綱海とふたり青の世界
運動は嫌いではなかったけど、たくさん動くのが苦手だった。走るとすぐ苦しくなってしまうから。さらに長く走ると、胸の中が痛くなって喉から血のような味がして頭がくらくらして足がふらふらするから。
母さんにごめんね、と謝られたことがあった。別に、人には個人差ってのがあって、だから私の体力が人より少ないのは何も特別なことではないし、全然母さんのせいじゃないのに。
それでも休み時間に元気にドロケイやドッジボールをしてる他の子たちを見ると、少し羨ましくなる。私はすぐに疲れてしまって、楽しむ余裕なんてなくなってしまうから。だけど人には分相応の生き方ってやつがあるらしいので、仕方ないと割り切っていた。私には他にきっと、羨ましがられるところがあるから。それを大事にすればいいんだ。なんて、その「羨ましがられるところ」なんていまいちわかってもないのに漠然とそう思って、どうすることもできない「いいな」って気持ちを押し込めた。
つまり私は、このままでいいと思っていたし、どうこうするつもりだってなかった。
……なのに。
「早く降りてこいよー!」
「……」
前方で笑う従兄の条介くんは、こちらにブンブンと手を振っている。その度に四方八方にびしばしと水が飛び、広い天井から差し込む朝日に反射してきらきらと光っていた。
私が泊っている沖縄の綱海家から、自転車で10分。途中、長い道のりと肌を刺す暑さで私の体力が尽きて、休憩を挟んだから実質15分。幼稚園の時に頑張って練習して漕げるようになった自転車だけど、自分のものを沖縄まで持ってきているわけもなく、条介くんのお古を借りてきた。黒と青の、男の子に人気そうなやつ。前かごが少し歪んでいるその自転車は、ハンドルの付き方もサドルの高さも全体も重さも自分のものとは違って、全然慣れていないから余計に疲れが溜まってしまったのかもしれない。
朝早く、条介くんと二人で家から出発して、慣れ親しんだ道でペダルを踏み、それなりに活気的で店の多い街並みを抜けて、セミの鳴き声を聞きながら立ち並ぶ古民家やらを見送ってあぜ道を通り抜けて、ようやくついた少々辺鄙なところにあったそれは、古ぼけた小さな温水プール施設だった。平日の早朝とは言え、私達以外にお客さんが一人もいないので、あまりにも経営が心配だ。次来た時には潰れてそう。
「ほんとにやるの……」
「たりめーだろ、そのために来たんだからよ〜!」
「でもさ〜……」
「だ〜いじょうぶだって、ここ浅いし、それに俺がいんだからよ、ぜってー溺れるこたぁねーから!」
長く走るのが苦手で、泳ぐなんて以ての外。第一、昔行ったプールで盛大に溺れて以来、一度も泳いでなんかいないのに。だから小学校に上がってから問答無用で買わされたスクール水着以外に、自分用の水着なんて買ってなかったし、そもそもあっても持ってくるつもりもなかったから、今着てるのは昨日条介くんに無理やり連れられて買いにいった水着だった。条介くんが適当に勧めてきたピンクのフリフリのやつを一刀両断して、代わりに選んだ青の無難なやつ。
条介くんに倣って準備運動もしたし、一応準備は万端だけど、どうしても私は水の中に飛び込む勇気が出ない。
「……ねえ、家のもっと近くにもプールってあったよね」
条介くんは私が入ってこないと納得しなさそうな雰囲気で──そりゃ海ならまだしも、温水プールに来て泳がず帰ろうとする人間もきっと私くらいだろうけれど──少しでも時間を稼ぎたくて、余計な話を切り出してみる。無駄な悪あがきだってわかってはいるけど、まだ心の準備が足りない。海自体は好きでも、海で泳いだり波に乗るのが大好きなそこの従兄と違って、私は水に入ることには苦手意識しかないのだから。
「おう、でもいくら平日でも、夏休みじゃガキがいっぱいだろ?」
「自分もガキなのに……」
「お前、人がいない方が落ち着けると思ってさ! 人気ないとこ探したんだ!」
「……、」
口を開けば海が波がといった具合で能天気な人だけど、条介くんは何も考えてないわけじゃないことに、気付いたのは最近だった。彼は案外周りを見ているし、気を遣うことだってある。私よりたった一つ年上なだけなのに、条介くんには私よりずっと多くのことが見えている。そういうところ、すごいな、と思う。
