基山と吉良と写真
ひたり、ひたり。
誰もいない食堂に、唯一動く影がひとつ。
赤い髪を揺らしながら、床に両手両膝をついて彼は蠢く。なにか焦ったような、困ったような表情が、少し長めの前髪の隙間から窺えた。
ひた、ひたり。少しずつ移動しながら、多くの机と椅子の足を縫うように視線を動かす。マネージャーたちが掃除をしてくれているのは知っているが、それでも手のひらには埃や砂がへばりつくほどに、四つん這いで動き歩いた。しかし彼の求めるものは一向に、その努力が窺える手に舞い戻ってはこなかったのである。
「……何やってんの?」
その声を聞いて、基山タツヤはバッと顔を上げた。その髪と同じ色に染まっていく頬を誤魔化せないまま、慌てて立ちあがって「あ、えっと、」と辿々しく話していく。
「その、落とし物してしまって、ここかと思ったんですけど」
「何を?」
「し、写真です。ここで手帳を開いた時に、落としたかもしれなくて……」
「写真? ……ちょっと待ってて」
彼の言葉を聞くや否や、食堂の入り口付近に立っていた凪沙は迷いのない足取りでこちらへ向かってきた。その言動が、すっかり暗雲が立ち込めていた基山の心に光を射していく。
見えない空を様変わりさせたとは露知らず、凪沙は彼を通り越して奥のキッチンへ。それからカウンターの端に置いてあったらしい何かを手に取ると、再び基山のもとへ戻ってきた。
「もしかして、これのこと?」
「!!」
凪沙が差し出したそれを見て、基山は大きく心臓が跳ねるのを感じた。安堵と、喜びと、彼女が拾ってくれていた驚きで、心臓それ自体がひとつの生き物であるかのように強く動く。──彼女が基山に見せたのは、まさしく彼が探していた、一枚の写真であった。何年も前に、お日さま園の皆と、瞳子と、星二郎とともに撮ったそれは、皆がきらきらと笑っていて、基山にとっては何物にも代えがたい大切な大切な宝物だった。
凪沙は指紋が付かないよう、縁に指を引っかけるようにして持っていたそれを基山にそっと差し出す。彼はすぐさま受け取ろうとして、しかし床の汚れを意図せず回収していたことを思い出し、慌ててシンクに向かった。彼の行動理由を察した凪沙も、一度写真を引っ込めた。
「基山か砂木沼のだと思って、明日聞くつもりだったんだよね」
「ありがとうございます……! 本当に大事なもので、助かりました」
「そ、なら渡せてよかった」
水の音を聞きながら、凪沙はとくに止められてもいないしよかろうと手元の写真を眺める。そうして、被写体の一人一人の上で視線を滑らせていくと、ふと思い出したように口を開いた。
「吉良は写ってないの?」
「え?」
それは、純粋な疑問だったのだろう。幼い頃の永世サッカー部の面々が勢揃いしているにも関わらず、吉良ヒロトの姿はその写真のどこにも写っていないのだ。
基山はああ、とどこか納得したように相槌を入れ、凪沙の知り得ない過去をほんの少しだけ語り始める。
「昔から一緒にいるわけじゃなかったんです、俺たち」
「そうなんだ。じゃ中学でサッカー部入ってから?」
「ええ……というか、そのサッカー部も元々永世にはなくて。姉さん……学園長の娘であり、ヒロトのお姉さんである瞳子監督が、学園長に掛け合って作ってくれたんです」
「へえ、良いお姉さんだね」
凪沙は『良い監督』ではなく『良いお姉さん』と称した。それは偶々だったのかもしれないし、さらに『吉良のお姉さん』という、そちらの繋がりの意を込めたのかもしれない。それでも基山は基山の『家族』を褒められたことに、嬉しそうに照れを滲ませる。血は繋がっていなくても、瞳子は自分達の大事な姉だった。
