がり角でバスが揺れ、彼の青い頭が凪沙のほうへ傾いてくる。ぽすりと癖毛を押し付けるようにして、その頭部は彼女の肩に収まった。ちらりと表情を覗けば、やはり酷く疲れているようだったが、どこか安らかなところも見えて、彼の幼さを助長させている。
「……お疲れ」
届きもしない労りのことばを、今さらそっと落とす。しかしその小さな声は、霧散する前に別の人物が拾い上げた。
「お? ははっ、なんだまた枕係か華那芽」
「いじってやんなよ剛陣」
「しかも随分と素直じゃねえか。こりゃ雪が降るな!」
「はいはい」
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