立ち食いおでんの会
「えっ?」
と、どこか間の抜けたトーンで、その一文字は喉をくぐり抜けた。食堂脇を通りすがった凪沙の視界に、一瞬映った信じがたい光景。いやいやまさかと思いつつ入り口のほうからしっかりと確認してみると、やはりそこには確かに、一人厨房に立つ西蔭政也の姿があった。
選手陣は基本的に料理には関与しない。そもそも、今は食事の時間帯ですらない。では一体彼は何をしているのか。仮に小腹が空いていたのだとしても、もっと米とか手軽なものがあるだろうに、彼は何かを煮ているように見える。コンロに乗った金色の両手鍋に一体何が入っているのか、ここからでは窺うことはできないが、漂う出汁の匂いからはある程度まで絞ることができた。だが、いや、しかし。
「……何作ってるの?」
食堂に踏み入り、厨房のほうへ近付きつつ声を掛ける。そこでようやく凪沙の存在に気がついた西蔭は、「許可は頂いてます」と努めて冷静に検討違いな返答をした。
「や、それは別にいいんだけど……それって」
「おでんです」
「おでん」
「はい。おでん」
何故かどこからともなく昭和色の強いポップスが流れてきたような気がして、頭をぶるぶると振る。そして今一度西蔭の言葉を反芻した。おでん、おでんだって? いや、確かにそれは見ればわかる。視覚だけで旨味を感じる出汁の中に、大根やちくわ、こんにゃく、餅巾着など馴染みのあるラインナップが沈んでいる。卵にもいい色が染みていた。どこか実家が懐かしまれるような家庭的な香り。純粋に美味しそうだと思う。だがしかし、何故? 何故に今? 今おでんを作った?
凪沙の困惑が伝わったらしい、西蔭は「野坂さんからのご命令で。既製品で構わないとのことで、レトルトですが」と補足する。それを聞きなるほど、もしかしたら野坂が突然おでんを食べたいと突飛なことを言い出したのかもしれない、と仮説を立てた。野坂はたびたび西蔭に理不尽な言動をすることを、凪沙は知っている。おでんならコンビニで自分で買ってくれば良いんじゃなかろうか……と思ったことは呑み込む。彼らの事情に凪沙が口を出す必要性などないのだから。
西蔭は持っていたお玉で出汁を掬い、少々高さのある小皿に流し込む。それからそっと啜ると、普段滅多に崩さない表情を少ししかめた。
「……薄い」
「レトルトだからかなぁ……もしくはお湯多すぎたか」
「こんなのでは野坂さんに満足してもらえない……」
相変わらず見事な忠義心だ。悔しそうに、しかしどうすれば良いのかわからないらしい彼は調味料群に手を伸ばしては引っ込めを繰り返す。見かねた凪沙は「塩とって」と軽く指さした。西蔭は少し驚きつつも、それに従う。
「あと本だしと……えーとなんだろ、おでんなんて久々だからな……あ、みりんも」
あとは醤油と……と冷蔵庫に取りに行ったりと必要なものを並べていき、凪沙は集めた調味料を感覚で適量入れていく。
「そ、そんな適当でいいんですか」
「いいのいいの。お菓子作りじゃないんだから目分量でも」
かき混ぜて、西蔭にお玉を差し出しながら「味見して」と告げる。彼はほんの少しためらいつつもそれを受け取り、先ほどまで使っていた味見皿に少々掬って口に流し込んだ。
「どう、何か足りない?」凪沙が問えば、口を小さく動かしていた西蔭はそっと醤油に手を伸ばした。蓋を開けて、ほんの少しずつ、ともすれば恐る恐る足していく。再びかき混ぜ、味見をし、彼は声には出さないながらも「……!」と雰囲気で満足を訴えた。
「良かったね」
「はい、ありがとうございます。よければ華那芽さんも」
と、再度出汁を掬い入れた皿を突き出される。凪沙は正直言って驚いていた。同時に戸惑ってもいた。西蔭は基本的に興味のほとんどを野坂に注いでいるから、そんなことを提案するとは思いもしなかった。そして、野坂以外に対してはパーソナルスペースの広いイメージもとい偏見があったため、まさか当たり前のように自分が使った皿を使い回すとは。意外どころの話ではない。
「ありがと…………あ、美味しい」
しかしここで断るのも不自然だと思い、素直に受け取ることにした。凪沙とて潔癖というわけでも、まして初々しい心を持っているわけでもない。相手や周囲の状況にもよるといえばそうだが、相手が年下なら別段気にもならなかった。
西蔭は調味料などを定位置に戻し、使った皿などを手際よく片付けていく。最後に火がきちんと消えていることをしっかり確認してから、鍋に蓋をして持ち上げた。
「えっどこか持って行くの?」
「ええ、作戦のために」
「作戦……?」
なんだ、どういうことだ。凪沙は困惑した。てっきり野坂の突然のおでん欲によるクッキングだと思っていたが、作戦とはどういうことだ。まるで意味がわからない。一体全体、おでんなどというごく一般の庶民の味が何の作戦に活かされるというのだ?
