転入生の剛陣くん
「あー!! お前!!」
剛陣の怒号にも似たその叫びは、教室の隅々に届き、跳ね返り、彼のもとに戻ってくるほどに響き渡った。「いなか島」なんて空耳されるほどの、無名のサッカー部出身ではあるものの、小さな頃からサッカーのために鍛えてきた体から捻り出されたその声は、クラスの生徒の大多数を威圧するには充分だった。
「なんだよお前〜同じクラスだったのか!」
「ど、どうした剛陣、知り合いでもいたのか」
クラスの様子や、戸惑い気味に声を掛ける担任に気付かないほど興奮しているのか、剛陣は今度はどこか楽しげに手を振り出した。それを一身に受けている彼女───華那芽凪沙は、心底不愉快そうな表情を、教科書を立てることで露骨に隠した。……否、己の顔を隠すというよりは、己の視界から剛陣をシャットアウトした、と表現したほうが圧倒的に正しかった。
頼むから空気を読め、察しろ、そんな凪沙の切なる願いも届くことなく、「華那芽! 俺だ俺俺! 剛陣だよ!」と名指しまでされてしまったものだから、とうとう打つ手もなくなる。
「華那芽さんあの怖い人と知り合いなんだ……」
「えーなんか意外」
「そうか? アイツの一年の頃知らねーの?」
───ちくり、ちくりと、小さな好奇や畏怖、あるいは僅かな悪意が凪沙一人に無遠慮に突き刺さる。小さな声が幾重にも重なり、教室内に充満していく。別にこんなことは慣れていた。傷つくなんてことはない。だが、居心地が悪いことに変わりはなかった。
誰より大事だった円堂と秋は、日本のサッカーのため、なんて中学生には荷が重すぎる使命を背負って、この雷門を去ってしまった。サッカー部を通じて、いつの間にか気の知れた仲になった他の部員らも、皆別の中学へ転校してしまった。一年や二年の時にクラスメイトとして知り合った大谷や桂木たちなど、友人と呼べる人物はまだ学校にいるものの、元々社交的ではない凪沙の、数少ない友人の殆どがいなくなってまったのは、紛れもない事実だった。
味方でない人間が全員敵というわけではない。しかし、何でもない人間が、決して味方というわけでもないことを、凪沙は身をもって知っている。
「あの人ってナントカ島からここのサッカー部目当てで来た、集団転校生の一人なんでしょ?」
「えー雷門のサッカー部は円堂たちだけでしょ。肩書き目当てってこと? なんか嫌なんだけど」
「まさか華那芽さんが引き入れたりしたの?」
「華那芽さんが? 仲良かった円堂くんたちの代わりをあっさり認めたの? うわ尻軽じゃん」
「どれくらい強いのか知んないけど、田舎者が雷門の顔に泥塗らないでほしいよな」
「転校生っていうからイケメン期待してたのになぁ」
「二年にはかっこいい人いるって噂だよ」
「うわはずれ引いちゃったよ」
「はは、やめろって」
空気が淀む。まるで泥水の中を泳いでいるみたいだった。一人が喋れば誰かが続き、誰かの声でかき消されるだろうと次々に喋り始める。一つ一つはほんの小さな声でも、澄まされた耳は余計な言葉を次々に拾っていく。聞かなければ、ただのざわめきで終わったことを、掬い上げていく。
それがつもり積もって、とうとうその山は崩れた。
───バン!!
ビリビリと振動が空間をつたい、肌が痺れるようだった。それはクラスメイトや担任、そして、振り上げた手のひらを今まさに机に叩きつけようとしていた凪沙の動きを、止めた。
「……なんっか感じ悪ィなぁ」
その空気を打ち破ったのは、剛陣だった。拳を後ろに振り切り黒板に叩きつけた彼は、眉根を寄せ、その強面の迫力をさらに加速させている。
教室の全員が、彼に視線を集約させた。全ての人間が、彼の気迫に惹き付けられていた。
「まあ、どこぞの馬の骨とも知れねー奴らがいきなり来て、そう簡単に大人気だったサッカー部の代わりと認めてもらえるとは思ってねーよ。だけど、」
以前に仲間が言っていた台詞をそのまま借り、彼の弱気な発言に今さら喝を入れるように、剛陣は息を大きく吸い込む。
「俺たちはぜってーフットボールフロンティアを勝ち進む! でもって優勝してやる! だから全員、俺たちを見ててくれや!」
ドン、と力強い親指が、剛陣自身の胸を叩いた。驚愕と、どこか畏敬の念を孕んだような視線が、空気を伝って教室前方の彼へと渡る。
彼を見るすべての目が、空気が、変わった。
(……なんだ、結構やるじゃん)
人の心をこうも容易く動かせる人間など、早々いない。にも関わらず、剛陣はそれを簡単にやって見せる。それは本当にすごいことだと凪沙は思う。
彼が何もしなければ、何も気付いていないほどに鈍感であるのなら、凪沙がやるつもりだった。波風立てるのは面倒くさいと、直接危害が加えられそうになった時だけ動けばいいと、そう思っていた頃からはもう随分と月日が経った。
私は、私の大切な人と、大切なものを託した人の味方でありたい。
「つーわけで、これからよろしくな! あっ華那芽! あとで校舎案内してくれよ!」
「……はいはい」
二人のやりとりに担任があっ、と小さく声を漏らし、そのまま口をつぐむとうんうん満足そうに頷いた。恐らくは元々、校舎の案内を知り合いであるらしい凪沙に一任するつもりだったのだろう。凪沙もきっとそう来るだろうと思っていた。そしてそれを断る理由など持ち合わせていない彼女は、壊滅的に空気の読めない──あるいは敢えて読まなかったのか──剛陣への呆れと諦めを籠めながら、頷く他なかった。
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