校舎裏の理事長代理

「親のおかげで、きっと内申も保証されてんでしょ?」
「何もしなくても生徒会長になれちゃうわけだしねぇ」

 それは一人の少女に向けられた声だった。言葉の端々に、確かな悪意が滲む。少女の後ろには校舎の壁面があり、投げつけられた言葉は余すことなく全て彼女に当てられた。しかし少女は毅然とした表情を歪めることは決してない。怯むこともせず、凛と背筋を伸ばして目の前の複数の女子生徒を真っ直ぐ見据えていた。
 ──雷門夏未は今年入学したばかりの一年生でありながら、私立雷門中学校において最も権力を持つ生徒であった。彼女は理事長の娘であり、さらにはその代理を任されている。次期生徒会長を務めることも確定しており、上級生を含む学内の生徒から、教師、学校運営にまで口を出すことができた。
 現在夏未を囲う三年生の女子生徒たちも、彼女に注意をされたことのある生徒のうちの数名だった。いわゆる逆恨みであるが、女子生徒たちはここぞとばかりに気に入らない要素を叩きつけ、夏未を攻撃しようとする。しかし一向に揺らがない夏未の気の強い様子に腹を立てたらしい、女子生徒たちは語気を強めながら、さらに言の葉に悪意を重ねた。

「これ見よがしに執事なんかつけちゃってさぁ、周りと自分は違いますアピール?」
「この間もファンクラブなんてできちゃって、調子に乗ってるんじゃない?」
「ほんとにねぇ。偉ぶってて感じ悪ぅいのに、ちょっと顔が綺麗だと得でいいわねぇ」

 くすくす、嫌な冷たさを伴う笑い声。しかしやはり夏未が屈することはない。くだらない、とでも言いたげな冷めた表情だ。整った顔立ちであるだけに、余計に静かな迫力を伴っている。
 傷付けようとする相手がこちらに無関心であることは、女子生徒たちのプライドに傷をつけた。そのうちの一人が、とうとう痺れを切らしたように腕を伸ばして、夏未の肩を強く突き飛ばす。身構えていなかった彼女は、突然のことにそのまま足をふらつかせた。美しく波打った赤毛が、宙に踊る。夏未はそのつり目を丸くしたまま、受け身を取ることもできず、背後の壁に背中を打ち付ける──ことは、なかった。
 どこからともなく飛んできた球体が、夏未の背中と壁の間に入り込み、ぶつかる寸前の彼女の体をクッションとなって受け止めた。夏未はさらに目を見張り、女子生徒たちも想定外の事態に狼狽える。その白黒の球体はふわりと地面に落ちると、ぽんぽんと数度バウンドしてから沈黙した。

「うわぁ、小学生みたい」

 どこからか投げられたその言葉に、カッと女子生徒らの顔に熱が集まる。そちらにぱっと視線を向ければ、一人の少女がやる気のなさそうな顔で彼女たちを眺めていた。明らかに苛立ったように、一人が「は、誰!?」と声を荒らげるが、まるで聞こえていないように彼女は転がったボールを拾いに来る。女子生徒たちは仲間に続けて「見たことないし一年か二年じゃないの?」「はぁ? 後輩がなにそんな着崩してんの?」と刺々しい声を響かせた。
 彼女たちの品定めをするような鋭い瞳は、ボールを拾い上げた少女の制服に向けられていた。明らかに一回は巻いているであろうスカート丈に、指定外靴下。リボンは外され、ワイシャツの第一ボタンは開けられている。比較的校則のゆるい雷門中では咎められるものではなかったが、上級生の彼女たちから見れば、下級生がそれほど着崩していることは目の敵になるようだった。
 少女はボールを手に持ったまま、女子生徒たちをつまらなそうに見据える。

「そういうのさ、痛々しいしやめとけば?」
「……何よ、先生にでも告げ口する気」
「そんな面倒くさいことしませんけど」

 そう言う彼女の声色は、言葉通り至極面倒くさそうだ。この状況で、明らかに不穏な空気を悟って止めに来たようであるにも関わらず、事を解決する気が見られない。女子生徒たちも、夏未も、呆気にとられたように彼女を見つめた。

「私が言わなくても……そこの理事長代理がちょっと理事長やら校長やらにチクればそれで解決なんじゃない? っていうか、なんで敢えてこの人敵に回そうとしてんのかちょっとわかんない……」