「華那芽さん、このことは周りには内密にお願いします」
「ああ、うん……え、じゃあ私に言ってもよかったの?」
「野坂さんに、もし途中でマネージャーかサポートの方に出会ったら同行を頼むように言われていたので」
「へえ……え、何、私も行くの?」
「華那芽さんが問題無ければ、来て頂けると有り難いのですが」
何故? どうしてマネージャーかサポート役……つまりは女性が必要になるのだ? 凪沙はますます困惑した。だが野坂の顔を立てたいのであろう西蔭は、真面目な表情でこちらを見つめている。凪沙はどこか腑に落ちないながらも、まあ今は急ぎの用事もないし良いか……と了承した。
*
「ぐあっ……!」
「ううっ……!!」
「……いや、何これ」
場所はひと気のない合宿所の裏手。子文が両手で構える鍋から、お玉で出汁を掬い取る西蔭。それを容赦なく振り掛けられ、恥じらいを捨てて大袈裟に苦しむのは風丸と吹雪。一体これは何の罰ゲームだと野坂を見るが、彼は相も変わらず王子のような涼やかな笑みを浮かべていた。その片手には、先ほど西蔭が用意したおでん。口の中にもおでん。なお、その隣に立つ金雲の片手と口にも、おでん。あんたらは下々の芸をワイン片手に高みの見物する貴族か。
野坂はそれを満足げに飲み込むと、凪沙に笑顔を向けた。
「いやぁ、それにしても、まさか凪沙さんが来てくれるとは」
「や……っていうかあれは何してんの? そして私はなんで呼ばれたの?」
「事情の知らない異性がいれば、羞恥心に打ち勝ち、より振り切った演技をする練習になるかと思って」
「鬼かあんたは」
聞いたところ、次の試合における作戦の一環として「痛がる演技」を仕込んでいるらしい。だが人を巻き込んでおきながら、それ以上は教えることができないという。釈然としない気持ちのまま野坂を横目で見やれば、彼は話題を転換するためか、器の中から肉を箸でつまんで突き出してきた。
「凪沙さんも牛すじ一筋噛み締めます?」
「えっ……」
食べろってか? ここから食べろってか? まるで当たり前のような顔をしているが、冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても、おかしいだろう。箸の使い回しのみならず、他人しかも異性に食べさせるなんて普通やるか?
