海の男は家族を名乗る2

『また海見てんのか?』
『うん』

 海が好きだった。どこまでもどこまでも、果てしなく続く美しい海を見ていると、色んなことが小さく感じられたし、その小さなことがどうでもよく思えた。日光が反射してきらきらと輝く海面は、砕いた青い宝石をいっぱいに散りばめられているようで、本当に綺麗だった。

『見てんのも楽しいけどよ、入ってみたらもっとたのしーぞ!』
『でも私泳げない……体力もないし』
『泳がないから泳げねーんだって! だいじょーぶ、俺がおしえてやらぁ』
『ええ……条介くんじゃなんか不安なんだけど……』
『そうか? よし! じゃ今度水着買いに行くぞ!』
『話きいてた?』
『ぜってー泳げるようにしてやっからドロ舟に乗ったつもりでまかせとけ!』
『ますます不安じゃん……』

 最初は見ているだけだったのを、海の中に引き込んだのは従兄だった。彼のおかげで、海の広さと美しさを内外から知った。泳ぐ楽しさ、波に乗る楽しさだって教わった。彼は小さかった私の世界を広げてくれたのだ。







「いや〜それにしても、なんで言ってくれなかったんだ? 華那芽」
「そうだそうだ、なんで言ってくれなかったんだ? 凪沙」

 前から円堂、隣から綱海の質問が投げ掛けられ、凪沙はうんざりした様子でため息を吐いた。前者は沖縄に身内がいることを、後者は沖縄に来るということを、凪沙が黙っていたことによるものだろう。凪沙は着替えたジャージの袖を捲りながら、しぶしぶ口を開く。

「どうせ会えるかわかんなかったし……」
「っかー冬の海より冷てぇなァ! そんなモン、偶然に身を任せてないで会いに来りゃいいじゃねーか!」

 笑いながら凪沙の背中をバシバシと叩く。手加減されてはいるものの、それは決して弱い力とは言えず、凪沙は眉をしかめた。
 ──綱海条介という男は、実に自由気まま、己の心ゆくままに行動する人間であった。凪沙との再会をあれほど喜んでいたにも関わらず、途中で良い波が来る時間だと言ってあっさりその身を翻した。まるで名残惜しさも感じられず、誰もが困惑していたが、凪沙はああいう奴なんだよね、と当たり前のように言ってのけた。
 しかし彼はその後、円堂たちが近くで練習していた際の流れ弾を、サーフボードに乗りながら見事に蹴り返し、あまつさえキーパーの立向居でさえ受け止めきれないシュートに昇華させた。綱海条介という男が、類い稀な運動神経の持ち主であると雷門は確信する。そうして、鬼道を筆頭にした彼らにサッカーの才能を見出だされた綱海は、ほとんど半日の間、サッカーというものにのめり込んだのだった。
 そして現在。綱海は一同の集う借り宿に顔を出し、釣りたての海鮮料理を振る舞うなどしながら、彼らとの親交をさらに深めていた。

「にしても、あの凪沙がなぁ〜へぇ〜フゥ〜ン?」
「は? 何……」
「こいつらなんだろ? 前に電話で言ってたの」
「……余計なこと覚えてなくていいんだよ」

 ニヤニヤと下まぶたをつり上げる綱海。凪沙から小さな舌打ちが聞こえたが、そんなものはお構い無いといった様子で彼女の頭をわしわし撫でつける。

「ちょっ、やめてよ」
「あ? 何を気にしてんだよ」
「人の目だよ」
「なんで?」
「ちょ近い近い」
「別に気にするこたァねーじゃん」
「馬鹿アホ無神経」
「んだとォ!?」
「ははははっ!」

 広い手で凪沙の両頬を掴む綱海と、そんな彼を肘で力強く押し返す凪沙の動きが止まる。つい堪えきれず、といったように笑い出したのは円堂だ。凪沙はどうにもきまり悪くなり、綱海の手を抑えながら視線を下げる。

「仲良いんだな!」
「別に……、」
「そんな華那芽初めて見たぞ!」
「……」

 邪気のない円堂の笑みに、随分幼稚なところを見せてしまった気がする、と己の言動を振り返って凪沙は完全に顔を伏せた。ああ、これだから嫌だったんだ、彼らといるときにこの従兄と会うのは。