戻ってきた基山は、改めて凪沙から写真を受けとる。──その瞳子は、お日さま園の運営に携わっているため幼少期から交流があったが、瞳子の弟の吉良ヒロトがお日さま園に現れることはついぞなかった。幼い頃、偶然の出会いを果たした基山以外は、吉良と面と向かって話す機会すらないに等しかったのだ。
手元にあるこれは、紛れもなく『家族の写真』であるけれど、今思うとそこに吉良の姿だけがないのは、少し寂しく思えた。ずっと一緒にいた園の彼らや、瞳子、星二郎と比べたら、共に過ごした時間はまだまだ短い。けれど、それでも吉良は、自分達の大事な家族の一人であると、基山はそう思っていた。
「ねえ……これ本当は明日連絡することらしいんだけど。私らマネージャーも含めて全員、それぞれの渡航手続きのためこれから一旦解散するみたいだから」
「えっ、そうなんですか?」
「基山は吉良と砂木沼と一緒に、多分そこに帰るんでしょ。せっかくだから皆で撮ってきたら?」
心臓が、喉をせり上がってくるかのような衝撃を覚えた。
まるでこちらの心を見透かしたような凪沙の提案に、基山は騒ぎ立つ器官をなんとか抑えつつ、「砂木沼さんはともかく、ヒロトが写ってくれるかなぁ」と笑い混じりに絞り出す。
「それに、父さんも……忙しい人だからな」
「そう……」
「昔は隙を見ては園に顔を出してくれて、俺たちもそれがいつも凄く楽しみで……でも最近は、」
病気のこともあって、と余計なことまで口走りそうになり、すぐに口をつぐむ。ああ、でもせっかく提案してくれたのに、こんなに否定ばっかりしていたら、まるで撮りたくなんてないみたいに思われてしまうかもしれない。嫌な気持ちにさせていないだろうか。少し心配して凪沙を見れば、彼女は至って気にしていない様子でまた口を開いた。
「あんたのお父さんはともかく……吉良はよっぽど写真が苦手ってわけでもない限り、引っ張ってくればいいんじゃないの? 家族なんだし」
凪沙の──他人の何気ない、特別じゃない言葉が、自分達を『家族』としてかたどる。基山の胸の内に、また慈しみが揺らめいた。きっと彼女は知らないだろう。自分の何てことないその一言が、基山にとってどれほど嬉しいことなのか。
「なァにしてんだ」
ふいに第三者の声が掛けられる。見れば食堂の入り口に、話の中心人物の一人が立っていた。
「吉良……」
「噂をすれば影、ってやつかな」
「何
緑川みてーなこと言ってんだ」
訝しげに短い眉をひそめながら、吉良は大儀そうな足取りでこちらへ向かってくる。
「通りがかりに明かりが漏れてたからよォ。こんな時間に何してんだお前ら? 恐喝か?」
「失礼どころの話じゃないでしょ、私に」
じとりした目線を寄越す吉良を、負けじと睨み返す。可能性として真っ先に恐喝が挙がるなど、失礼千万にもほどがあるものだ。不服そうな凪沙をよそに、基山は吉良へと顔を向ける。
「ヒロト、明日お日さま園の皆で写真を撮ろう」
「は?」
「もちろん姉さんも、もしも都合が合えば……父さんも」
「んだよ、急に……さては華那芽おめー、何か入れ知恵したな?」
「さあ」
「とぼけんなよコラ」
「ヒロト、そんな先輩に対して」
「とぼけんじゃねえですよセンパイコラ」
「急に日本語下手になったな」
じりじりと凪沙ににじみ寄ると、その胸ぐらを掴もうとして、彼は直前で狙いを肩に切り替えた。相手は曲がりなりにも異性であるという意識が、彼に配慮をさせたのだろうか。対する凪沙は微塵にも怯えることなく、飄々とした態度だ。
「何話してたんだよ、観念して言いやがれ」
「別に? ただあんたが小さい頃……てたり、……ってたり、ちょっと基山と昔話を」
「はぁ!? ばっ……おいタツヤてめェ! 何言いやがった!?」