私は俗に言う人見知りってやつなものらしく、初対面の人とはあまり上手く話せたことがない。だからここに来て、私たち以外に誰もいなかったことに、本当は少し安心していた。
「凪沙ー!」
私の名前を呼んで、手招きする条介くんは心から楽しそうだ。いつまで経っても渋っている私に、嫌な顔一つ見せない。早く行かないと。私だって本当は、泳げるか泳げないかって言ったら泳げるようになりたい。でもやっぱりどうしても我が儘で、勇気が足りなくて、プールサイドにしゃがみこんだまま動けない。
きらきらと光る水面に、視線だけ泳がせる。魚みたいに自由に泳げたら、きっと楽しくて気持ちいいんだろうな。
「うおっ!?」
「!?」
突然、そんな声がして。派手な水音とともに条介くんの姿が見えなくなった。透明な水の表面がぼこぼこと暴れている。その下で、ピンクと褐色の影がごちゃごちゃと苦しそうにもがいているのが見えた。
「条介くん!」
ぱっと立ち上がって、なりふり構わず足からプールに飛び込めば、ばしゃりと水飛沫が舞う。それを置いていくように、泳ぎ方もわからないけど、とにかくばしゃばしゃと重い水をかき分けて条介くんの元へ。子どもの私でも胸下くらいまでの深さだったけど、飛沫を顔に浴びてせき込んだし、目に独特で嫌な水が入って痛い。だけど私は、彼の前へたどり着いてすぐに、大きく短く息を吸い込んで、ざぶん! と迷いなく水の中に潜った。
「────、」
ゆら、ゆらり。少しエメラルドを混ぜたような、青色の世界。視界を埋め尽くす水泡の量が減って、その形が露わになる。
美しい泡に包まれた、柔らかなサンゴのような髪がたおやかに揺れていた。私を待っていたみたいにこちらを見つめる黒い瞳が細くなって、条介くんはニイッと楽しそうに笑う。つり上がった口の端から細かい泡が少し漏れた。
大きな手のひらが、ゆるやかにこちらへ伸びてきて、私の手首を安心させるように優しく、しっかりと掴む。視界の端で、自分の髪も悠然と揺れているのがちらついた。頭上で美しく波打った水面の、その裏面が見える。底に反射した光がとても綺麗。条介くんのオレンジの水着の裾が、ひらひらと泳いでいる。
遠くで反響して、広さを感じさせる、ぼこぼこと籠ったような、けれど透き通った音。他の一切のものがすべて遮断され、ここは私達しかいない特別な世界。全身が冷たいけれど、ちっとも不快ではない。こんな美しい世界、きっと地球上のどこを探してもここにしかないと、そう思わされる。
もっとここにいたい。そう思った矢先に、ごぼりと大きな音がして、口の中に一斉に水が押し寄せた。それとほぼ同時にぐんと腕を引っ張られ、それにつられてふわふわと浮いていた足で地面を強く蹴ると、一気に体が浮上した。
大きな音を立てて、視界が一気に開ける。眩しい、広い。何もなくてすかすかする。耳が水圧から解放される。酸素がある。心臓がばくばくしてる。目が痛い。プールサイドに両手をつき、何度もせき込んで、だけどそれ以上に吸い込みたくて喉と肺が忙しい。顔から髪からぼたぼたとこぼれ落ちる雫。濡れた水着越しに、背中をさするあたたかい手。
「おっま、えなあ! 限界なら上がれよ! 足余裕でつくんだから!」
「げほっ! ごほっ! ハアッ、ハアッ……!!」
苦しい。苦しくて苦しくて、だけど、怖くはない。条介くんのおかげだろうか。それとも。
少しして、呼吸が整う。水を飲んだりしなくてよかった。鼻の奥に水が入って痛いけど、そんなに嫌じゃない。
「……条介くん」
「ん?」
条介くんは心配そうに眉根を寄せて、こちらを覗き込んでいる。普段はライオンのたてがみのように大きく跳ねた髪が、完全に水を吸ってぺたりと下がっていた。
「水の中って、綺麗だね」
条介くんは、私の言葉に少し面食らった後、「だろ!」と眩しく笑った。私も、それにつられて笑いが溢れた。肩を揺らす度に、私と条介くんの髪の毛からぽたぽたと澄んだ雫が落ちていく。額に張り付いた前髪を指で分けながら、私たちが騒いだ名残で揺れている水面に、また視線を落とした。
「……ねえ、泳ぎ方教えてよ。それで、今度また海に連れていって」
「お、そうこなくっちゃな!」
「でも、次、溺れたふりなんてしたら蹴り飛ばすから」
「おー怖え怖え!」
back
topへ