「……しかしですね、お二人とも。ただの従兄妹というには……いささか物理的な距離が近すぎるのでは?」

 一瞬の沈黙の隙を突いて、すかさず切り出したのは目金だった。己の眼鏡をクイッと指先で押し上げながら問う彼に、「よくぞ聞いてくれた!」と音にならない声が飛び交う。大半のメンバーが、綱海と凪沙のスキンシップ──というより、綱海から凪沙への接触の過剰さ──を気にせずにはいられなかったのだ。ほとんど同じで兄妹関係にある鬼道と春奈も、仲は良いが綱海たちほどの触れ合いはない。さらに凪沙は特段パーソナルスペースの狭い人間ではないため、二人の異様さはますます際立った。

「あ? そうか?」
「そうだよ、ガキの頃じゃないん……おいコラ離れろ」

 わざとらしく──あたかも見せつけるかのごとく、肩を抱き寄せてくる長い腕を軽くあしらう。しかしキラリンと瞳のハイライトを増やしたリカが、ここぞとばかりに飛び付いた。

「せやせや! それにいい年した男女が名前で呼びあってるんもアヤシイなぁ〜? しかも凪沙、アンタがオトコを名前呼びしとるの初めて聞いたで? ン〜?」
「従兄妹だから、家族だから」
「イトコ同士でも結婚はできんで」
「変なこと言わないでくれない?」

 ピキッとこめかみの血管が薄く浮かび上がる。その火元に油を注ぐように、綱海はニヤニヤと凪沙の顔を覗き込んだ。

「なんだァお前俺と結婚したかったのか?」
「なわけねーだろ文脈ちゃんと捉えろはっ倒すぞ」
「いや〜お前はなんだかんだ言って昔からにーににーにって俺にべったりだったからなぁ〜!」
「してないし一遍たりともそんな呼び方してないし過去改ざんすんな」
「でも俺はもっと可愛げのある嫁さんがいいからなァ〜」
「人の話聞けコラ」
「んだよ怒んなって! お前のことも可愛い奴だと思ってるぜ」
「そんなことは聞いてない」

 ああ言えばこう言う。まるで途切れることを知らないやり取りは、それほど饒舌というわけではない凪沙には珍しく思われた。その上、彼女がここまでペースを崩されるとは。そんな一部始終に「夫婦漫才みたいだなァ」と至極愉快そうに呟いた土門の頭に、すかさず凪沙の力強い手刀が落とされた。







「また海見てんのか?」

 夜にもなれば、日中の茹だるような暑さは多少鳴りを潜めた。多少動いても汗が浮くほどではない。皆が寝静まった頃、こっそり寝床を抜け出した凪沙は、ぬるい風に吹かれながら、暗い浜辺でさざ波を見つめていた。その隣にやってきた綱海が、両ひざに手を乗せて屈んでくる。急遽凪沙らと同じ宿に泊まることになった綱海だったが、抜け出してきた凪沙に気が付いて追いかけてきたらしかった。

「うん」
「海見んの好きだよなぁ、お前」
「まあ、入るのも好きだけど……外から眺めてるのと中から眺めてるのじゃまた景色は違うしさ」
「ま、そうだよな! 俺もどっちも好きだ」

 言いつつ、綱海は凪沙の隣に腰を下ろす。くっつくほど近くはないが、人が入るには狭すぎる距離は、凪沙にごく自然に安心感を与えた。
 揺れる海は、昼間と違いすべての光を呑み込んでしまいそうに真っ暗だ。けれど晴れ渡った空に浮かぶ月の光だけは、海面に薄く白い道筋を作っている。どこかの国で、こういうのを表す言葉があった気がするが、なんだっただろうか……少し考えたけど思い出せなかったので、凪沙はすぐに諦めた。
 ちらりと綱海を盗み見る。彼は何も言わず、遠い水平線を眺めているようだった。色素の薄い髪が潮風にさらされて揺れている。その横顔は、前に会った時よりもまた一つ大人らしさを帯びていて、時の流れを感じさせた。

 この短期間で、本当に色んなことがあった。『今』は間違いなく、凪沙の人生において最も密度の濃い日々だった。
 仲間が次々と増え、そして次々と抜けていった。先日離脱したのは、一年の頃からの仲であった、円堂にとっては誰よりも良き理解者であった風丸だ。敵との計り知れない差も、また痛感した。もう一体これで何度目だろうか。絶望的なまでに叩きのめされるのも、仲間が目も当てられないほどに傷ついていくのも、それをただただ守られた外野から見ていることしかできないのも。