ぼかすように告げられた言葉は断片的だったが、吉良を焦らせるには充分であった。吉良はたちまち冷や汗を浮かせながら、基山にがなる。どんな方向の話をされたのかも不明瞭で、そもそも基山に自分の幼少期を深く知られているわけではないこともわかっていたが、よほど知られたくない秘密の話に多く心当たりがあるのだろう。彼の頬には、珍しく朱が差していた。
見たこともないような吉良の様子に、基山は小さく吹き出す。
「ふふっ、何も言ってないよ。凪沙さんも何も聞いてない」
「あっ……アア!? 騙したな華那芽コラてめェ!! ふざっけんな死ね!!」
「ヒロト、人様になんてこと言うんだ」
「ご逝去あそばせ!!」
「ヒロト、そういう問題じゃない」
「寿命が来たらね」
*
「ああ、いたいた」
翌日。金雲から詳細を告げられた選手陣は、早速自室で荷物を纏め、各々の学校等へと向かう準備をしていた。その中で吉良は、相変わらず灰崎との無駄な応酬をしていたせいでやや出だしが遅れ、早足で玄関ホールへ向かっていた。基山や砂木沼と仲良しこよしで一緒に帰りたかったわけではない──むしろ吉良としては、四六時中顔を合わせていたのだから帰り道くらいバラバラでもいいだろうと思っていた──が、その二人に早く来いとLINEで催促されていたために、半ば諦めていたのだ。
その吉良を引き止めたのは、昨晩余計な会話を交わした凪沙だった。「あ?」吉良は律儀に足を止め、何の用だと様子を窺う。
「ごめん、余計なお節介した。基山にも謝っといて」
「はァ? 何の話だよ。つーか、なんで俺がそんなこと……」
「じゃ、それだけだから」
そう告げると凪沙は一方的に立ち去ってしまう。とはいえ、男子よりも一回り多い荷物を所持した彼女の向かう先も、同じく玄関であるはずなのだが、吉良はなにかの予感を覚えしばし立ち尽くしていた。その彼の意識を再び呼び戻したのは、もう何度目かわからぬ基山か砂木沼からのメッセージ通知で、吉良は慌てて駆け出した。
しばらくしてエントランスを通り抜け、敷地の内外を繋ぐ長い階段を降りていく。その中間地点で、吉良の肩からエナメルバッグが滑り落ちた。
「親父、」
久しく会っていなかったその姿を見た瞬間、吉良の脳天から足元まで見事な衝撃が走った。目の前の光景が信じられず、しかし恰幅の良い実父と、その傍らの基山と砂木沼の姿は紛れもなく現実だ。吉良は驚きを少しも隠すことができないまま、なんとか手繰り寄せた意識の糸を張って落とした鞄を拾い上げる。そしてどこかふわふわとした足取りで、階段下までゆっくりと向かった。
「! ヒロト、やっと来たか!」
「遅いぞ、ヒロト!」
星二郎と話し込んでいた基山と砂木沼は、下りてきた吉良にようやく気が付いた。そして、最後にやって来た彼にまるで譲るかのように、星二郎の両脇に身を寄せた。
吉良と星二郎が対面する。家族にしては、少し離れた距離だった。どちらも口を開くことなく、沈黙が続く。先程まで零れるほどの笑顔だった基山と砂木沼も、どこか心配そうに、それでいて見守るように口を閉ざしていた。
「……ヒロト」
先に口を開いたのは星二郎だった。吉良はほんの僅かに身構えてしまう。FFを通して静かにわだかまりは解けていったが、それでもまだ、そう簡単には仲の良い家族になれるはずもなかったのだ。越えるには、勇気が要る。吉良はただただ、父の次の言葉を待った。
「……見ていましたよ」
──その一言が、たった一言が。吉良の心を大きく揺らした。
長い月日、彼とは隔絶された場所にいたと思っていた。しかし、心のどこかでは見てほしいと、繋がりを求めていた。
間抜けな表情になっているだろうと自覚していながらも、吉良は顔を隠すことができなかった、そのうちに、星二郎は続きを話し出す。