出汁散らし係となっていた西蔭や、その餌食となっている風丸の視線がチラチラと刺さって居心地が悪い。その視線にどんな気持ちが籠められているのかはわからない……否、わかりたくない。
「や、いらない。大丈夫」
「一緒につゆの香りに包まれましょうよ」
「や……ちょ、今お腹すいてないから、」
「ほら、青のりスパンコールに心を乱しましょう」
ぐいぐいと箸を近付けてくる野坂に、凪沙はますます戸惑う。野坂はどこか浮世離れしているところがあった。だから本当に常人とは距離感が違うのか、それともただ凪沙をからかっているだけなのか。どちらもあり得る気がした。というか、さっきから何言ってんだこいつは? 何か乗り移ってんじゃないの? と眉間にしわを寄せていると、
「アハハ、冗談ですよ。無闇にフラグ立てるのはよくないですからね」
と、野坂は軽々しく手のひらを返した。今度は明確に、凪沙の口もとがひくりと引きつった。
「つれないですねェ、凪沙さん。こんなにオイシイのに」
野坂の倍ほどの具材で器をいっぱいにしている金雲が、そう言ってぎゅっと味の染みていそうな大根をあふあふ、と頬張る。野坂もいい色をした卵を割り、ほふほふと湯気の上がるそれをおもむろに口に運んだ。
別に食べたくないわけではない、そう凪沙が感じているのを見越しているのか、まるでカメラ越しに視聴者に食リポするかのように美味しそうに食べている。それに苛立っているわけではないが、何とも言えない気持ちに駆られた。
「それにしても、レトルトって本当に美味しいんですね。いい味付けをしてる」
「……まあ、西蔭が多少味調節したし」
「あれ、そうなんですか?」
「は、いや、でもあれは華那芽さんが」
凪沙の思わぬ補足に、西蔭は出汁をぶちまける手を止めた。その間にも風丸と吹雪は、ザリガニに挟まれて痛がるなどリアクション芸のようなことをさせられており、憐憫の目を向けざるを得ない。気を取り直して、凪沙はなんてことないように呟く。
「私は適当に調味料ぶっ込んだだけ。味確認して調整したのは西蔭でしょ」
「へぇ。西蔭、なかなかやるじゃないか」
「……!! 光栄です野坂さん!」
途端に、普段表情の乏しい西蔭の顔が輝き出す。もしも尻尾でも生えていたなら、ちぎれんばかりに振れているに違いない。あまりにも嬉しそうな反応見せる西蔭が、野坂にどれだけの信頼と感情を寄せていることか。対する野坂も、普段から穏やかで美しい笑みを浮かべているものの、どこか普段以上に目元がやわらかく、やさしく見える。二人がどれほど長い間共にいるのかは知らないが、その信頼関係を垣間見た気がした。
──その野坂が器と箸を西蔭に預けると、ぱん、と両手を合わせて注目を集めた。
「それじゃあ演技練習はそろそろ終わりにして、残ったおでん、皆で食べましょうか」
「もういいのか?」
「ええ、風丸さんも吹雪さんも、予想よりさらに上達が早かったので。もう十二分に磨きが掛かってます。これなら本番も全く問題ないでしょう」
「そうか、ならいいんだが」
「試合でもよろしくお願いします」
そういって軽く頭を下げた野坂は、西蔭から再び食器を受け取った。吹雪と風丸も、用意されていた濡れタオルで顔を拭きつつ「なかなか楽しめたね、風丸くん」「そ、そうか……」などと会話を交わす。それから、金雲に未使用の器と箸を渡された。
「ええ……本当にここで食べんの」そんな凪沙の声も、もう誰にも届かない。それどころか彼女にも食器が渡され、いつのまにかプチ立食パーティーに参加することになっていた。
「凪沙さん、食べないの? どれも美味しそうだよ」
吹雪に声掛けされ、微妙な面持ちのまま凪沙もその輪に向かった。子文のもつ鍋から、次々と具材が取り出されていく。それに乗じて凪沙も、牛すじの塊を箸でつまんで頂いた。
まだ温かいそれは、ほのかに湯気を放っている。一口分箸で切り分けて、そっと口に運んだ。牛肉の風味が、しっかりと染み込んだ味が、とろけるような触感が、舌を歓喜させる。しっとりとろとろの軟らかなそれを、よく噛み、口全体でその旨味を味わって、飲み下す。久々に食べたからだろうか。もしくは屋外での立食という特殊な、バーベキューのような状況だからだろうか。それとも、皆と食べているからだろうか。その全部な気がした。