「……私はさ」

 ぽつり。話し出す凪沙に、綱海が視線を向けることはないが、その耳だけは静かに彼女の語りに傾けていた。

「なにか、少しでも、できることをしたいって思って……円堂たちに着いてきた。でも、心構えだけは殊勝でもさ、結局何もできてなかったんだよね」

 自分にできることが分からない。どうすればいいのか、何をすれば彼らの為になれるのか、わからない。体を張れれば良かったけれど、あくまでも『サッカー』で挑んでくる敵に対して、凪沙が前に出ることはできなかった。

「私には何ができんだろ……」
「なーんかよくわかんねーけどよォ」

 ぎゅっと身を縮こませていた凪沙は、ゆるりと綱海のほうを見た。また、「海の広さに比べたら……」だろうか。彼の口癖のようなそれは、幾度となく凪沙の気持ちを楽にさせてきた。けれど彼が放った言葉は、凪沙の予想とは違っていた。

「凪沙、お前は昔っから自分を過小評価しすぎなんだよ。『何もできてない』なんて、これまで頑張ってきたお前に失礼だろーが」

 ようやく、綱海は凪沙を見た。その顔は普段の陽気な笑顔とは違い、静黙で真剣だ。目尻も眉もつり上がっているからか、少しだけ怒っているようにも見える。けれどそれに籠った温度を、凪沙は取りこぼすことなくしっかり受け止める。
 綱海は凪沙を取り巻いてきた現状をまだ知らない。けれど、凪沙が「頑張ってきた」のだと彼の口は言う。少しだけ苦しいのは、居た堪れなさというよりは、むしろ。

「……ん」

 凪沙はその一文字だけ絞り出した。それだけで精一杯で、何か下手なことを言えば、余計な表情を見せることになってしまいそうな気がした。
 再び海に視線を向ける。どこまでも広々と続く大海原。自分の存在も、悩みも、小さなものに感じさせてくれる。ざん、ざざん、美しい水音が耳を満たす。月光に煌めく海面が、静かに揺らいでいる。ようやく瞼が重くなってきて、凪沙はゆっくりと立ち上がった。

「おう、帰るのか」
「うん、寝る。悪いね、変な話して」
「くだんねェこと気にすんなって。家族だろ」

 同じように立ち上がった綱海に、ぽんぽん、わしわしと頭を雑に撫で付けられる。けれどその手はあたたかい。昔からずっと、変わらない。

「……んー」
「素直にうんって頷くのが恥ずかしいからうやむやにしようとしてる時の声だなイッテェ!!」
「殴った」
「事後報告じゃねーか!!」

 ぎゃあぎゃあと文句を垂れる綱海を、凪沙はクスクスと小さく笑う。綱海は殴られた頭を不満そうにさすっていたが、従妹が少しだけ元気を取り戻せたことに、結局笑った。
 ──そんな二人を、少し離れた木の影から見つめる者たちが数名。

「キャ〜! なんやエエ雰囲気や〜ん!」
「いや……どこが……」
「人のおらん砂浜! 押し寄せる波! 二人きりの男女!! これをエエ雰囲気と呼ばずにどうするん!?」
「いやどーもこーも……拳が出たの見えたんだけど……」
「しかも好きだのなんなの言うて! はぁ〜ん、燃え上がっとるなぁ、ラブの炎が……」
「はっきり海が好きって言ってたよな……海の話だったよな……」

 あくび交じりの塔子の白けた目は気にも留めず、語尾にハートでも見えそうな具合にうっとりと頬を染めるリカ。夜だというのにその瞳は爛々と輝き活性化している。辛うじて声を潜めてはいるが、見つかるのも時間の問題といったはしゃぎ様だった。

「にしても、凪沙があんな風に思ってたなんてなぁ……」

 目敏いリカに起こされ、寝ぼけ眼を擦りながら仕方無くついていけば、海辺にいたのはこれまで自分たちを支え続けた凪沙と、その従兄という綱海。普段あまり自分のことを話さず、表情もわかりにくい凪沙の本心は、彼女の家族の前だけでは何に隠れることもなかった。塔子はまた一つ、彼女の内面に近付けたような気がした。元々あの円堂や秋が全幅の信頼を寄せているのだから、やさしい人であることはわかっていたけれど。
 けれど自分達がこれを聞いても良かったものか。本来自分は聞かせて貰えないであろう話を盗み聞きするのは、少なからず良心が痛む。しかし今さら渋い顔をしても後の祭り。今できるのは、二人に見つかる前にさっさとこの場を退散することだけだ。塔子は依然楽しそうなリカの後ろ首をひっ掴むと、凪沙たちに鉢合わせしないようにそそくさと宿に戻っていった。

「──ん? あの後ろ姿……確か塔子とリカ? だったか?」
「…………」


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