壮行会と円堂の懺悔

 慣れないヒールや正装で、溜まった疲れとともに息を吐き出す。パーティーなどといった、煌びやかで大人数の集う空間はどうにも落ち着けず、凪沙は一人デッキに出て休んでいた。
 凭れ掛かっていた手すりから、軽く海面を覗き込む。夜を溶かした黒い海面は、しかし鮮やかなまでに星々を映し出して幻想的だった。その美しさに、感じていた肌寒さでさえ忘れる。
 ふと、沖縄の海を思い出す。従兄の住むそこには、久しく行っていなかった。幼い頃はその従兄とよく二人で海に出ていた。海は良い。色んなことがちっぽけに見えておおらかになれる。
 その彼とは、全国大会のさなかに彼がこちらに来て以来会ってないが、元気だろうか。いや、元気じゃなかったら雪が拝めそうだと、凪沙は口元にほんの僅かな笑みを浮かべる。

「それで、話とはなんだ?」

 ──と、それは凪沙に向けられた言葉ではなかった。向こうのほうから、耳慣れた声が聞こえてくるのを辛うじて拾う。この声は──鬼道だ。口ぶりからして、誰かと共にいるらしい。
 凪沙は声の発生源に向かって静かに歩き出す。なだらかな曲がり角から覗くように向こうを見れば、鬼道と差し向かいで立っていたのは円堂だった。
 二人の間にはどこかでか細い緊張が走っているように見える。鬼道はともかく、それは円堂にしてはとても珍しいことだと凪沙は感じた。彼はいつになく真面目な表情で、鬼道を見据える。

「ごめん」

 そして円堂は、突然その頭を下げた。バンダナからはみ出した一房の髪が、大きく揺れる。要領を得ない謝罪に、鬼道は勿論のこと、凪沙でさえ思わず数センチほど身を引いてしまう。
 少しして頭を上げた円堂は、普段の意思の強い瞳とはまるで違っていた。不安定にぐらぐらと揺れていて、苦しそうに歪んだ顔だった。

「……俺は、あいつを……『信じてくれ』って言った一星を、信じてやりたかった」

 鬼道の纏う空気が変わり、それは伝線して凪沙のもとまで届く。まるで昼間から突然夜に突き落とされたような、そんな酷い変わり様だった。
 ──この壮行会の前に、しばらくチームを離脱していた鬼道は、豪炎寺とともにイナズマジャパンに合流した。鬼道と一星とを隔絶していた壁も、彼自身きっと深く悩み、苦しみ、考え抜いた上で、見事に取っ払ってみせた。それは一体、どんなに難しいことだっただろうと、凪沙は思う。それでも彼には、赦す強さがあった。そしてようやく、鬼道は一星の手を取った。今度こそ、しっかりと手放さないように。
 しかし、それですべてが丸く解決したわけではなかったのだ。

「誰も疑いたくなんてなかった。ただ皆と、仲間たちと一緒にサッカーがしたかった。そればっかり考えてて、俺、お前の……お前たちの気持ち、全然考えてなかったんだ」

 円堂の静かな懺悔に、凪沙はそっと瞼を伏せる。──確かに、凪沙ですら不満を感じていた。鬼道達とどれだけ円堂のことを守ろうとしても、円堂自身が自分を大事にして、守ろうとしてくれなかった。どうして一星なんて信じるのだと。彼を仲間と呼ぶのだと。危険な目に遭わされてるのに、どうして。そんなことを、何度も何度も考えた。ならば、誰よりも必死に行動していた鬼道は、一体どれほどの感情を抱えていたのだろうか。
 円堂にとって、自分達も、一星も、等しく『仲間』であることが、凪沙にとっては悔しくて悲しくて腹立たしかった。何より鬼道がひとり、酷くすり減っていくのがやるせなかった。それに気づかない円堂に、不満を抱いていた。どうしてずっと一緒にいた自分達と、イナズマジャパンを陥れようとしている一星が、あんたにとって等しい存在になってしまうんだ。そう、思ってしまった。
 だけどきっと、それが円堂守という男なんだと思った。ひたすら前だけを見て、愚直なくらい人を信じる。人の良い面を探すのが得意なくせに、悪いところはちっとも探さない。探せない。誰一人置いて行かないし、決して取りこぼさない。
 そんな円堂だから、凪沙は心から信頼しているし、守りたいと思った。鬼道もそうに違いなかった。円堂が自分を守ろうとしないなら、敵すらも受け入れてしまうなら。自分達が円堂の分まで円堂を守ろうと、そう思っていたのだ。







