円堂と木野と約束する1

 品性の欠片もない、複数の笑い声。その男子生徒たちは各々手にしていたスプレー缶を、目の前の壁に好き勝手に吹き付けていく。原色そのままの色が無秩序に踊るそれは、到底綺麗とは言い難く、誰が見ても悪意を以てした落書きであった。
 小さく古ぼけた、それでも持ち主たちに大事に大事にされているその壁が、悪意によって醜く姿を変えられていく、そのさなか。

「おい」

 彼らの背に、低い声が掛けられた。







「華那芽!?」
「凪沙ちゃんどうしたの!?」

 某日の昼休み。朝から姿を見せなかった友人が、ようやく教室に現れた。だが喜んだのも一瞬で、円堂と秋は彼女の顔を見て目を見張る──凪沙の左頬には、大きなガーゼが痛々しく貼られていた。

「転んだのか!?」
「別に……や、そう。転んだ」
「違うでしょ! もう、どうやったら顔にそんな傷作るのよ……!」

 秋の細い指が、恐る恐る、壊れ物を扱うようにガーゼに伸びていく。決して触れることはなかったが、労るような仕草だった。そんな彼女の大きな目には涙の膜が張っていて、ゆらゆらと美しく揺れている。今度は凪沙が、ぎょっとしたように目を見張る番だった。

「な、なんでそっちが泣きそうになってんの……」
「当たり前でしょ! 無断欠席で、メールも返ってこないし、それでやっと昼休みに来たと思ったらそんな怪我なんてしてて! 心配くらいするわよ!」

 ──心配? 彼女は私の心配なんてしてくれてるの?
 凪沙はその一瞬、声を出せなくなった。秋の言葉がぐるぐる頭を支配する。理解ができなくて、上手い言葉を返せない。けれど返答を待たれている以上黙っているわけにもいかず、凪沙はなんとか言葉を捻り出す。

「別に、この程度大したことじゃないし……本当に、ちょっとしたはずみで傷作っただけで」
「本当か?」

 今度は円堂から、静かな問いが凪沙に突きつけられた。彼のその真っ直ぐな目で見られると、凪沙はたちまち居たたまれなくなる。円堂の澄んでいて、まるで穢れを知らない瞳が、凪沙は苦手だった。自分の卑小さが浮き彫りになるようで、息をするのさえ申し訳なくなる。
 円堂は凪沙の手を取った。所々に小さな傷があり、絆創膏も貼られている。膝にも青々とした打ち身が出来ているのが窺えた。彼女が喧嘩をしていたことに、気が付いたようだった。

「大したことなくなんてないだろ」

 その顔は、酷く悲しんでいるようだった。すべては分からずとも、凪沙が見抜いてほしくないところを見抜いているようだった。
 ──木野さんだけじゃない、円堂まで? なんで?
 ぎりぎりと、胸の辺りを細い紐か何かで強く締め付けられているような感覚だった。けれど凪沙はこの感覚の正体が何であるのかわからない。わからないけど、どうにかしてそれから逃れたくて、苦し紛れに言葉を吐き出す。

「……わかった、もう喧嘩はしない」
「本当だな? 約束だぞ! 華那芽!」
「わ、かったってば……」
「凪沙ちゃん、小指出して」

 言われるがままに、小指を立てた手をそろりと差し出す。視界に入った自分の腕に、緑色の汚れがついていたのが見えて思わず引っ込めようとするが、それより早く秋は自分の小指を絡めてきた。さらに円堂も、そこに無理矢理自分の小指を絡ませてくる。

「約束!」
「約束だ!」

 やくそく。その四文字が耳を打ち、凪いだ水面に波紋を広げていく。こんなの、ただの口約束だ。わかっている。けれど小指から伝わった二人分の熱は確かに本物で、その温度に凪沙は僅かに顔をしかめた。







 喧嘩を売られることが少なくなかった。
 それは小学校の時の話であり、またその頃に自ら蒔いていた種が原因ではあったが、今でさえ顔を覚えられているのか、なにかその手の輩を引き付ける才覚でもあるのか、絡まれることがしばしばあった。
 しかし彼女は相手にしないことを覚え、火の粉を払うことだけに徹した。自ら関わり、同じ土俵に上がることのなんと馬鹿なことか。だが、それは決して彼女が大人になったからではなく、何をしてもどこか空しくて、何かをするのも億劫で、何もしたくなかったからに過ぎなかった。
 死にたいわけではない。死ぬのは怖いし、死んだら悲しませて、迷惑を掛けてしまう人がいるから。
 けれど例えば、今日突然事故に遭って死んでしまったって別に構わない気がした。むしろどこか、その日を待ち望んでいようにさえ思えた。

 生き続けることは途方もなく大変で、先が見えなくて、難しくて、面倒くさくて、虚しくて、疲れる。
 朝が来たら起きて、ご飯を食べて、学校へ行って、帰ったらご飯を食べて、風呂に入り、夜が深まったら眠る。そして、また朝が来たら起きる。たったそれだけのサイクルをただただ繰り返すだけの毎日に、何の意味があるのだと思ってしまった。
 こんなことを考えるのは、自分がとてつもなく暇人であるからなのだと、わかっていた。生きるだけで精一杯であれば、こんなどうでも良い思考に裂く時間なんてない。自分は恵まれているから。健康で、必要な分のお金があって、毎日ご飯を食べられて、学校へ通えて、帰る家があるから。恵まれているから、こんな贅沢が言えるんだ。
 それでもふと考えてしまう。こんな自分が生きているのに、心の底から生きたいと望んでいても死んでしまう人はいる。どうしてだろうか。その人たちに寿命を分けてあげられたら良かったのに。私なんかよりよっぽど上手く使えるはずなのに。そう考えずにはいられなかった。
 無論そんなことはできるはずもないから、彼女はせめて、なるべく楽に生きようとしていた。大変なことはせずに、苦しいことには触れずに、嫌なことは回避して、極力何にも関わらずに。

 そのはずだったのに、何故だろうか。

 もう二度と、誰かに自ら関わったりしないと決めていたのに。余計な波風を立てたり、首を突っ込んだりしなければ、楽だったはずなのに。"それ"を見過ごせなかったのは、どうしてだろうか。何度自分に問い掛けても、彼女は一向に答えにたどり着くことができなかった。


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