新人マネの雷門さん
放課後の雷門中学校。運動部の生徒たちが思い思いに活動に勤しむ広い校庭にある、サッカーコートのその傍ら。皺のひとつも汚れもない制服に身を包んだ女子生徒が、年不相応な気品をまとい佇んでいた。学校では細かな砂埃に汚れやすいローファーも、爪先から踵まで綺麗に磨かれており、傷ひとつない。他人を寄せ付けない鋭い目つきは、白黒の球体を夢中で追いかける少年たちに向けられていた。
「本当にマネージャーになったんだ」
その眼光をはね除けて容易く掛けられた声に、夏未は生まれつきのつり目をさらに細くして振り返る。
視線の先の華那芽凪沙は、グラウンドを駆ける少年たちを眺めながら、夏未の隣までやってきた。肩には鞄が掛けられているが、その程度では二人の間を隔てる壁にはなり得ない。彼女といい、円堂たちといい、臆することなく自分に近寄る者はこれまでそう多くなく、夏未は毎度妙に新鮮な気持ちが抜けない。
「いかにも向いてなさそうなのにねぇ」
「貴女にだけは言われたくないわね」
「でしょ? だから私はやってない」
あっけらかんと返して見せる凪沙は、夏未が何か言いたげにしていたことに気付いていない様子だった。それもそのはず、彼女の視線は穏やかさを帯びたまま、ずっとグラウンドに向けられたままだ。
「どういう風の吹き回し? あれだけサッカー部のこと、目の敵にしてたのにねぇ」
「ここまで勝ち上がったならば、中途半端にして泥を塗られないよう間近で監視するのもこの学園のためよ」
「えらくひねくれた詭弁だね……っていうか、
理事長は快諾してくれたの?」
「……ええ、もちろん。パ……理事長は、私の意思を尊重してくれたわ」
嘘だった。彼女の父、雷門総一郎は、夏未がサッカー部に入部することに難色を示していた。その彼を説得して、どうにかマネージャーとして入部するに至った夏未が、少なくない熱意を持っていたことなど想像に難くないだろう。
しかし夏未はそれを凪沙に──一年の頃からとくに仲良くもなく、下手をすれば軽い嫌味を飛ばし合うような、友人とも言い難い仲だった彼女に悟られたくなくて、嘘をつく。返事を寄越さなかった凪沙の横顔が、何を考えているかなど分かったものではないけれど。
グラウンドでは、ボールと共に弾む声が行き交っている。フットボールフロンティアの初戦を突破し、勢いがつき始めている彼らは、一層練習にも打ち込んでいるように見えた。
「雷門さんが選手を献身的にサポートする姿なんて、想像つかないわぁ」
「そうね。私は主に事務処理を担当するつもりだから、何も問題はないわ」
「いやぁ、秋ちゃんや音無さんが忙しくて、雷門さんの手が空いてたらやることになるでしょ」
「私雑用なんて嫌よ。どうして他人の洗濯物を洗ってあげなくちゃならないの?」
「とんだマネージャーがいたもんだ……」
「第一私、普段は生徒会業務や理事長代行業務で忙しいの。こうして合間を縫って様子を見に来てあげているだけでも、感謝してほしいものだわ」
不遜に答える夏未は、ジャージに着替える様子もない。服が少しでも汚れるような作業はしないという意思の表れだった。生まれたときから使用人のいる生活を送ってきた夏未の中では、そういう環境で育った以上、自分は雑用など行わないのが『当たり前』であったのだ。
「で、その秋ちゃんと音無さんは?」
「備品の買い出しに行ったわ」
「雷門さんは誘われたけど?」
「……断ったわ。っていうかなんで知ってるのよ」
「目に浮かぶわ。せっかく始めたんだしさ、何もしないのはもったいないんじゃない」
「失礼ね、事務仕事なんかが発生したら私が……ちょ、ちょっと!」
「ほら、こっちこっち」
前触れなく凪沙に腕を引かれ、夏未は控えめにうろたえた。反射的に出した足が転じて、凪沙の後ろを歩くことになる。
「な、なんなのよ……」グラウンドの喧騒が少しだけ遠退いていく。掴まれた手は少し強引だけど、乱暴ではない。運動の苦手な夏未ほどの腕力でも、振り払おうと思えば簡単にできただろう。しかし夏未は振りほどくという動作の仕方を忘れたように、ただただ凪沙に腕を引かれていた。
こんなふうに、敬いの欠片もない接し方をされたことが、人生でどれほどあっただろうか。
凪沙が連れてきたのは、部室棟の外壁に沿って設置されている洗濯機の前だった。生徒たちがよりのびのびと部活に打ち込めるように、また家事仕事に触れることで自立性も養ってほしいという学校の方針により、何年か前に費用をかけて複数設置されたものだと聞いている。
一番右の洗濯機の上部に貼られた、小さいクリアポケットの中には、サッカー部の札が入っていた。なるほど、これでどこの部活が使用中であるのか示しているらしい。凪沙はそれを回収すると、動きの止まっている洗濯機の蓋を開いた。中には水を吸った白いタオルたちが、少し窮屈そうに詰まっていた。