 船の外は風が少し冷たく、露出した首元を潜り抜ける。船内から漏れる明かりや手すりに絡められた電飾は、日の落ちた夜を照らすにはあまりにも頼りなく、彼の顔に影を落としていた。
 壮行会の途中で円堂に呼び出された鬼道は、思いもよらぬ話題に内心少しだけ戸惑っていた。円堂は、純粋で真っ直ぐな男だ。そんな彼に刻み込まれた罪悪感が、忘れようとしていた、忘れていたそれを掘り起こしていく。
 一星の手を掴むのには、一分の躊躇もなかった。自分は過去をずるずるとしつこく引きずるような男ではないと、そう思っていた。だが案外、そうでもなかったというのだろうか?
 円堂が、日夜サッカーのことばかり考えている生粋のサッカー馬鹿であることはよくわかっている。だから彼の謝罪を受けて、お前らしいと笑い、手を差し伸べる自分のビジョンが頭に浮かんだ。俺はもう気にしていない、大丈夫だ、だからこれからの戦いにおいても、全力で日本のゴールを守れよ。本当はすぐにそうエールを掛けるつもりだった。自分が今後、ある目的のため日本に残ろうと考えていることは、今は漏らさないようにして。
 しかし、鬼道は上手く言葉を返すことができなかった。そうしているうちに、円堂は続けて話す。

「……鬼道。お前にあの日……管理局の人たちが来る前に、俺、酷いことを言った……『一星が本当に悪いやつとは思えない』って」

 鬼道の心臓が、どくりと跳ねた。
 チームを守ろうと、奮闘していた。常に気を張っていた。円堂たちにこれ以上手出しはさせまいと、躍起になっていた。だがそれは決して『円堂たちのためを思って怒った』、そんな押し付けがましいことを考えて行動していたわけではない。だから『俺はお前たちのために怒っているのに、何故お前は一星の味方をしようとするんだ』なんて、そんな怒りはお門違いも甚だしいことくらいわかっていた。
 それでも鬼道は、あの時円堂からあの言葉を掛けられて、『裏切られた』とでもいうような絶望感がどこかで生まれていた。そしてそれは途方もない孤独感でもあった。進む道も、逃げ道もどんどん塞がれていくような閉塞感だった。
 円堂は優しい。溢れんばかりの優しさに満ちている。しかし、彼のその優しさは、時に残酷なものにもなり得たのだ。

「……俺、は」

 色々なことが有りすぎた。だから、あの時の感情を生々しく思い出せるほど、精神のキャパシティが残っているわけではなかった。それでも鬼道はやはり上手く言葉を吐き出せず、すぐに詰まってしまう。それどころか円堂の顔を見るのが苦しくて、顔を少しだけ背けた。視野を狭めるゴーグルのおかげで、それだけで彼の視界から円堂は消えてしまう。円堂も、それ以上何かを口にすることができず、きつく唇を引き結んでいた。
 丁度その時だった。硬直した空間をくらりと揺らすように、コツンと高いヒールの音が響く。

「……円堂」
「えっ……華那芽……?」

 姿を現したのは、凪沙だった。しかしその表情は、たった今楽しい壮行会を抜けてきた人間のそれではなく、鬼道は彼女が盗み聞き──いや、彼女の名誉のために、たまたま聞こえてきたという線も残しておこう──していたのだろうと頭のどこかで察した。実際それは半分当たっており、半分は外れていた。

「円堂」

 今一度、はっきりと彼の名前が紡がれる。円堂は近付いてくる凪沙を呆然と見つめた。鬼道も、視線の逃げ場所のように彼女に顔を向ける。

「……他でもないあんたが、それを"酷いこと"なんて言っちゃ駄目だよ」

 凪沙の双眸は、真っ直ぐ円堂へと向けられていた。鋭く射抜くような目で、しかしそれは相手を咎めようとするような厳しいものではない。
 内容の正誤ではなかった。あの時、鬼道に対してああ言ったこと自体が、酷いことだったのだと円堂はあとになってようやく認識したのだ。もっと鬼道に寄り添って話を聞くべきだったのだと、あとになってから悔やんだ。
 しかしそれは、鬼道たちも同じだったのだ。考えることが、疑うことが多すぎて、あの頃はろくに落ち着いて会話もできてなかった気がする。もっと話し合うべきだった、相談するべきだった。

