子文親分担々麺
「ありがと、手伝ってくれて」
「いえ、これくらいはお安い御用です」
そう言って子文は、長い袖で隠れた手に持つ荷物をようやく下ろした。
代表キャンプX日目、何度目かの買い出し担当が回ってきた凪沙だったが、本日のその内容はティッシュやトイレットペーパーなどの嵩張る生活用品ばかり。しかし車という名の足があるわけでもなく、かといって他の女性陣はそれぞれまた別の作業に当たっており、選手らもまた試合を明後日に控えていたために、声を掛けることも憚られた。なお、監督とコーチは端からアテにしてもいなかった。
そこで凪沙は、以前秋と買い出しに出掛けたときに遭遇した「とある少年」とのやりとりを思い出し、監督の「助手」としてこのキャンプに参加している子文に手伝いを頼むことにした。二つ返事で了承した子文は、凪沙よりも小さなその体躯で、凪沙の持つ以上の荷物を軽々と持ち運んで見せた。正直なところそこまでの手伝いを期待してはいなかったが、彼は存外パワーがあるらしかった。雷門での助手時代、彼のミスにより監督が一時的に拘留されたことなども踏まえると、子文は考えることより動くことのほうがずっと得意だったのだろう。
「すみません、このあとすぐ親分のところに戻らないといけなくて。最後まで手伝えず申し訳ないですが僕はこれで」
「ああ、ここにストック片づけたらもう終わりだし、大丈夫。ありがとね」
「いえ」
礼儀正しく頭を下げてから、子文は踵を返し歩き出す──その直後、くるる……と小さな音が空中で踊った。子文は「あ、」と己の腹を押さえてから、ちらりと振り返り凪沙を窺う。そのどこか間抜けで可愛らしい様子に、しかし凪沙は作業する手を止めずに聞こえなかったフリを突き詰めた。よくわからないが、男の矜持とやらがあるかもしれない。いや、もしかしたら「何か作ろうか?」とでも声を掛けた方が良かったのだろうか。しかし子文も子文で、何事もなかったかのように去っていったので、凪沙はそのまま作業を続行した。
*
親分こと監督の金雲からデータ整理を頼まれていた子文は、彼との相部屋で黙々と仕事をこなしていた。(腹へったなぁ……)ぐるぐると切ない音を上げる腹に、作業が一段落ついたら食堂に行ってバナナか何かでも貰ってこようかと考える。そのさなか、コンコンと軽いノック音とともに「華那芽です」と聞きなれた声が扉越しに届いた。
「どうぞォ〜」
「失礼します」
金雲の合図に凪沙が入室してくる。先程ぶりだが、監督室に赴いたからには何かあったのだろうか……そんなことを考えながら上げた視線は、彼女が手に持つものに注がれた。
「子文くん」
「え? あ、はい……?」
「これさっきのお礼」
言って、彼女は扉付近から動かないまま、手に持ったお盆を強調した。
子文は立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄る。そしてそのお盆の上に乗る二つの器──料理の正体を視認して、心臓がドキリと跳ねた。
「これって……」
「担々麺」
担々麺。もうもうと湯気のたつ、赤々と美味しそうで、懐かしいそれ。そんなことは見ればわかるが、まさかの展開だ。予想外どころの話ではない。彼女はお礼と言っていたが、恐らく先程別れ際に盛大に腹を鳴らしたのを聞かれていたのであろう。それで礼も兼ねて気を利かせてくれたに違いない。だがそれにしたって三度の食事でもない、ただ小腹がすいただけというのに妥当なものが、少なくとも担々麺ではないことはわかる。なぜだ。なぜ彼女はあえて担々麺を選んだのだ。子文が中国人であるが故に、故郷の料理を──と考えたのかもしれないが、いやいや、それにしたってこのチョイスは一体。
「本場の味には遠く及ばないだろうけど」
「え、あ、いや、なんで……」
「前に何度か、食堂の麺類食べたそうに見てたから」
「!」
「多分、それ被ったままじゃ麺類は食べられないんでしょ?」
凪沙の指摘は正しかった。それ、と彼女が目で指したのは言わずもがな、子文の頭部を常時すっぽりと隠している奇妙な被りものだ。スプーンで掬ったり箸で摘まめるようなものはなんとか食べられるが、ずるずると続く麺類は、これを外さない限りは食べるのが難しかった。