これは、たまらなく、美味しい。
「旨いな、華那芽」
「ん……そういやお疲れ、風丸」
「ありがとう」
美味さの余韻に浸りながら、風丸に労わりの言葉を渡す。少しだけ眉を提げて笑う彼は、鼻が少し赤かった。そういえば、先ほどザリガニに鼻をつままれていたような。誰だこんな練習法提案したのは……呆れるように野坂と金雲を見やった。十中八九、というか百パーセント、この二人のどちらかなのだろう。もし赤みが引かないようならあとで軟膏でも……と考えていると、あざとく頬袋を膨らませた吹雪がにこにこと近付いてきた。それを飲み込んでから、凪沙に話しかける。
「凪沙さん、ボクも疲れてるんだぁ」
「あんただけ元気有り余ってるように見えるんだけど……」
単に労わって欲しいだけの無垢な気持ちなのか、それとも邪気があるのか。彼に関しては、いまいち掴めない。マネージャーとして形式上お疲れ、と返しながら、凪沙はふと吹雪のジャージに目をやった。
「あーあー……出汁なんて飛ばしてるし」
「凪沙さんがあとで心をこめて洗ってくれるんでしょ?」
「何言ってんの……」
「それともこめてくれるのは愛かな?」
「いや本当に何言ってんの……」
本気で言ってるわけではないのはわかるが、よくもまあそんな言葉が口をついて出るものだ。彼は随分と整った顔をしているから、異性には大層人気があるのだろう。そのおかげで、砂糖を含んだ言葉も吐きなれているのかもしれない。もしもどこかで彼のファンが見ていたら刺されそうだ……と思った。そう考えると野坂のアレも、勘弁被りたいものだ。
吹雪の笑えない冗句に視線を逸らすと、鍋持ち係の子文がうずうずしているのが見えた。きっと自分もおでんを食べたいのだろう。というかむしろ、自分以外が皆美味しく楽しい時間を過ごしているというのに、自分だけ雑務をこなすのは誰だって納得できないに違いない。
「子文くん、代わるよ」
「!! ありがとうございます」
「あ、じゃあ凪沙さんにはボクが食べさせ」
「いらん」
吹雪の申し出に即断りを入れ、子文から鍋を受け取る。育ち盛りの男子や、明らかに食べる量の多い男性が揃っている分、中身が減るのも随分と早いようだった。もう半分以上無くなっている。こんなにおでんが人気なら、今度メニューに追加してみてもいいかもしれない。きっとヨネや秋なら、既製品にも負けない美味しいものが作れるだろう。そう思った直後、いや、単に彼らは腹が減っているだけなのでは……? と別の可能性に気が付いた。
(まあ……なんでもいいか)
料理は愛情だなんてどこかの誰かは言った。昔は、愛情をこめて料理を作るなど、そんな考えでキッチンに立ったことはなかった。だが円堂や秋に、サッカー部に出会ってから、差し入れとして手作りの何かを差し入れることが度々増えた。凪沙はその度に、彼らの喜ぶ顔を思い浮かべていた。
今もそうだ。眩暈のするような品数と量に、心を抹殺して淡々と調理することも多いが、それでも自分たちの作ったものを、少しでも彼らが美味しいと喜んでくれたら純粋に嬉しいと思う。
一星にビーフストロガノフを作った時も、相手が相手であるだけに、余計なことは考えないようにしていた。それでも、やっぱり。ロシアの料理を調べて、調理法もわざわざ調べて。多くの手間暇と時間をかけているのだ。それを、食べる相手のことを考えずに作るだなんて、そんな器用なこと、実はできていなかったのだろう。本当は、罪悪感なんて覚える必要はなかったのかもしれない。それを認めることは、まだ難しかったけれど。
簡単なものが愛情に欠けているということもまた、無いのだろうと思う。既製品でも、食べる相手が存在して、そのために用意するのだから。西蔭だって、野坂に満足してもらいたい、と考えていた。そこに食べる側への意識があるなら、それは紛れもなく愛情なのだろう。
面倒で大変なことばかりだけど、まあ、仕方ないからこれからも頑張るか。鍋の周りに嬉々として集まる彼らを見て、凪沙はそんなことを思った。
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