「あんたは別に間違ってたわけじゃないんだよ、円堂。正解だと思うことが、人それぞれ違うことだってあるんだから」

 円堂の瞳がまた、ぐらぐらと揺れる。しかしそれは戸惑うような、悲しむような瞳とはまた違っていた。凪沙の声が、言葉が、静かに胸へと沁みていく。
 凪沙もそうだった。一星をどうするべきなのか──どんな感情を抱くのが正解なのか、随分と悩まされた。けれどきっと、正解なんて人それぞれだったのだ。誰もが違う考え方を、価値観を持っている。その中からたった一つの最良を選び出すことなんて不可能なのだ。
 凪沙は鬼道を見る。ゴーグルの奥は、日が落ちてるせいもあり万が一にも透けて見えることはない。けれど彼女は、なんとなく彼の表情がわかった。
 鬼道は凪沙から視線を外して、再び円堂に向き合う。そこに先ほどまでの不安定さはなかった。

「……俺は、その時俺がすべきだと思うことをした。円堂、お前はお前の正しいと思うことを信じた。それだけだろう」

 毅然とした声色だった。もう迷いは見られない。凪沙の後押しが、鬼道に言葉を紡がせる。先程までまるで口が回らなかったのが嘘のようだった。悪い魔法が解けたみたいだった。

「俺たちの役目が、疑うことだとしたら……円堂。お前の役目はきっと、信じることなんだろう」
「鬼道……」
「俺は、お前に幾度となく信じてもらって救われた」

 ゴーグルの内側でそっと目を伏せ、今までのことを思い出す。何度も、何度も。まだ敵であった頃すら、円堂は鬼道のことを心から信じた。そこには何の邪心も計算もない。鬼道有人という人間に対しての、純粋な信頼だった。それが円堂自身や彼の仲間たち、そして鬼道の心を何度救ったことだろうか。

「一星もきっと、お前に信じられて救われたんじゃないか」

 鬼道の顔に、やわらかい笑みが浮かんだ。嘘偽りのない、無理して作った顔でもない、ごく自然であたたかさを帯びたものだった。それを受け、こみ上げたものを円堂もまた笑みに昇華しようとして、しかし再びその顔を俯かせる。まだ、胸につかえたものがなくなってはくれなかった。そう簡単にかき消していいものじゃないと思っていた。

「……それでも、俺は俺を許せない。キャプテンとして情けないんだ……。俺は一星のことを信じたけど、それとは反対に、お前たちの気持ちをないがしろにしてしまってた」
「円堂……」
「あんた蔑ろなんて言葉知ってたんだ」
「……はっ!? え!? 嘘だろ華那芽お前俺いま真剣に話してるだろぉ!?」

 と、恐ろしいほどに空気を読まぬ凪沙の変化球に、円堂は思わず素っ頓狂な声で叫んだ。傍らの鬼道でさえ、その形の良い口元が歪に引きつっている。
 円堂はやけになったように後頭部を掻いて、それから仕切り直すように「んんん……」と下手な咳払いをした。静かになった空間が、再三彼の心を容赦なく突き刺す。

「……ごめん。鬼道も、華那芽も……皆、本当に、ごめん」

 そうして、円堂はまた頭を下げた。しかし鬼道も凪沙も、彼にそうして欲しいなどと微塵にも望んでいなかった。そんな表情で声色で謝って欲しいなんて、微塵にも思っていなかった。彼には、あの太陽のような笑顔が一番似合うのだから。
 凪沙は数歩前に出て、円堂の正面に立つ。それに気付いた円堂は顔を上げ、戸惑ったように彼女を見つめた。彼女はおもむろに手を伸ばす。その先には、円堂のトレードマークであるオレンジのバンダナ。それを予告なく無遠慮に上へずらすと、特徴的な前髪が持ち上がり、額が丸出しになった。ますます当惑する円堂をよそに、凪沙は親指の関節に人差し指の先をくい込ませるようにして、丸を作る。それから鬼道を見れば、彼はすぐに意図を汲んで、彼女と同じように指で丸を作って頷く。口元には、にやりと悪い笑みが浮かべられていた。

「────っだぁ!?」

 そして二人は同時に、その丸出しの額に渾身のデコピンをお見舞いしてやった。

「……!?」
「ごめんじゃないでしょ」
「ああ、ごめんではないな」

 じんじんと痛む額を涙目で押さえながら、円堂は茫然と二人を見つめる。「鬼道……華那芽……」彼らの名前を紡いだ声は、小さく震えていて、どこか上擦っているようにも聞こえた。鬼道と凪沙は、そんな円堂に微笑んで見せる。そこにはいっぱいの優しさが詰め込まれており、それを受け取った円堂は、今度は痛みとは違う理由の雫を目尻に浮かべて笑った。

「……ありがとう」

 俺を信じてくれて、ありがとう。


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