伊那国を迎える

 その小さな部室の扉に、鍵の類いは掛かっていなかったらしい。そろりと弱い力で横に引いてみれば、拳一つ分、容易く開くことができた。もし開かなければ力ずくで、と稲森の後ろで袖を捲り、息巻いていたのりかは、拍子抜けしたように腕を下ろした。

「それじゃ、開けるよ」

 一同が唾を飲み込む音が重なる。稲森はそのまま、その古ぼけた扉を一気に開き切った。
 ──そこにあった後ろ姿は、どこか見覚えのある、青と黄色の上着を羽織っていた。その裾から覗くスカートからは、その人物が女子生徒であることが窺える。
 彼女は誰だ?
 扉を開いた状態で動作を止めた稲森を不思議に思い、剛陣が率先して稲森の頭上から室内を覗いた。

「あ? 誰だアンタ?」

 そこでようやく、彼女は振り返った。サラリと揺れる髪には、華やかな桃色のピン留めが二つ。その可愛らしい色とは裏腹に、立ち居振舞いからは随分と冷めた印象を受けた。
 ゆっくりと瞬き一つして、開かれた瞳が彼らの姿を捉える。

「……ああ、どうも、早かったね。まずは長旅お疲れ様でした」

 申し訳程度に会釈する彼女に、稲森は数歩踏み出して「あ、ありがとうございます」と戸惑いがちに返した。彼の後ろに続いて、他のメンバー全員もどうにかこの小さな部室内に入り込む。
 彼女は、稲森らの素性を知り得ているようだった。案内などを任された、ここのサッカー部の関係者だろうか。──そこで、彼女が羽織っていたそれが、雷門サッカー部関連のテレビ番組や雑誌などで垣間見たジャージであったことに気がついた。台詞と合わせても、彼女は自分らの案内人で十中八九間違いないだろう。だが、敬語にしてはどこか投げやりな語調に感じられた。そこで稲森らは、自分たちはやはり、あまり歓迎されていないのだろうかと仄かに推察した。

「私は華那芽凪沙。……三年。私と、それからもう一人で、貴方たちによる新生サッカー部のマネージャーとして、これからサポートさせて頂くんで、よろしく」
「えっ? マネージャー!? それも二人も!?」
「さすが強豪校……凄い……!」
「これからよろしくお願いします!」

 皆口々に反応を示すが、凪沙の態度は至って変化がなく、小さな声で「よろしく」と返すばかりだ。あまりにも愛想のない彼女に、数名が顔をしかめる。その様子を気に留めることもなく、凪沙はさも余計な話をするつもりはないと言わんばかりに、淡々と説明事項を重ねていく。

「それと、ここは旧部室。これから貴方たちが使う部室は別にあるから」
「そうなんですか? それじゃあなんでここに……」
「ちょっと、用事があって」

 言って、凪沙は手に持っていたバインダーを小さく掲げた。こちらに向けられたのは裏面だったため、何が挟まっているのかはわからなかった。
 まずは校長室に案内するから、と凪沙は一度全員を旧部室の外に出した。最後に彼女自身も退室し、ポケットから取り出した鍵で扉を施錠する。さらにノブに手を掛け、閉まっていることをしっかりと確認した。用心深い性格なのか、それとも、余程この部室を大事に思っているのだろうか。孤島出身である稲森らは、家の鍵を開けっぱなしにしても問題ないくらいのアットホームな環境で育ってきたためか、カルチャーショックというほどではないがその行動を思わず凝視してしまった。

「……何か用ですか」
「あああっすみませんつい!」
「いや、アンタじゃなくて……」

 凪沙の冷めた目つきに射抜かれ、慌てて平謝りする稲森だったが、どうやら今の文言は自分に対してではなかったらしい。彼女の視線の先を追えば、自分たちを待ち構えていたかのように十人前後の女子生徒たちが立ちはだかっていた。一見無秩序に並んでいるかに見えたが、よく観察すれば、中心のストロベリーブロンドの少女を取り巻いているように並んでいるのがわかる。さらに彼女の制服は他の女子とはやや形も違うようで、彼女がいかに「特別」であるのかが際立って見えた。

「貴方たちが、伊那国島から来たサッカーチームね」

 その特別な少女が毅然とした態度で口を開く。姿だけでなく声色から仕草まで、気品に溢れた女性だと稲森は思った。だがそれと同時に、どこか突き放すような印象も受ける。その冷たさは、凪沙ともまた違うように感じられた。だがどちらかと言えば、この女性の方が一層温度を感じられず、居心地の良いものではない。

「私は神門杏奈。この学校の生徒会長として、すべてのクラブ活動の管理を担当しています。新生サッカー部がどうなるか見極めるのも、私たちの役目なの」

 杏奈と名乗る少女は、つまるところ「ご挨拶」に来たらしい。彼女の物言いが癪に障った剛陣が前に出る。すると取り巻きの女子生徒たちが棘のある口調で言い返す。その場の空気が徐々に緊張を孕んでいくのを、稲森は肌で感じていた。

