私は私にできることを2

 明々と照らされた玄関ホール。そこに設置された長椅子に、本を読む人影がひとつ。彼はその姿を認めると、普段と違って結わいていない長髪を揺らしながらゆっくり近づいた。

「華那芽」

 その名前をおもむろに紡ぐと、彼女は本に落としていた視線をこちらに向け、少しだけ驚いたように目を見張った。

「──風丸?」
「なんとなく、まさかと思って来てみたんだが……本当にいるとは思わなかったよ」
「余計なところで勘働かせなくていいんだよ……」

 少し嫌そうに眉を潜めたのは、自分がここで──おそらく、稲森と一星の帰りを待っているのを、誰にも知られたくなかったからに違いない。それをわかってなお、風丸は凪沙の隣に、少しだけスペースを空けて腰を下ろした。

「や、なんであんたまで座るの」
「俺の勝手だろ」

 悪戯っぽく笑ってみせれば、凪沙は観念したようにため息を吐いて手元の本を閉じた。表紙には食や健康などといった文字が踊っており、彼女もマネージャーとして日々努力していることが窺えた。小さな笑みと同時に、心に何か引っ掛かりが生まれた気がするのは、気のせいだろうか。

「かみ、」
「うん?」
「下ろしてるんだ」
「ああ、そりゃあ就寝前だからな」
「それもそうか」

 目を伏せて微かに笑う凪沙。それから再びこちらに視線を向けられ、じいっと見つめられた。てっきりまた「可愛い」だとか「綺麗」だとか揶揄われるのかと思って少し身構えたが、彼女の口から次に飛び出した言葉はあまりに予想外なものであった。

「風丸なんかかっこよくなったね」
「は!?」
「前はもっと可愛かった」
「ってまたそれか!」

 思わず声を荒げ落胆する。「最初に会ってから二年も経ってるんだもんなあ」「……ソウダナ」もはやぎこちない苦笑いしか出てこない。だが、異性の友人からの直球な「かっこいい」に、頬の熱はすぐに引くことはなかった。
 不覚だ。あまりのきまりの悪さに、風丸は顔と共に話題を逸らす。

「……華那芽。あの二人を心配する気持ちはわかるが、こんな遅くに帰ってくる可能性は低いんじゃないか?」
「んー、まあそうだけどね」

 氷浦が岩戸と協力して掴んだ手掛かりによれば、彼らはとある滝を見に行こうとして、電波の届かない──富士の樹海に迷い混んでしまった可能性が高いという。つまり、日が落ちてから動くことはしないだろう。とくに、もしそこが人工光など一つもない獣道であったら、いくら星々に照らされていようと暗がりの中歩くのは危険だ。
 それでも凪沙は、万が一彼らが帰ってきたら、鍵を開錠して夕飯を温めて、と世話を焼けるようにここにいるのだろう。果たしてそれは、マネージャーとしての責任感のみから来る行動なのだろうか。

 稲森と一星のことは、無論風丸も気掛かりであった。他のメンバーもそうに違いない。
 だが、凪沙が……昔から素直ではなくて、素っ気なく愛想もない、円堂の作り上げたサッカー部といつもほんの少しだけ距離をとっていた彼女が、稲森と一星を強く気にかけていることに、風丸は何やら言い知れぬ気持ちを覚えていた。

「華那芽は……」
「え?」
「行方がわからなくなったのが『俺たち』でも、こうして遅くまで待っててくれるのか?」

 ──言って、風丸はすぐに後悔した。こんな馬鹿げた、要領を得ない質問に、一体なんと答えさせようというのか。それを聞いて、自分はどうしたかったのか。
 凪沙は表情を変えないまま、しかし何かを考えるように風丸を見据える。その目線に耐えられなくなって、風丸はあからさまに顔を逸らした。

「俺たちって……」
「いや、すまん、忘れてくれ」
「や、そう言われても」

 彼女の声色はいつも通り平坦だ。その上食い下がってくる。それもそうだ。こんなしょうもない質問をした上、『俺たち』だなんて……。

 風丸はそこで、昨年までの雷門サッカー部「ではない」メンバーに、小さな嫉妬のようなものを感じているのだと、ようやく自覚したのだ。
 円堂が誘っても入部せず、マネージャーたちが誘っても外部の試合を見に来ることはほとんどなかった凪沙が。伊那国のメンバーがやってきてから、ようやくサッカー部にマネージャーとして入部することになった。今までサッカー自体にはさして関心を見せていなかった彼女が、彼らとの日々を通して、ようやくその心に火を灯らせた。いつもほんの少しだけ人と距離をとっていた彼女が、一星や他の奴らに、良くも悪くも、自ら歩み寄るようになった。
 
