雷雷軒でラーメンを注文する
「あー、入れ違いか」
カラカラと乾いた音を立てて、店の引き戸が開かれる。同時に聞き覚えのある声がして、鬼瓦は読み耽っていた新聞紙から顔を上げた。
「あれ……鬼瓦さんだ。お久しぶりです」
敬語でありながらも軽い語調は、こちらへの親しみが顕著に表れていた。その声、その顔を認めた鬼瓦は、皺の刻まれた細い目元を驚いたように見開いた。
「華那芽の嬢ちゃんじゃねえか」
その顔を見るのは久しく、年単位ではないものの最後に見た時から随分と大人びたように見えた。ガキの成長は本当に早いな。自分には子どもがいないが、幼少の頃からよく知る彼女の存在は、鬼瓦に度々そういったことを思わせる。
「親父は元気にしてっか」
「まあ、それなりには」
元部下の安否がそれほど気になっているわけではない。ただの社交辞令だった。第一あの男は、その生き様こそ物静かではあるものの、「ああいうやつに限ってしぶとく生き残るんだ」と思わせるものがあった。
凪沙はのろのろと店内を移動すると、奥から二番目の席に腰を下ろした。彼女が座るのは、いつもそこだった。
「響木さんいつもの」
彼女の一言を受け、無愛想な店主は小さく「あいよ」とだけ返すと調理に取り掛かる。そのやりとりは、凪沙がたびたびこの店を訪れる常連客であることを物語っていた。
「そういや入れ違いって言ったな。お前さんあのサッカー少年らのダチか」
「まあ、はい。部室行ったら鍵かかってて、
雷雷軒に行ってるって置き手紙貼られてたんで」
「ガッハッハ! それで追ってきたってか! 嬢ちゃん、また随分とあの子らにベタ惚れしてんじゃねえか」
凪沙の、捉えようによっては「寂しがり」とも思える行動に、思わず声を上げて笑った。湯の沸騰する音と、豪快な笑声が小さな店内で混ざり合う。すぐに否定の声が上がるか睨みを利かされるかと思っていたが、彼女を見やれば穏やかに、それでいてにやりとした薄ら笑いが浮かんでいて、鬼瓦は目をしばたたかせた。その後も、否定の声も肯定の声も上がることはなかった。
「あ、そういや、響木さん監督になってくれないんですか」
監督探しに奔走してた円堂らが、響木にその役を頼み込んだであろうことも、至って「普段通り」の響木が、監督の話を一蹴したことも容易に想像がついたらしい。凪沙は漂う旨そうな匂いにとろんと誘惑されながら、なんてことない世間話のようにそう切り出した。
「監督がいないとフットボールフロンティアに出場できないんですって」
「……俺がそれを知ったことか。だいたい、今までの監督はどうした」
「前監督ね、悪事働いて追放されちゃって。びっくりですよ本当。アイツらは何も悪くないのに、これで出られないってんじゃあんまりじゃないですか。ねえ、お願いしますよ。他に当てもないみたいで」
「誰に何と言われようが、俺の答えは変わらん」
「お願いします、響木さん」
今度は真剣な、芯の通った真っ直ぐな声だった。響木は麺を湯切りする手を止め、ゆっくりと凪沙に向き合う。そしてたっぷりと蓄えた白い髭をもそりと動かし、呟くように問うた。
「随分と必死だな。お前は、サッカー部じゃないんだろう」
「ええ、はい。でも、応援したいから」
サングラス越しに見る凪沙の目は曇りない。一年前の彼女だったら、こんな顔でこんなことを言うなんて思いもしなかっただろう。これほどまでに周りに影響を与え、人を変えるのか。あの少年たちは──あの、円堂大介の孫は。
「"あれ"から四十年間、本当にずっとサッカー部無かったんですよ、雷門中。でも円堂がそれを"終わらせた"」
響木が調理に戻ってからも、凪沙は語り続ける。だがそこにはもう、響木への懇願のような色は混ざっていない。
「円堂、しつこいくらい諦め悪いですよ。だから響木さんも多分、サッカー諦めるのを諦めることになると思いますよ、つって」
「……フン」
ドン、と凪沙の前にスタンダードなしょうゆラーメンが置かれた。食欲をそそる香りが、湯気とともにもうもうと沸き立つ。凪沙は傍らの割り箸を一本引き抜くと、軽い音を立てて割り、いただきます、と律儀に呟いてからすすり始めた。
「珍しいじゃねぇか、嬢ちゃんがそんなに誰かに入れ込むなんて」
「んー……や、私を一体なんだと。それに珍しいのは私じゃなくて、あっちのほうですよ」
「ガッハッハ! 違ェねえや!」
品のない笑い声が店内に響く。一頻り笑うと、再び場は沈黙に支配された。それから二十秒ほどの間を置き、鬼瓦はふとしたように凪沙に問いかける。
「嬢ちゃん、あの大介の孫に惚れてんのか」
「ぶっ、」
危うくすすったものを吹き出しそうになりながらも、なんとか堪える。慎重に咀嚼してすべて飲み下した凪沙は、どこかニヤニヤと鬱陶しい笑みを浮かべる鬼瓦をギロリと睨みつけた。彼女の本気が窺える眼力は同世代なら気圧されたかもしれなかったが、数々の事件に関わってきた刑事の鬼瓦に通用することはない。
「だァれがそんな……私はあのサッカー部が好きで応援してるわけであって、別にそういうのじゃないし、第一それセクハラ」
「おっとこいつァ手厳しいな」
先ほど「あの子ら」と称した時は、あんなにも素直に自分の気持ちを認めていたというのに、たった一人に絞っただけでこれだ。どこか冷静さを欠いたその台詞はまた随分と言い訳がましく聞こえて、まるで図星であるように思わせた。顔色は変わっていないように見えるが、雑念か何かをかき消すように麺を先ほどよりも強くすすっている。
ほんの冗談のつもりだったのだが、あるいは本当に……。そこまで考えて、いや若いモンのそれにジジイが首を突っ込むのも野暮だろうと思い直し、鬼瓦はそこで思考を打ち止めた。
「……ただ、───」
凪沙が続けたそれはほんの小さな、風に吹かれて消えてしまいそうな声で、実際に数席離れた鬼瓦に届くことはなかった。しかしカウンターを隔てたその奥にいた響木の耳には入ったらしい。彼は一瞬だけ手を止めた後、その髭の下で人知れず口元を歪めていた。
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