目覚ましアラーム砂木沼2
「……う……よう……」
断続的に耳朶を打つ声。ピースの足りないそれは何を伝えたかったのか曖昧で、深い眠りの中にいる凪沙の意識を浮上させるには至らない。
「お早う! 華那芽!!」
「!?」
と、思えば突然鼓膜を揺さぶる大声に凪沙は文字通り飛び起きる。──デジャヴだ。圧倒的なデジャヴだった。ただならぬ既知感に、凪沙の顔は至極嫌そうに歪む。
彼女は小さく舌打ちして掛け布団から抜け出すと、傍らの靴を雑に突っ掛けて、扉の方に向かい、その間に軽く手ぐしで寝起きの髪を整えた。ここまでまったく同じ流れだ、本当にうんざりする──と、扉をほんの数センチだけ開くと、やはりそこには砂木沼治が腕を組み堂々たる顔つきで……立ちはだかっては、いなかった。
彼は寝起きではないらしい、しっかり身支度を整えた上で、今度は格好つけることもなく真っ直ぐ立っていた。その顔も、普段の彼のように自信に溢れた表情ではなく、静かで真剣な様相だ。
「華那芽よ、お早う」
「お早すぎだっつの……」
悪態をつきながらも、彼の様子がいつもと違うことに違和感を覚える。本当は予定より早く叩き起こされたことに腹を立てたかったが、その気も失せてしまった。だから凪沙は諦めたようにため息を吐いて、そっと砂木沼に尋ねる。
「……で、何の用? どうした?」
「お前に、相談したいことがある」
「……私に?」
思わず聞き返すと、砂木沼は表情を崩さぬまま頷いた。凪沙はしばし逡巡していたようだったが、それからすぐに「10分待ってて」とだけ言い残し、身支度を終えるために大儀そうな足取りで部屋へと戻っていった。
*
砂木沼に連れてこられたのはキャンプ場の外だった。早朝ともあって、日は昇っているものの
人気はない。ひっそりとした敷地周辺を歩く砂木沼の少し後ろを、凪沙は黙って着いていく。
道に沿っていくつか並ぶ花壇には、名前も知らぬ花が咲いていた。ここの手入れは凪沙たちマネージャーの管轄ではなかったが、以前氷浦が自主的に水やりをしているのを見たことがある。雷門時代に必殺技の特訓をした名残か、それとも島にいたころの習慣かはわからなかったが、時おり稲森や万作を交えては楽しそうに花壇の世話をしていた。そのおかげで花たちは伸び伸びと色鮮やかに咲き誇っている。
砂木沼は花には見向きもせずに、ただ真っ直ぐ歩いていた。その彼が突然足を止めたかと思うと、振り返らずに話し始めた。
「……俺は考えていた。この俺はチームの一員として、何ができるのか」
束ねた黒髪が掛かる、広い背中を見つめる。凪沙は彼の隣に並ぶこともないまま、黙って耳を傾けた。
「タツヤがディフェンダーに転向しただろう。あれから俺も考えたんだ。俺には一体何ができるのか」
──なるほど。ようやく合点がいった。この考えるより体を動かしそうな暑苦しくストイックな彼が、改まって相談などと言った時には何事かと思ったが、そういうことか。
「……もちろん、円堂がいつ如何なる時も日本のゴールを守ってくれるわけではない。常に交代できるように、控えておくのも俺の役目ではある。だが……」
「……、」
「……仲間がたくさんいるのは、頼もしいことだ。それは、絶対にそうだ。しかし俺は、それで……俺自身の存在意義を見出だせなくなってしまった」
疑問に思っていた。何故、自分であったのだろうかと。相談なら、それこそキャプテンである円堂にするのが適任ではないのだろうか。そうでなくても、同じフィールドに立つ選手仲間たちのほうがよっぽど良いのではなかろうか。同じ出身の基山などはとくに、親身になってくれそうだし気楽に話せるだろう。大人である金雲や析谷──は、主観ではあるが現時点で信頼に欠けるため、候補から外されていようと可笑しくはないと思うが、それでも個人的な交流が多くあったわけでもない、ただのマネージャーを、何故。そう思っていた。
けれど話を聞いて、そりゃあ同じ選手には相談できないなとどこかで納得する。それでも、複数のマネージャーから凪沙に声を掛けた理由は判然としないが、そんなことはもうどうだって良かった。
「……俺にも何かができるはずだ、俺にしかできない何かがあるはずだと、考えてはいるのだが、二進も三進もいかなくなってしまった。なぁ、華那芽。俺はどうすれば良いのだろうか」
彼は癖のある長髪を揺らして振り返った。橙の瞳と視線がかち合う。剃られた眉根は僅かに寄せられていた。常に勝ち気な彼の、見たことのない表情だった。けれどそれは、奥深く強い意思を秘めているようにも見えて、凪沙は目を見張る。それから、一人悩んで、凪沙に打ち明けて、助言を求めている彼に何と声を掛けるべきなのか、今度はそっと目を伏せて考えた。
難しい問いだと思った。誰もが自国の勝利を願う中、強い仲間がたくさんいるのは喜ばしいことだ。けれど、本を正せばそこあるのは「サッカーが好き」という気持ちだった。サッカーをやりたい、強い相手と戦いたい、ボールを取りたい、繋ぎたい、ゴールを決めたい、守りたい。自分が、自分こそが。
伊那国メンバーで構成された雷門のマネージャーを務めていた時は、元より人数も最低ラインギリギリで、スタメン争いなど起こった試しがなかった。去年の円堂率いるサッカー部では何度かそういうことも起こったが、凪沙はマネージャーとして身を置いているわけではなかったから、深く関与することもそうなかったし、たった一人しかスタメンに選ばれないキーパーというポジションは、そもそも円堂ひとりだった。
そして、この世界大会。これまでの試合で、フィールドプレーヤーは毎度顔ぶれが変わっているものの、ゴール前に立つのは常にキャプテンの円堂だった。彼が一時離脱した際には西蔭がゴールを守り抜き、また「三人でキーパーを務める」といった荒業を行った際は、三人ともどもフィールドに立ったが、それ以外ではすべて円堂が選ばれていた。砂木沼は未だ、フィールドでボールに触れる機会を、その真価を発揮するチャンスを与えられていなかったのだ。それはどんなに、歯がゆいことだろう。
朝の空気はひやりと澄んでいて、時の流れをゆっくりと感じさせる。軽い語調で交わせる話ではないはずなのに、しかし何故か頭も心も澄んだままでいられたのはそのせいだろうか?
