イナズマキャラバンに同乗する
鍵の開く音が聞こえたので、キッチンに入って作りかけの味噌汁が入った鍋を火に掛けた。チチチチ、と軽快な音を立て着火したそれを調節して、今度は冷蔵庫から白味噌のタッパーを取り出す。適量を味噌こしに入れて溶かすと、優しい色合いが鍋いっぱいになじんでいき、ふわりと味噌の香りが立ち込めた。
冷蔵庫にタッパーをしまい、今度は食器棚からお椀を取り出す。鍋には二人分しか入っていないので、すぐに温め終わった。
「おかえり」
「ただいま」
洗面所で手を洗った父が、リビングに入ってくる。彼がスーツから着替えている間に、夕食の準備。今日は何かを作る気力も湧かなくて、米と味噌汁と、野菜を切っただけのサラダの他には、フライパンで簡単にできる冷凍餃子一品のみ。羽までつくやつ。いつも冷凍庫に一つはストックを置いている。たまにこういう日もあるけど、父の口から文句が出たことは一度もなかった。
父からは、昼間のうちに安否確認の電話が来ていた。丁度テレビやネットニュースで事件が流れ始めてすぐのことだった。
「大変なことになったらしいな」
「うん。しばらく学校も休みになった……学ぶ場所がないんじゃ、当たり前だけど」
「そうか」
父と向かい合って席につき、食べ始める。父の帰りが遅い時はいつも先に食べていたが、今日の夕飯は時間が重なった。
しばらく無言が続いた。普段は沈黙が苦しくなるようなことはなかったが、今日ばかりは空気が重くて、餃子もあまり美味しく感じられなかった。リビングの掛け時計の、秒針を刻む音はこんなにもうるさかっただろうか。ああ、違う、わかっている。私が考えるべきは、そんなことではないのだ。
「あのさ……」
米を咀嚼して、飲み込んで、箸を置いて、口を開く。──思い出すのは、跡形もなく破壊されていた校舎。懐かしい、嫌な香りのする真っ白な病室の、真っ白なベッドで、痛みとやるせなさに顔を歪める私の友人たち。
「……友達が、サッカーの全国大会で優勝した友達が、いて」
今日のことだ。今日だったのだ。あんなに、美しい日だと思っていたのだ。
悔しい。悲しい。許せない。腹立たしい。彼らが理不尽な脅威に晒されるのは、一体何度目か。私は、またそれを見ているだけしかできないのか? 違う、そんなの私次第だ。最初からずっと、私次第だった。
「多分きっと、あいつらは、自分達に任せてくれって、言うと思う」
たどたどしく、けれど言葉を繋げていく。
響木さんに自ら電話して、無理を言って色々な事を、誰より早く教えてもらった。校長や理事長らと共にすでに話は進められていて、あとは「彼ら」の意思と同意だけ。その半決定事項に、私は一つの決意を固めた。
一世一代の私の我が儘を、聞き入れてもらえるかはわからない。だけど。
「だから……それでさ……」
ああ、上手く言葉が出てこない。怒られるかもしれない。それに万が一了承が得られたとして、彼らは何というだろう。今さら、受け入れてくれるだろうか。だけど私はきっと、絶対に、ここで黙って見送ったら一生後悔する。
汗のにじむ手のひらをぎゅっと握って、言葉を放つ。
「私も──」
「好きでいい」
は、と顔を上げた。父はいつの間にか箸を置いて、まっすぐ私を見据えている。その声に迷いは感じられない。
「凪沙の好きにしなさい」
父はどこまで知っているのだろう。どこまで察しているのだろう。
いつも、父は私の意志を尊重してくれた。それは私を信じてくれているからなのだろう。だから私には、感謝とそれから、その寄せられた信用にきちんと答える義務がある。
「……いってきます、父さん」
人とまっすぐ目線を合わせ続けるのは、あまり得意ではないけれど。父の顔から目を逸らさずに言えば、父は小さく頷いて再び箸をとった。私もそれに倣うように、先程よりずっと楽になった喉で食事を再開させる。
少し冷めてしまった味噌汁を啜りながら、これからやることを頭に巡らせた。まずはあとで響木さんに連絡を入れないと。それから、荷物も纏めなければいけない。あとは、やっぱり、父のことが気にかかった。餃子を頬張っている父を盗み見ると、その視線に気付いたようで今一度目が合う。
「あのさ……ハムと……あともやし、賞味期限近いから腐らせないでね」
「ああ」
