水色の眼をした怪物

「たくさん買いましたね」

 両手いっぱいに袋を掲げた一星と凪沙。彼らは今しがた、近くのスーパーマーケットで買い出しを済ませてきたばかりだった。一星はこれもトレーニングだと言って、凪沙よりも多くの買い物袋を手に引っ提げている。そのうちの一つに入っている缶ジュースの存在を思い浮かべて、彼はにやにやと頬を緩ませた。

「スイカとカボス、まさかどちらも売ってるとは……野坂さんと西蔭さん、喜ぶだろうなぁ……へへっ」
「二本しか買ってなかったけど、自分のはいいの」
「ふふ。俺がいついかなる時も、あのお二人のもとに割り入ってると思いました?」

 にやり、とさらに笑って見せる一星。こいつも色々考えてんだなぁ、と心のどこかで納得した。確かに、西蔭は一星の存在を認めているとはいえ、常に行動を共にしてきた野坂との間に「参謀役」として新しい顔がずっと居るのは、どうしても納得しがたいところがあるかもしれない。西蔭は誰よりも何よりも、野坂のことを尊敬し慕っているのだから。

 ロシアの街並みは未だ慣れず、読むこともできない文字がそこかしこに羅列しているのは少し辟易する。だからこそ、ロシアで生活していた一星はイナズマジャパンの中でも引っ張りだこだった。あれは何と読むのか、さっきこう声を掛けられたが意味は、これは何をどうすればいい、そういった具合に。だから凪沙も、本来はもっと時間と労力を使うであろう買い出しにおいて、彼が付き添ってくれるのは大変頼もしいものだった。

「あんたがいてくれるとありがたいわ。流石にロシア語なんて読めないし」
「俺でよければ、いつでもお供しますよ」
「おー助かる助かる。ご褒美に好きなお菓子買ってあげよう」
「俺は子供ですか!」
「子供でしょ、十二歳」
「もうすぐ十三です! っていうか凪沙さんだってそう歳変わらないでしょ!」
「はいはい」

 きゃんきゃんと詰め寄る一星の頭を押し退け、ついでに犬を宥めるようにひと撫で。その攻撃力のない一撃に、一星は文句が霧散してしまったように押し黙った。撫でられた感触を反芻するように手で頭をさすっていると、凪沙に唐突に告げられる。

「今日、夕飯ビーフストロガノフ」
「えっ! 本当ですか!」
「あんた好物でしょ」
「はい! 嬉しいです!」

 たちまち輝かしい笑顔に戻る一星。その無邪気さに、凪沙はバレないよう小さく口もとを緩ませた。──いつだったか、大きな声では言えない理由であったが、彼だけにビーフストロガノフを振る舞ったことがある。ただロシアの家庭料理だったから、という理由でそれを選んだが、奇しくもそれは彼の好物であったらしい。あの後も一度、彼の強い希望で夕食に出したことがあった。

「今回は料理長(せきや)さんもいるし、前よりもっとマシなもの出せると思う」
「何言ってるんですか。凪沙さんが初めて作ってくれた時から、俺が食べてきた中でも一番美味しかったですよ」
「お世辞はいらん」
「あはは、まあプロには流石に負けちゃいますよね」
「そりゃそうだ」
「でも、すごく美味しかったのは本当ですよ」
「…………そ」

 凪沙が下手に褒められるのが苦手であることを、一星はとうに見抜いていた。その上で彼女をストレートに褒めたり、あるいはすぐに手のひらを返したりするのは、親愛の表れか。露骨に視線を逸らす凪沙に小さく笑って、それから彼はぽつりと溢す。

「……なんだか、」
「ん?」
「……あ、いや、いえ、なんでもないです」

 何かを口にしかけた一星だったが、言いにくいことだったのかすぐに首を振るった。しかしまたうんうんと唸り、考えあぐねている様子だ。凪沙はとくに促すことも尋ねることもせず、そしてまた別の話題を切り出すこともしなかった。

「……家族と、」

 そうして一星は結局、迷いに迷ってそれを口にしたのだ。伝えることに、言葉にすることにどんな意味があるのかは一星自身もわからないが、そうでありながらも彼はそれをしてみせる。

「家族と、買い物したり、夕飯の話をしたり……こんな感じだったかなぁって……」

 ちょうどすぐそばの広場に噴水があったが、その音で掻き消されることもなく、彼の言葉はしっかりと凪沙の耳に届いた。彼女がわずかに瞠目する中、一星は顔から耳まで、茹でられたようにどんどん朱に染まっていく。彼はとうとう耐えかねたのか、ぎこちない笑顔を無理矢理作って、無意味に買い物袋をガサガサと揺らした。

「な、な〜んて! あっ! そうだ俺買い忘れ思い出しちゃいました! 凪沙さん先に帰っててください! お気を付けて!」
「えっ、あっちょっと一星、」

 矢継ぎ早にそう告げると、彼は脇目も振らず駆け出した。逃げるようなその後ろ姿が次第に小さくなっていくのを、残された凪沙はただただ見つめるしかない。

 ──家族? 家族だって?