 呆れたような少女の言葉に、女子生徒たちは口を噤む。少女の言い分は圧倒的なまでの正論であった。そもそも、誰がこんなことをしようなどと言い出したのか。今となってはその発端も覚えていないが、わかったところで何かに繋がるわけでもない。それから女子生徒たちは互いに顔を見渡し合うと、誰かの小さな舌打ちを合図に小走りでその場を去っていった。
 妙な静寂が校舎裏に広がる。残された夏未と少女は、どちらともなく顔を合わせた。芯の強く気高い赤目と、何を考えているのか読めない静かな瞳が交わる。それは睨み合いとは別物であったが、平和的なアイコンタクトともまた違っていた。その沈黙に耐え兼ね、先に口を開いたのは夏未だった。

「……理事長代理の私に、媚でも売りに来たのかしら?」
「媚? なんで? そんな面倒くさい」
「……可笑しな人ね」

 先ほどから面倒くさい面倒くさいと、ものぐさなのか、何かを誤魔化しでもしているのか。彼女は夏未からふいっと視線を外すと、先ほど拾ったボールを大事そうに抱え直して背を向ける。

「華那芽凪沙さん」

 そのまま歩き出すつもりだった足が、変に空振った。気品のある声でフルネームを呼ばれた凪沙は、眉間にしわを寄せて今一度振り返る。その顔に滲んでいる感情は、不愉快というより小さな動揺であるように見えた。

「……なんで知ってんの?」
「理事長代理、及び次期生徒会長として、全校生徒の顔と名前は一致させています」
「うわ、流石……」

 どこかげんなりした様子の凪沙。それは夏未が費やしたであろう労力に想いを馳せてのことだったが、夏未は心外だと言わんばかりにその柳眉をひそめた。それから、凪沙の抱える少し汚れたサッカーボールを一瞥し、口を開く。

「とくに貴方……あのサッカー部によく入り浸っている生徒でしょう?」
「へえ、よく見てんだ。そんなに気になる?」
「なっ……誰があんな部! ただ、最低人数の二名に達していたから部として自動的に認可されただけで、功績を残せる見込みのない部を監視するのは私の仕事です!」
「功績ねえ……でも今年発足したばっかりじゃ、難しいでしょ。せめて来年、新入生が入るまで気長に待ったら」
「何故貴方に指図されなければならないの? だいたい、貴方はサッカー部じゃないでしょう」
「もう行っていい? あいつら私がこのボール拾ってくるの待ってるから」
「……はあ、好きにしなさい」

 一貫して夏未には興味がなさそうな態度に、彼女はいよいよため息を吐いてそう言い放つ。「……でも、まあ、そうね」しかし受けた恩は恩だと、夏未は艶のある髪の毛を手で払いながら言葉を続けた。

「今日のことは借りにしておいてあげるわ。光栄に思いなさい」
「や、別にいらね」
「はっ、」
「じゃあね、雷門さん」

 「なんですって!?」怒りと羞恥の叫びを響かせるが、恐らくサッカー部の部室に向かったのであろう凪沙が振り返ることはない。──先ほどの女子生徒たちのような人間に絡まれたことは過去にもあったが、こんなにぶっきらぼうな態度を取られたのは初めてだ。周りの人間はいつも大抵、媚を売るか、囃し立てるか、遠巻きにするかといった嬉しくない態度を夏未に見せてきた。それは夏未の立場や、あまり友好的とは言えず素直でもない性格が災いしていたが、捨てたり直したりできるものでもないと諦めていた。故に夏未は、余計に動揺しているのだった。

「な、なんて失礼な人なのかしら……!」

 息荒く独り言ちたが、心に残るのは苛立ちとはまた違う感情だ。それを言語化するには、授業では学べない経験値がまだ足りていなかった。
 本当に、無礼で可笑しな人だわ。そんなことを思いながら、夏未は角を曲がって見えなくなった凪沙の姿をそっと思い出す。そうしていると、ふと先ほどのことを思い返した。
 夏未を助けたあのボール。どれほど距離があったのかは判然としないが、正確なタイミングで正確な位置にボールを蹴り込むのは、決して容易なことではないのではなかろうか。夏未自身、運動はお世辞にも得意とは言えないから尚更そう感じる。
 あの生徒、帰宅部でありながら、実は制服のままサッカー部の練習に混ざっているのだろうか? そんなことを考えたが、まさかそんなわけがないとすぐに首を振るう。夏未の背中には、体を受け止めてくれたボールの感触がいつまでも残ったままだった。──ついでにボールについていた泥も残っており、帰宅して着替えた彼女が叫んだのはまた別の話である。


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