「──それから」

 杏奈は視線を小さく動かし、依然扉の前に立ったままの凪沙を見た。杏奈の理知的な目つきと、凪沙の気だるげな双眸、両者のまるで違う瞳が交わる。

「華那芽凪沙さん。貴方が以前のサッカー部と懇意にしていたことは知っています。今の雷門で、最もあのサッカー部に近かったのは貴方です」

 杏奈だけでなく、稲森らの視線まで一気に凪沙に集約した。彼女は今までサッカー部ではなかったものの、どうやら部員らと密接な関係を築いていたらしい。元のサッカー部をよく知る人物が味方側──彼女自身のそっけない態度はさておき、少なくとも、そう認識して間違いはないだろう──にいるというのは、心強い。

「どうぞ、新生サッカー部が雷門の名に泥を塗ることのないよう、よろしくお願いしますね」
「そちら様も、何卒公正な判断をお願いします」

 杏奈に煽られ、血の気の盛んな剛陣が反応するよりも早く、凛然と凪沙は返答した。その慇懃無礼な物言いから棘を感じ取った杏奈は、それでも表情を崩すことなく軽い会釈を返す。
 「貴方たちの初戦、お手並み拝見といかせて貰うわ」鼻で笑うような軽い語調でそう言うと、彼女たちは静かに去っていった。残されたメンバーには、これからに対する不安や不満が、淀むように渦巻いていた。







 もう一人のマネージャー、大谷つくしと合流した稲森たちは、校長室へ向かい諸々の話と説明を受けた。コーチの亀田や監督の趙金雲の紹介も終わり、彼らは凪沙とつくしが運んできたユニフォームを受け取って更衣室へ向かった。

「ユニフォーム、間に合って良かった」
「凪沙ちゃんが早めに手続きしてくれてたおかげだね!」
「ん……新しいの、どんなデザインだろうね」
「ああ、私届いてすぐ中身確認したんだけど、昔のデザインを基調としてるから、フィールドプレーヤーは黄色と青だったなぁ! あっでも前よりも濃いめの黄色が使われてて〜……」
「へえ」

 記憶を頼りに言葉を連ねていくつくしに、軽く相槌を入れていく凪沙。一新されたユニフォームに想いを馳せる二人に、背後から「ホッホッ」と気の抜けるような独特な笑いが聞こえてきた。

「すでによく働いてくれてて頼もしいですねェ〜」

 先に練習場へ向かったと思われた金雲が、扉から顔だけ出して二人の新マネージャーの働きぶりを拍手とともに称えている。つくしは素直に受け取り嬉しそうにしていたが、凪沙はどこか訝しげな視線を彼に向けた。昔の監督であった響木も、今は強化委員とともに他校へ派遣されているため、金雲がその後釜に座ったわけだが、凪沙はまだ、いまいち彼のことを信用し切れていない。と、彼女の探るような視線を交わすように、金雲は身を翻して去っていく。何しに来たんだ、と人知れずため息を吐く。つくづく変わった男だ。

「それにしてもさ、まさか先に凪沙ちゃんが彼らと合流してたなんてびっくりしたよ〜! あんなに案内は私にって頼んでたのに」
「仕、方ないじゃん、まさか旧部室の方に来るとは思ってなかったんだから……」
「でもちゃんと応対できてたみたいでよかった〜! 凪沙ちゃん一対多だと人見知りだからなぁ」
「ちょ、その表現やめて」

 まるで心外だと言わんばかりに凪沙の目が訴えたところで、はしゃぎきった声が近付いてきた。新生イレブンが戻ってきたらしい。真新しくまだ固いユニフォームに身を包んでいる彼らは、いたく興奮しているようだ。現在進行形で彼らを絶賛しているつくしの言った通り、以前よりも強い黄色が使われており、派手さを求めた結果なのか、それとも雷門中のシンボルである稲妻のイメージを強めようとしたのかは、あまり見当がつかなかった。

「うう〜、元の雷門の皆さんが頑張っていたこと、思い出しちゃいましたぁ」
「そっか。つくしさんと凪沙さんは、円堂さんたちのこと知ってるんですよね」
「誰だ、それ」
「……えっ?」

 稲森の発した『円堂』の名前に、にわかに信じがたい台詞が挟まれた。一拍開けて、一同の驚愕と引きが混ざったような叫び声が響く。場を騒然とさせた張本人である剛陣は、状況が読めずに辺りをきょろりと見回した。そこでぱちり、と、うっかり目を合わせてしまった凪沙は、呆れた様子をまるで隠すことなく、そばの壁に飾られていた大きな写真を指差した。

「わぁ…! これ、以前の雷門の選手たちですよね!」

 行動の速い稲森を筆頭に、伊那国メンバーはその額装された写真の前に集まる。羨望や尊敬の入り混じった視線が、写真の中の堂々たる彼らに向けられていた。

「円堂くんは、中心のオレンジのバンダナの男の子です! 彼は本当にすごい人でしたよ! 選手としてはもちろん、チームの精神的支柱にもなり得る人で! ね、凪沙ちゃん!」
「うん……」