 一星の家庭事情は知っている。そして、もう増やすことのできないその思い出たちが、きっと何より大切で、かけがえのないものであることも。
 そんな思い出に、凪沙との時間を重ね合わせたというのだろうか? その宝物と同じもののように、大事に思ったということなのだろうか? ──何故? たかが私と一緒にいた時間を、どうして?
 言語化できない、言い知れぬ感情が心の端からじわじわと侵食していく。だがそれは決して、嫌なものなどではなかった。それだけは確かにわかる、絶対なことだったのだ。

「やあ」

 ──凪沙の思考をそこで打ち切ったのは、後方から掛けられた男の声だった。
 彼女は機敏に振り返り、相手を見咎める。まばらに通行人がいたが、彼であると一目でわかった。
 そこにいたのは、真っ白で美しい頭髪をした見覚えある少年だった。特徴的な水色の毛束を揺らしながら、彼はちょいちょいと凪沙に手招きする。一瞬無視してしまおうか迷ったが、すぐに諦めて彼の後ろを着いていった。そうして広場の噴水の傍らまで来ると、彼は歩みを止めて振り返る。凪沙もまた、ぴたりと足を止めた。彼は笑みを見せてから改めて、一歩二歩と凪沙に歩み寄る。一見人当たりの良さそうな、しかし何を考えているのか読めない笑顔だ。凪沙は警戒を強めながら、そっと口を開いた。

「フロイ・ギリカナンでしょ」
「ああ、覚えててくれてるんだ。そう、ボクはロシア代表キャプテンのフロイ。よろしくね、ミス華那芽凪沙」

 軽い語調の声に呼ばれ、凪沙は密かに眉をしかめた。自分が相手チームのキャプテンを覚えているのは全く不思議なことではないが、しかし彼が敵国のマネージャーの顔とフルネームまで網羅しているらしいということに、なにか企んでいるのではと深読みさえしてしまう。

「本当は隣にヒカルがいたから、声を掛けるのは諦めようとしてたんだけど……ナイスタイミングだったね」
「……で、ロシアのキャプテンが、しがないマネージャーに何の用ですかね」

 努めて冷静に尋ねる。わざわざ凪沙に声を掛けてきた理由が、まるでわからなかった。しかも彼の口ぶりからだと、最初から凪沙に用事があったみたいではないか。彼に自分だけが目をつけられる要因など、持っていないはずだというのに。
 彼はオリオン財団との関わりは深いながら、彼率いるロシア代表全員が財団に反旗を翻しているという。しかしどこまで信頼できるかなんて、わかったものではない。最も互いを知り得ているであろう一星ですら、彼を信用し切れていないように見えるのだから。十二分に警戒する必要があった。

 彼はまた一歩、凪沙との距離を詰める。それから手を伸ばしてきたかと思えば、人差し指で彼女の顎をやわらかく掬いとった。冷たい指先、撫でるような触れ方に、ほんの少し背筋が粟立つ。買い物袋が邪魔して振り払うことこそできないが、後退して逃れることは可能だった。しかし過剰な反応をして怯えているとでも勘違いされるのは癪だと、凪沙はそのまま至近距離の彼を睨み付ける。周囲の視線がちらちらとこちらに向いている気がして、煩わしかった。

「……何?」

 低く抑揚のない声で尋ねる。フロイのスカイブルーの瞳が、ぎょろりと剥かれた。

「ミス華那芽。キミは一体、ヒカルの何だい?」

 肌に触れる空気が、ビリビリと小さく痺れるような刺々しさを伴った。しかし凪沙が怯むことはない。それどころか、彼の発言に一種の虚脱感さえ覚えた。身構えていたこちらが馬鹿馬鹿しい。

「……そんなことをわざわざ訊いてくるってことは、はた迷惑な勘違いしてくれちゃってるわけ?」

 てっきり大会や財団についての話を切り出されると思っていたら、蓋を開けてみればそこにあったのはただの私的な感情だ。これで拍子抜けせずにどうしろという。明らかにうんざりとした様子を見せる凪沙に、フロイはようやく手を離すと今度は鋭く目を細めて見せた。

「あんなにやわらかくて、暖かい笑顔のヒカルを……"ミツル"を、ボクは見たことがない」

 そうなっても仕方ないだろうな、と凪沙は心の内で思う。実際彼がまだ"一星充"と名乗っていた頃に、今見せるような朗らかで嘘偽りない笑みを浮かべているところなど、凪沙だってついぞ見たことがなかったのだから。しかしそのことを知る由もないフロイは、依然として凪沙を敵と見定めたように、温度の低い視線を向ける。