「じゃ、取り出して」
凪沙は端に詰まれた洗濯カゴをひとつ手に取り、夏未の足元に置いた。彼女の言い草に、夏未は焦ったように眉をつり上げる。
「どっ、どうして私がそんな……」
「まあまあ一回やってみれば。あの二人が帰ってきたら驚くぞ〜多分」
「……驚くほど適当な発破の掛け方ね……まあいいわ。まったく……」
抑揚のない凪沙の声に、夏未は一瞬半目になったが、しぶしぶといったようにため息を吐いて折れた。普段は書類に触れてばかり片手を洗濯機のフチに掛けて、もう片方の手を中に突っ込んだ。濡れたタオルは当たり前に冷たくて、今が冬ではなくて良かったと夏未は思う。
「固まってると後で干しにくいから、ある程度ほぐしながらね」
「……」
凪沙のアドバイス通りにタオルを拾い上げていく夏未。ウェーブのかかった長髪が前に垂れて、煩わしそうに何度も後ろに払った。「ヘアゴム貸そうか」と言われたが、凪沙に借りを作るのは癪な気がして「いいえ結構」と無愛想に断った。
しばらくして、カゴの中が白で満たされると、夏未は細い取っ手を起こして持ち上げた。──否、持ち上がらなかった。彼女の細腕には重すぎたらしく、踏ん張りが足りなかったようだ。夏未は今一度気合いを入れ直し、ようやくそれを持ち上げると、「戻るよ」と少しだけ先を歩く凪沙にフラフラと着いていく。
「はあ、はあ……」
「……持とうか?」
「いいえ結構……!」
ムキになったような即答だった。サッカー部部室に戻ってきた頃には、日焼け知らずの夏未の顔は赤くなっていた。最近はますます気温が高くなっていることもあり、その額には珍しく汗も浮き始めている。
部室裏の物干し竿の前で、凪沙はカゴからタオルを一枚取り出した。
「まず干す前にこうやって……広げて……パンパン振ってシワ伸ばす」
「……こうっ、かしらっ」
「……や、もっと小さな動きで大丈夫」
「そう?」
凪沙を真似るようにタオルを手に取る夏未だったが、肩の可動域めいっぱいといった具合に大袈裟に振るものだから、凪沙は思わず補足した。そのままうっかり振り飛ばされてはたまったもんじゃないと言いたげな、おしゃべりな顔だった。
「で、竿に掛けていく。そうそう、それなりに長さ均等にね。あ、端っこ伸ばして。折り返ってる」
「……」
「それで、風で飛んでいかないように洗濯バサミで止めて。端っこをこう、こんな感じで」
「……」
凪沙に教えられた通り、黙々と、真剣に夏未は作業を進めていく。その手つきはたどたどしく、平均よりもよほど長い時間が掛かっているが、凪沙は下手に手を出すことなく黙って見守っていた。
そうしてようやく一枚を干し終えた夏未は、日差しに輝く白い布を改めて仰ぎ見て、ぼそりと呟く。
「……私、生まれて初めて洗濯物なんて干したわ」
「ふうん、ご感想は」
「こんな難しくて面倒なことを、使用人は毎日毎日、人の分までやっているのね……なんて殊勝なのかしら」
大真面目に答えた夏未に、凪沙は口元に手を添えて小さく顔をそらした。夏未は笑われたことに気づいて目を細めるが、凪沙の様子があまりにも悪意の欠片もなく、どこかやさしげにすら見えたものだから、押し黙るほかない。
「よかったじゃん。庶民体験できて」
「……そうね。まあ、いい経験になったかしら。一応お礼は言っておくわ」
「はいはい。じゃ、私今日はもう帰るから。残りも頑張って」
凪沙は持っていたサッカー部の使用中札を夏未に手渡すと、あっさり踵を返す。「ねえ、華那芽さん」その背中を、夏未は呼び止めた。
「貴女このサッカー部が好きなのでしょう? 去年からずっと。何故入部しないの?」
「そりゃ、カラオケ好きな人が全員歌手志望ではないのと同じでしょ」
律儀に足を止めて振り返った凪沙は、そう淡々と返事した。夏未がどこか煮え切らないような表情を見せる中、凪沙はさらに続ける。
「それにさっき雷門さんも言ってたじゃん。私もマネージャーなんて柄じゃないって」
薄く笑い飛ばした凪沙は「じゃあね」と軽く手を振りながら、今度こそ歩き出す。遠ざかっていく背中を見つめながら、夏未はほんの小さい、誰にも聞こえない声量で溢した。
「……理由はそんなことじゃあないくせに」
*
「戻りましたー!」
「ただいま〜……って、あれ……」
「あら、木野さん、音無さん、お帰りなさい」
「音無さん、これ……」
「洗濯物が……」
「私たち、まだ干してないよね……?」
「ってことは……」
「……別に、ちょっと手が空いただけよ」
「な、夏未さん……!」
「夏未さぁ〜ん!!」
「ちょっ、ちょっと!!」
感極まったように目を輝かせて飛びついてくる二人に、夏未は頬を紅潮させて慌てふためく。
back
topへ