 つくしに振られ、凪沙は無意識のうちに羽織っていたジャージの左胸あたりを、中心に手繰り寄せるように掴んだ。「もしかして、懐かしいを通り越して寂しくなっちゃった?」とつくしに顔を覗き込まれ、別に、と顔をそむけたが、否定すればするほど図星であることがばれる気がして、それ以上は口を噤んだ。

「そういえば……凪沙さんのそのジャージ、少し大きくないですか?」

 彼女たちの様子に唯一気付いたのりかが、薄々感じていた疑問をぶつけた。丈はそこまで長くもないように見えるが、全体的に見ると、このジャージに対して凪沙はやや細すぎるように見える。どちらかと言えば、スポーツをやっている男子のほうがばっちり着こなせるような──

「ああ、凪沙ちゃんのこれは円堂くんからの預かりものなの」
「えーっ!?」

 質問者ののりかが真っ先に叫ぶが、それはただの驚愕というよりはもっと色めいた、恋愛話に興じる時の女子のような高い声だった。年頃の女子らしい反応といえばそうだが、これ以上何か尋ねられても、凪沙は上手く答えられる気がしなかったし、そもそものりかが期待するような話題などは一つも持ち合わせていない。凪沙は誤魔化すように「大谷さん、話し込んでる場合じゃなかった」と話題を転換させ、そばにあったダンボールを視線で指し示した。

「はっ! そうだった!」

 二人は先ほどユニフォームと共に持ってきたダンボールを開く。その中に収められていたものを、手分けして選手たちに配った。これがサッカー選手に義務付けられた「イレブンバンド」であること、その機能などを大谷が大方説明し終えたところで、早速監督からの集合の合図がバンドに入った。
 名門サッカー部のユニフォームや、見たこともない機器の装着などに、どの選手も高揚を隠しきれていない様子だった。しかしそれ以上に、今からサッカーをやれるのだという喜びが、言葉だけでなく表情から、全身から、脈打つように溢れて出ている。

「……ねえ、ひとつ訊きたいんだけど」

 稲森らは凪沙を見た。彼女の表情は真剣みを帯びていて、快活なつくしとは正反対の凪沙に一体何を言われるのかと、思わず身構える。しかし彼女の口から飛び出したのは、予想し得ない言葉だった。

「サッカーは好き?」

 それは圧倒的な、いっそ清々しいまでの、愚問であった。
 スポンサーがおらず、自分たちの学校でサッカーを続ける権利すら奪われた稲森たち。そんな彼らが、まだたった十とそこらしか生きていない彼らが、生まれ育った島や親元を離れてまで、ここ雷門にやってきた。サッカーを続ける可能性を見つけた、そのたったひとつの理由で。これほどの大きな決断を、まだ幼い十一の背中を後押ししたのは、紛れもなく彼らの持つサッカーへの「好き」だった。
 この事情を知っているであろう凪沙が、どのような意図でこんなことを問うたのか、彼らの中にわかる者などいなかった。しかし、彼らは顔を見合わせ、強く頷き合う。

「大好き!」

 一際大きな声と、しかしそれに負けないほどの「はい!」や「もちろん!」や「当たり前だ!」が、ひとつの塊となって大きく弾ける。その声色は、語調は、笑顔は、そこから溢れる自信は、みなぎる力強さは。一種の羨ましささえ感じるほどに、一途なまでの「好き」が籠められていた。少なくとも、凪沙にはそう感じたのだ。
 ここは凪沙にとっても、かけがえのない大切な場所だ。それを大人が決めたことによって、突然現れた見ず知らずの人たちに託さなければならなくなった。事が進めばもう、凪沙のような子どもの意見が反映される余地はない。だから、どうすることもできないと諦めていた。けれど、託すその相手がどうか真っ当で、真っ直ぐで、優しくて、サッカーが大好きで、この場所を大事にしてくれる人たちでありますようにと、願ってもいた。

「……そう」

 ふわり。凪沙の纏うどこか張り詰めていた空気が、張っていた糸から力が抜けてたわむようにやわく弛緩した。その顔はどこか安心したようにも、ほんの少しだけ嬉しそうにも見える。一同と凪沙を隔てていたものが、取り払われるような心地だったのは、きっとどちらも同じだったに違いない。
(よくもまぁそこまで、愚直なくらい純粋に「好き」を突き詰められるものだ)
 それほどまで好きになれることに出会い、追い続けられることがどれほど難しく、凄いことであるのか、彼らはわかっているのだろうか。いや、誰も気付いてなさそうだ。
 凪沙は羽織ったジャージを翻して、空の段ボールを片付け始める。「監督が待ってるから、大谷さんと先に向かってて」と告げれば、一同は慌てたように移動し始めた。しかしその直後、チームの代表にキャプテンマークを渡し忘れていることに気が付き、凪沙もまた慌てて彼らの後を追いかけた。


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