「キミたちと日本にいる間に、ミツルは随分と変わった。ミツルではなくヒカルになった。あんなにも固執していたオリオン財団から抜けた。よく……笑うようになった」
「……で? 何が言いたいの?」
「キミは、ヒカルの恋人?」
「なわけねーだろ」

 御免被りたい憶測を、間髪を入れず斧で断ち切った。その切り返しの速さに、フロイは白い睫毛で縁取られたつり目をしばし瞬かせた後、小さく吹き出した。しかしその笑いは、あまり純粋なものには感じられず、凪沙が警戒心を解くことはない。

「あいつと私はただの選手とマネージャーだよ。何をどう勘違いしたかは知らないけど、アンタのほうが一星を知ってるだろうし、仲良いんじゃないの」
「……気に食わないなぁ、その目」

 薄ら笑みを浮かべながら、フロイは静かに告ぐ。凪沙としては「はぁ……」としか言いようがなかったが、火に油を注ぎかねないと思い黙った。

「何でもかんでも分かったような余裕そうな顔して……キミはヒカルがいなくなっても平気なくせに、ヒカルはボクよりもキミたちといる方が安心するそうだ」
「や……そりゃ、私の知ったところじゃないでしょ……」
「ミス華那芽がヒカルの心を縛ってるの?」
「その表現やめてくんない? っていうか私どころか誰一人、あいつを縛ってなんかないよ」

 ああ、一体何なんだコイツは。何がしたい。どうしてほしい。これまでの流れからして、まさかコイツは一星の恋人の座でも狙ってんのか? なんて仮説が一瞬過ったが、彼の瞳にそのような色はまるでなかったためすぐに振り払う。ならばきっと、ひょっとすると、彼自身もあまりわかっていないのかもしれないなと、凪沙は思った。

「ボクはヒカルの親友だ。親友は毛布より上だって、証明してあげるよ」
「は? 毛布?」
「キミたち仲間はヒカルをくるんで暖めてモフモフぬくぬくしてあげる毛布なんだろう」
「だから何? その表現」

 個性的な例えに凪沙はますます顔をしかめる。早く帰って、マネージャーの仕事に合流したかった。疲れを感じないほど楽しい、なんていうことはないが、少なくともこの男に絡まれているよりは何倍も楽だった。

「ねえ、ギリカナン」
「その名で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ。名前で頼むよ」
「……フロイ。アンタ随分と一星に執着してるみたいだけど……私たちイナズマジャパンに、一星を捕られたとでも思ってるの?」

 フロイは何も答えない。温度のない微笑を湛えたまま、凪沙を見据えている。相手のリアクションがないことはどこか精神を削るが、それでも凪沙ははっきりと言い放つ。

「あいつがオリオンを抜けたのも自分の意思。イナズマジャパンに残ってるのも、最終的には自分の意思。あいつが羽休める場所を決めるのに、私もアンタも介入する権利なんてないよ。……それでも、どうしても納得いかないってんなら……」

 街のざわめきが遠くに聞こえた。凪沙は一瞬だけ目を閉じ、そして不敵で挑発的な、薄い笑みを浮かべる。

「一星がアンタから目ェ離せなくなるくらい、楽しそうなプレーしたら?」

 凪沙の言葉を受け──フロイもまた、彼女に呼応するように口角をつり上げた。

「それは、もとよりそのつもりさ。だってボクはサッカーが好きなんだから。……けれど、ボールを蹴るわけじゃないキミに、そんなことを言われるのはちょっと釈然としないかなぁ」
「私じゃなくてイナズマジャパンの総意だと思ってよ」
「それでも、キミとは同じ土俵に上がれないだろ」
「なんでそんなに私にこだわるの……」

 呆れたように、あるいは面倒くさそうに問う凪沙に、フロイは俯いた。顔が翳り、表情が上手く窺えなくなる。そのまま彼は、薄く唇を開いた。

「────」

 なにか独特な発音で放たれた言葉は、意味どころか文字として起こすことすらできなかった。ロシア語で話されたのだと気付いた時にはもう、彼はぱっと精巧な笑顔を咲かせていた。

「うん、なんでだろうね? けれどボクはね、ミス華那芽……キミのことが一等気に食わないんだよ」

 不穏な台詞にはそぐわぬ美しい笑み。細められた水晶のような水色の眼は、その奥で薄暗い焔を揺らめかせていた。そして彼はそっと手を掲げると、

「じゃあね、ミス華那芽」

 まだ何かあるかと思わせ、あっさりその身を翻した。呆然と立ち尽くす凪沙を置きざりに、フロイはひらひらと手をはためかせながら、人ごみに紛れて消えていった。


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