「いくつか作り置きはしておくけど……あとティッシュのストック切れかけだから、無くなる前に買って」
「ああ」
「……ワイシャツは、脱水は一分で」
「凪沙」
怒気を孕んだような声色ではなかったが、それは私が押し黙るには充分の迫力があった。
「父さんより自分の心配をしなさい」
「……父さんも、私より自分の心配しなよ」
「父さんはもう命がけの仕事なんてしていない」
「私だって別に命懸けるわけじゃ……、」
す、と細い目に視線を絡めとられ、思わず言葉が途切れる。父の鋭い目付きは、「その考えは甘いぞ」と言われているようだった。
「職場でもニュースを見た。雷門中、校内に多く生徒がいる中で襲撃を受けたそうじゃないか。重軽症の怪我人も出ている……宇宙人なんてものが本当に存在するのかは知らないが、そいつらが人々の生死を問わない破壊行動を繰り返しているのは確かだ。そんな奴らに、自ら立ち向かおうとしている」
「……、」
「あれが使っているのは、サッカーという名の武力だろう。スポーツじゃない。命の危険があると思って挑みなさい」
父は普段、どちらかと言えば寡黙な人であったが、今日はとても口数が多かった。それだけ、真剣な話をしているのだと実感した。そして、すべて彼の言う通りだった。本当はこんな話、正気じゃないのだ。たかだか中学生が絡むような事態ではないのだ、本当は。簡単に持てるような心持ちで挑んではいけない。
「だけど、確かに命懸けではいけないな」
「え?」
「死んでしまったら元も子もない……凪沙、死ぬ気で挑んではいけない。守る気で挑みなさい、自分と周りを」
はっきりと告げた父に、私は大きく頷いた。まるでフィクションのような台詞だったが、決して大袈裟ではなかった。あの倒壊した校舎群を、怪我人たちを、ニュースを見ればわかることだ。サッカーと銘打たれた「それ」は、しかし最早大災害と同等であった。自分を、皆を「それ」から守るために、しっかり前を見据えなければならないのだ。
「もし、どうしてもそれが難しい時は──」
そう付け足した父はそっと目を伏せて、おもむろに腕を動かす。そして、再び私と目を合わせるのと同時に──グッ、と殺意を握り込めたような、強靭な拳を作って見せつけた。
「殺す気で挑みなさい。敵を」
「……」
*
「……凪沙を、危険な地に自ら向かおうとする娘を止めない俺は、ひょっとすると頭が可笑しいのかもしれない」
座布団に正座する彼は、誰にともなく語り掛けていた。斜め下に落とされた視線の先には、照明が反射した写真立てがひとつ。
「だけど、あの子のあんな顔を見せられちゃ、無理に止めるのも親心じゃないよな」
彼はひとり、誰もいない仏間で声を落とし続ける。充満する線香の香りは、少しだけ開いた窓の隙間から漏れていった。
「さて……」彼はそっと目を伏せる。それから力を籠めて立ち上がると、彼女によく似た表情で呟いた。
「俺も、俺にできることを……」
*
足音が反響する暗い空間を抜け、光の漏れる地下室へとたどり着く。青いボディに、大きな稲妻が落とされたようなデザインの真新しいキャラバンがそこには停車していた。そしてその前に佇んでいた一人の先客に、集まった雷門サッカー部は目をしばたたかせる。一同を代表するように、円堂と秋が一歩、前に踏み出した。
「凪沙ちゃん……?」
恐る恐る、一文字一文字を確かめるように、秋はゆっくりとその名前を呼ぶ。その人影はゆっくり振り返り、瞬きをひとつ落としてからしっかりとこちらを見据えた。
「華那芽……」
「……円堂。秋ちゃん」
凪沙は、とても大切なもののように二人の名を呼んだ。その声はいつもの彼女より少しだけ弱々しく、しかし揺るがない芯を伴っているようでもあった。
──私にできることなんて、ほとんどないかもしれない。けれど、きっと何もないわけじゃない。だから今は、少しずつでも、なにか一つだけでも、手探りでも。
「私も、一緒に──」
彼女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。凪沙は自分に向かって勢いよく飛び込んできた二人を、なんとか倒れないように抱き留めるので精一杯だった。
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