「おめでとう。頑張りましたね。これからも見ている。しっかり頑張りなさい」
ずっと言葉を考えていたのだろうか。それは台本をなぞるようにぎこちなくて、しかし定型文とするにはあまりに拙く、温度が籠っている。吉良はほんの小さく、誰にも気付かれないように吹き出した。
頃合いを見て、四人はようやく星二郎の乗って来たタクシーに乗り込んだ。星二郎は助手席に、子どもら三人は後部座席に並ぶ。少し狭く、なんで野郎共と肩くっつけなきゃなんねーんだと吉良は短い眉を寄せた。だいたい、なんでウチの車使わねーんだよ、付き人も居やがらねェし。──内心でブツブツと文句を垂らす吉良には、星二郎が本来こなすべきだった用事をすっぽかし、こっそりタクシーを呼んで一人でやって来たという事情を悟れるはずもなかった。
走り出す車に揺られながら、基山と砂木沼は嬉々として星二郎に話しかけている。その様子をどこか遠くで聞きながら、彼はふと、凪沙が今朝方合宿所の電話で、誰かと話していたことを思い出した。それから彼女に言われた台詞を重ね合わせ、ようやく合点がいく。
華那芽凪沙という人間を、吉良は元々好きではなかった。出会いは酷いもので、選手とマネージャーと言う立場になってからも、こちらをおちょくるようは態度を見せる彼女は気に食わないままだ。自覚のない面倒見の良さも、余計なことばかり見ている目も。自分にリターンがないことをわかっていながら、行動してみせるところも。本当に、余計なお節介野郎だと吉良は舌打ちする。しかしそこに、厭な気持ちなどは無かった。
「……そうだ、お前たちにいいものを見せてあげましょう」
思考を飛ばしていると、星二郎がどこからかスマートフォンを取り出した。未だ慣れぬようで、てちてちとした手つきで操作し始める。その際に、吉良の視界にちらりとその画面が映った。
「……!!」
姉である瞳子と、星二郎の間に立つ笑顔の少年──星二郎が壁紙に設定していたそれは、家族に囲まれた幼き日の吉良の写真だった。こんな頃があったのかと、吉良は素直に驚く。俺はあんな風に親父の隣で、笑っていたのか。今度は、心に言い知れぬ感が沸き起こる。
その写真は元のデータが無くなっていたのだろう、写真用紙にプリントされたものが直に撮られており、お世辞にも画質が良いとは言い難かった。にもかかわらず、すぐに見えるところに、父は。
「……いつまでそんな古ィ写真使ってんだよ」
言ってから、はたと気がついた。
それはきっと、古い写真などではなかったのだろう。ここ数年の記憶を遡っても、父と並んで写真を撮った覚えなどひとつもない。あれは、数えるほどしかない写真の中で、いちばん新しいものだったのだ。
「……」
星二郎は振り返ることはない。しかし前方のミラーにはその顔が写っており、つまり星二郎からも、ミラー越しに息子の顔が見えているのだとわかる。星二郎はいつもの柔和そうな、それでいて感情の読み取りにくい顔をしていた。
「……父さん。帰ったら皆で、写真を撮りませんか」
沈黙していた基山が、編み物を編むように、少しずつ形成していたそのお願いを、ようやく口にした。初めて聞かされた砂木沼は少し驚きながらも、良案だと言いたげに頷いている。
対して吉良は何も言わなかったが、しかし、その視線だけは星二郎の様子を窺っていた。その瞳には、ほんの僅かに期待と不安が入り交じっている。
ミラーに写った星二郎は、返事の代わりにその鏡面を見つめたまま幸せそうに微笑んで頷いた。
四周年企画/永世(基山吉良)の話
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