 この友人の心を動かすことができたのは、長いこと共に過ごしてきた自分たち雷門サッカー部ではなく、彼らなのだと。そう思ってしまって、自分は悔しいのだ。そう気が付いた。

「……なあ、困らせること訊いていいか?」
「もう訊いてるけど」
「う……」
「冗談だよ、どうぞ」

 風丸は一呼吸おいて、隣にいる凪沙と目線を合わせる。彼女の澄んだ静かな瞳が、こちらを見た。器官が少しつまるような心地がして、それでも風丸は小さな声で空気を揺らす。

「華那芽にとって、俺たち『雷門サッカー部』って、どんな存在だったんだ」

 言った。とうとう訊いてしまった。自分たちは、円堂が率いていた雷門サッカー部は、凪沙にとって一体何だったのか。どう思っていたのか。それは、なんとなくわかるようで、聞かなければわからないことだった。
 凪沙はゆっくりとまばたきを一つ落とし、正面足元を向き直してから、おもむろにその唇を開いた。

「……暑苦しい」

 がくっ、とお決まりのように、風丸の首が大袈裟に折れた。まあ、やっぱり、そうだよな。なんて少し自嘲気味に笑いかけたところで、凪沙は続けて語り出す。

「暑苦しくて、馬鹿みたいに愚直で、絶対に諦めないあんたたちに心を動かされたから、私は」

 凪沙の視線がまた、少しずつ上がっていく。意志の強い凛とした横顔だ。これを初めて見た時に、その強さに、どこかで惹かれたことを今でも覚えている。

「あんたたちの見てる景色に憧れたから、私は──」

 水のような声が、流れるように風丸の耳へと届く。その先に紡がれた言葉に、彼は暫し目をしばたたかせた。そして、内からじわりじわりと滲み出る想いを、彼女に伝えるように笑って見せた。







 氷浦の推察通り、稲森と一星は甲羅谷大滝を見に向かう途中、富士の樹海に迷い込んでしまったらしかった。一夜明けてから彼らを捜しに向かった一同は、無事に二人と合流することができた。

「ほら、とりあえず二人ともこれ飲め」

 風丸は袋に用意していた二つの水筒を、彼らに手渡した。「華那芽が用意してくれた白湯だよ。もしかしたらずっと飲まず食わずかもしれないからって」そう加えれば、稲森は嬉々として受け取ったが、一星は戸惑っているように見えた。眉を寄せ、その幼い顔立ちをしかめている。
 どうしたのだろうか。稲森の反応を見た限り、二人とも相当水分不足であるに違いない。これを受け取らない理由はないはずだが。先ほど剛陣に投げられて、打ち付けたところでも痛むのだろうか。首をかしげていると、「ぷはっ!」と稲森の声が聞こえてきて、風丸の意識はそちらへと向いた。

「はーっ、久々の水だぁ! 生き返る!」
「そうか、良かったな。帰ったら華那芽や木野やヨネさんが朝食作って待ってるぞ」
「わー! 俺たち、もうずっとご飯食べてないからお腹ペコペコで……! 早く戻らないとですね!」

 弾けるように笑う稲森は、一晩飲まず食わずで野宿していた人間とは思えないほどに元気そうだ。だからこそ、やけに大人しい様子の一星がより浮いて見える。水を受け取らないまま歩き出す一星に、風丸はなるべくやわらかい声色で訊ねた。

「一星、どうした? 飲まないのか?」
「いえ、あの……凪沙さん、は、怒ってませんでしたか……?」
「え? いや、まったく……むしろ大分心配してたぞ。き──」

 昨日の晩だって。そう言いかけて、風丸はとっさに口を噤んだ。待っていたことは誰にも言うなと、凪沙自身に釘を刺されていたのを思い出す。──だがそれ以外にも、大人気ないとはわかっていても、あの友人が一星らのことをとても気にかけていたことは、少しだけ黙っていたくなったのだ。
 一星はどこか不思議そうにしていたが、それ以上追及されることはなかった。そして同時に、風丸の答えに強張っていた肩の力が抜けたように見えた。一星はようやく風丸から水筒を受け取ると、「俺、あとで凪沙さんにも謝──」と言いかけて、一度口を閉じた。そして、飲みこんだ言葉を「お礼、言います」と昇華して、小さく笑みを零すと、風丸もそれに呼応するように笑った。


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