いや、それは多分違っていた。もう一度砂木沼の目を見据える。きっと彼は、すでに。
「……できることの反対が、『できないこと』だけとは限らないんじゃない」
おもむろに告げられた言葉に、今度は砂木沼が目を見張る番だった。凪沙が考え、選んだ言葉を彼はしっかりと受け止める。
「できないと思ってることの中に、もしかしたら『できるかもしれないこと』があるかもしれない……し、それはやってみないとわからないと思う。から、何か思う所があるのなら、納得できるまでやってみるのも一つの手なんじゃない」
砂木沼はその声をゆっくり頭に、心臓部に、それから全身に染み渡らせる。凪沙の抽象的な言葉は具体的な解決案ではなかったが、砂木沼は正面から受けたその真っ直ぐな双眸と声に、しかし背中を押されるような心地でいた。
「……そう、か」
ぽつりと、返事を零す。それから少しずつ、次第にはっきりと、砂木沼は高く笑った。よく通る彼の声が、明るい青の朝空に溶けていく。彼はもう普段のように自信に満ちた顔つきで、凪沙はどこか肩の力が抜けるのを感じていた。
「フハハ! そうか、そうか! やはりな! ありがとう、華那芽。おかげで何かが掴めそうな気がする」
「別に、私のおかげじゃないでしょ」
「む?」
「もともと、自力で掴みかけてたんじゃないの」
驚いたようにぱちぱちと瞬きを繰り返す砂木沼に、凪沙は再度念を押すように口を開いた。
「私は別に何もしてない。自分自身のおかげでしょ」
自分の一番の応援者は、紛れもなく自分だ。人に言われたことを取り込むのも大切かもしれないが、自分の信じた道を貫くのは最も後悔が少ないと、凪沙は思う。
直接聞かされたわけではないがきっと、恐らく、砂木沼はポジションの転向を考えているのだろう。基山の姿を見て、自分にも新しい可能性があるかもしれないと感じたのだろう。
凪沙はサッカープレーヤーではないから、慣れ親しんだポジションを離れることの気持ちや不安は計り知れない。経験していないものを、わかるわけもなかった。けれど、例えば円堂は、キーパーというポジションをとても好いていると外野から見ていてもわかる。それを突然変えるとなれば、周囲も本人も大層戸惑うに違いない。もしかしたら嫌だ、とさえ感じるかもしれない。
それでも基山は、ディフェンダーに下がった。しっかりと自分自身で納得して決めた。自分で決めたことに対して、他人が勝手に気持ちを推し測りとやかく言う権利などないし、言って簡単に考えを変えるくらいなら、最初からその道を選んだりはしていない。
だから凪沙は、砂木沼にも何も言わなかった。きっと何かを言ったところで考え直すことはしないだろうし、それが無粋だともわかっていた。何が正しくてどれが最善かなど、誰にもわからないのだから。ならば自分自身を信じ、納得できるまで突き進んだほうが良い。だから凪沙は、そっと彼の後押しをすることにした。彼が少しでも、良い方向へと進めればいいと、そんな想いを籠めて。
「フッ……ありがとう」
「だから、礼言われる筋合いないんだって……」
再度礼を言われ、居心地悪そうに顔を背ける凪沙。彼女の一向に素直じゃない反応を受けて、砂木沼は穏やかに、そして楽しそうに笑った。
ゆるやかな風が、色とりどりな花壇の花を揺らめかす。その様を視界の端に捉えた砂木沼は、また少し笑みを深めた後、ぱっと顔を上げた。
「そうだ、華那芽。今日の礼だ、お前が望むならば早朝トレーニングでも何でも、いくらでも付き合うぞ!」
「いやなんで? しません」
「何、遠慮するな!」
「してません。毛ほども」
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