「私は戻るから、ここでゆっくり食べなよ。食器戻すのはいつでもいいから」
監督の前でならこれを脱いでも問題はない、という予測はついているのだろう。確かに同室であり生活を共にしている以上、一時も素顔を晒さないのは難しい。そもそも金雲は子文の素顔を知っているため、彼の前で隠す必要すらないのだ。
「……やべ、嫌いだった? それか今気分じゃないなら引っ込めるし──」
「あっ! いえ! 嬉しいです! 担々麺大好きです! ありがとうございます! ちょうど空腹でしたし!」
気まずそうな顔をした凪沙に、慌てて弁解する。嬉しくないわけではないのだ。むしろ、久しぶりに好物の担々麺を食べられることに歓喜してすらいる。ただ彼女の洞察力や、たまたまではあろうが好物を突然持ってこられたことへの驚きが強く子文を支配していた
お盆を手渡した凪沙は「それじゃあ、失礼します」と目上の金雲に対して形式的な挨拶を残すと、あっさり部屋を出ていった。子文は袖越しに持ったお盆を見つめていたが、冷めてしまってはいけない、とすぐにてくてくと机に戻った。
「おや、器二つにお箸が二膳ですか」
お盆の上を確認した金雲が、パッドを操作する手を止めて子文のほうへ近寄ってくる。それから彼の隣にその巨体を落ち着けた。
「それじゃ、一緒に休憩にしましょうかねェ」
「はい、親分」
子文はその大ぶりな被りものをがぽりと外す。狭い空間に収まっていた緑の癖毛がわさりわさりと広がり、彼は李子文でも、無敵ヶ原富士丸でもない──リ・ハオという本来の姿へと戻った。
素顔が晒され、先程よりさらに強く美味しそうな匂いを感じる。それに反応して腹の虫が騒ぎ出し、ハオは早速箸に手を伸ばした。
「いただきまァす」
「いただきます」
中国に「いただきます」「ごちそうさま」と言う文化はないが、日本に来てから金雲に教わった数多くのことの一つだった。最初は戸惑ったものの、金雲とともに訪れたレストランや、今の生活における食事でも、あちこちからこの言葉が聞こえてきた。いい言葉だと、ハオは思う。
久しく口にしていなかった麺を、箸で大きくすくい取り、じゅるりと啜る。大好きな味が口いっぱいに広がった。啜りきって、もぐもぐと頬袋を膨らませながら咀嚼していく。
「……おいふい」
「んんー、ああ、オイシイ。久々ですねェ担々麺」
「んぐ、ちょっと薄いけど」
「そこはまァ日本との好みの違いでしょう。ずずっ」
「なうほろ」
「凪沙はんたちが作ったっていうアエ、ごくり、アレに投稿してみてもいいかもしれないですねェ」
「ああ、メニューの意見箱ですか? いいですね。と言ってもまあ、僕はもうじきいなくなりますが」
軽い苦笑を麺と一緒に飲み込むハオに、金雲はうっすらと目を細める。少し何かを考えているようだったが、「じゃあ今、よく味わっておかないとですねェ」と笑った。
「それにしても凪沙さん、ワタシのぶんまで用意するなんて流石、大人ですねェ」
「いや、親分。これは別に社交辞令じゃないと思いますよ」
「フム? といいますと?」
首をかしげてハオの顔を見る金雲に、ハオは少しだけ不思議な感覚を覚える。金雲はいつも、出会った時からずっと、ハオにさまざまなことを教えてくれた。身寄りのなかったハオにとっては、友だちを意味するらしい「親分」と呼んでいながらも、こういうのが父親というのだろうか、とさえ思ったこともあった。
そんな彼でも間違っていることや、わからないことがある。それを初めて指摘したのは、何年前だっただろうか。「必要だから会うのではなく、会いたいから会うんだ」と訴えたことを、彼はまだ覚えていてくれているのだろうか。
そしてまたハオは、金雲がわからないことへの、自分なりの答えを示す。
「誰かと一緒に食べると、もっと美味しいから」
にいっと目を細め、歯を見せて笑う彼に、金雲はしばし目をしばたたかせる。ほんの数秒空いたのち、彼もまた楽しげに、嬉しそうに、ホォーッホッホッホと彼独特の笑い声を上げた。
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