木野の盗み聞き

「木野さんってさ、円堂くんと付き合ってるのかな」

 その話を耳にしたのは、忘れ物を取りに自教室に戻った放課後のことだった。唯一の部活仲間が部室で待っているから、早く戻らなければ。早足で階段を上がり、ようやく教室の扉に手を掛けたところで、聞こえてきた自分の名前に動きが止まった。

「あの二人よく一緒にいるよね。放課後なんて毎日一緒に部活行ってるんでしょ?」
「ね。他に部員もいないみたいだし、部室棟と違ってサッカー部の部室って孤立してるしさぁ、毎日個室に男女で二人っきりとか、ねぇ?」
「やだぁ、学校内でヘンなことしないでほしいよねぇ」
「ほんとにねぇ。部員だってどうせ集まらないだろうし、あんな汚い部室さー、学校の外観損ねるからいっそのこと……」
「ちょっと、やめなってぇ」

 くすくす。そっと潜めた小さな小さな声が、深く深く胸をえぐる。秋は扉の窓から姿が見えないように離れていたが、しかし中の声が届く範囲から抜け出すこともできなかった。聞きたくなんてないのに、この場を離れることも、扉を開くことも叶わない。

 ただサッカーがしたいだけなのに、どうしてこんなこと言われなきゃならないんだろう。

 自分たちサッカー部が、部活動の盛んな、とくに運動部はそのほとんどが何らかの功績を残しているこの学校で、密かに疎まれ始めていることは気付いていた。理事長がどういうわけかサッカー嫌いという噂もある。それでもまるでめげることを知らず、小さな部室前の小さなスペースでボールを蹴って、学校中に勧誘ポスターを貼ったり、声を掛けたりしている自分たちは、妙に目立っているのだろう。
 それでも悪意を向けられるのに慣れているわけじゃない。喉が張り付いたように苦しかった。心臓が厭に萎縮した。自分に悪意を向ける人間が、同じクラスにいることが怖い。そんなわけないのに、まるで味方が誰一人いなくなってしまったみたいに不安で仕方がない。
 だけど落ち込んでいる場合でも、ましてや立ち止まっている場合でもなかった。何かが詰まったような喉を開くように大きく深呼吸し、つんと痛んだ鼻の奥に気づかなかったふりをして。秋はぐっと唇を噛み締めると、意を決したように再び扉に手を伸ばした。……その時だった。

 ────ガァン!!

 思わず肩が跳ねるほどの派手な音に、小さな悪意にまみれた声がたち消える。そのイレギュラーで暴力的な衝撃音は秋を酷く驚かせたが、どうしてか怖いと思うことも、不安を煽られることもなかった。

「……あれ、いけね、倒しちゃった」

 倒れちゃった、ではなく倒しちゃった。と、聞き慣れたその声は紡いだ。不意の大きな音にまだバクバクと騒ぐ心臓を押さえながら、秋は思わずその場にしゃがみこんでしまう。
 間もなくして「……行こ」と悪意を紡いでいたうちの一人が呟き、秋がいるのとは逆の扉から二人が出てきた。彼女たちは秋に気付くことはなく、反対方向へと駆けていく。パタパタと上履きの乾いた音が遠退くと、今度は教室の中からガタガタと、恐らくは倒れた机を直す音がした。
(……私のためなんて、自惚れかもしれないけど)
 それでも、秋はたまらなく嬉しかった。彼女が自分を庇ってくれたのが、味方でいてくれたのが、ひたすらに嬉しかった。
 少しだけ目頭を押さえて、それからしっかり立ち上がる。小さく一呼吸してから、扉に手を掛けた。足はもうすくんでいなかった。

「凪沙ちゃん」

 秋の姿に、凪沙は酷く驚いているようだった。いつもどこか眠たげな瞳は大きく開かれていて、さらには動揺の色が窺える。秋が先ほどの二人のやり取りを聞いていたのか否か、判断しかねているのだろう。秋は後ろ手に扉を閉めると、机を直した名残で立ったままの凪沙の方へと向かった。入学した時からずっと、秋の席は彼女の後ろだ。まだもう少しだけ、席替えがなければいいなと秋は思う。凪沙の視線を受けながら椅子を引いて、引き出しに手を入れた。

「もう帰ってるかと思ってた。何か用事でもあったの?」
「……や、寝てた」
「ふふ、そっかぁ。私は忘れ物しちゃって」

 言って、引き出しからまだ比較的新しいノートを取り出すと、凪沙に視線を合わせた。落ち着きを取り戻したらしい静かな瞳が、秋の心情をどう推し測ったのかはわからない。

「ねえ、」

 秋の方からさらに声を掛けるつもりだったが、それより早く凪沙が口を開いた。彼女は少しだけ躊躇しながらも、まっすぐこちらを見つめ返してくる。

「あのさ、私、そんなに遅くない時間なら暇だから……」
「うん……?」
「だから……なんか、もし、手伝うこととか……あれば、いつでも声、掛けてくれれば……」

 徐々に俯いていく凪沙の言葉は不自然に切れ、待てどもそれ以上続くことはない。ぱちぱちと大きな瞳をしばたたかせた秋は、思わず小さく吹き出した。
 いまだかつて、こんなにもたどたどしい言葉を向けられたことがあっただろうか?
 そのあまりの不器用さが、なんだか可愛く思えてきて、どこか愛しく、そしてこの上なく嬉しかった。秋はたまらず両腕を伸ばしそうになるが、ぐっと堪えて代わりにその手を両手で握る。戸惑う凪沙の手は自分よりも少し温かくて、不意に浮いた雫はぎゅっと目を瞑ることで誤魔化した。

「ありがとう、凪沙ちゃん」

 心の底からの言葉に、凪沙は眉をしかめてとうとう秋から目を逸らす。髪から僅かに覗いた耳は赤く、握られた手は秋が離すまで決して振りほどかれることはなかった。

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