一星光は夢の中
「ここにはそろそろ慣れた? 困ったことがあったらまあ、いつでも声掛けなよ」
──これは夢だ。
「あの……実は授業でわからないところがあって」
「ふうん。じゃ部活終わりにでも、寮のラウンジで教えてあげる」
そう言って俺の頭をわしわしと適当に撫でつける凪沙さんは、穏やかな表情にやわらかい声色をしていた。俺のことを親しい後輩のように、あるいは……弟かなにかのように接してくる、やさしい凪沙さん。撫でられるがままの俺を見て、どこか満足げに微笑んでいる。
──俺にとって都合の良い、夢のような夢だ。
「せっかくだし夕飯も食堂で一緒に食べる?」
「あ、はい、是非!」
「今日の日替わり、ビーフストロガノフだよ。私も手伝ったから」
「わあ、楽しみだなあ。凪沙さんの料理、久々です」
「だろうね」
お腹は空いてなかったけど、かつて食べたあの味を想像するだけで口の中が喜んだ。俺は凪沙さんの作る料理が、遠い昔の思い出には敵わないけれど、多分、世界で二番目に好きだった。オリオンの施設で与えられていた、体に良くて味も素材も良い食事よりも。どこかの高級レストランよりも、なじみ深いファストフード店よりも。俺の愛した料理に一番近い、やさしい味だったように思う。
廊下の白い壁の、閉塞感を与える嵌め殺しの窓から、差し込んだ白い光が凪沙さんを照らしていた。周囲の人たちはなんだか薄ぼんやりとしていて、彼女だけが唯一はっきりと視認できる。
凪沙さんは当然のように、王帝月ノ宮の少し堅苦しい制服を身に纏っていて、正直それが、前に見たことのある雷門中の制服よりも似合っており、綺麗だと思った。ダークグレーのシャツも、きちんと締められたブラックのネクタイも、清潔感を与えるホワイトのブレザーも。とても格好良く着こなしていた。男子用のスラックスと同色のスカートから伸びる足は、大会でマネージャーを務めていた時と同じ、白いハイソックスに包まれていた。
「じゃあ私教室戻るから。また後でね」
「はい、また」
サラサラの髪の毛を翻して、凪沙さんの白い背中が遠ざかっていく。「また」のあとに続く言葉が「今度」じゃないことの喜び。またすぐに会えることの嬉しさが、どうしようもなく心を満たす。
「あ、そうだ。今日の部活は雷門中と練習試合だってー!」
「え!? 聞いてないですけど!?」
「さっき決まった!」
離れた位置から声を上げる凪沙さんが笑い、そして今度こそ俺の前から去っていく。朝練の時、野坂さんが新しい練習メニューを編み出したから今日の放課後はそれを行うと言っていて、隣で西蔭さんが青い顔で変な色のアイスを食べていたから。急すぎる予定変更に本当に驚いたけれど、また共に世界を相手に戦った仲間たちとサッカーができるのが嬉しくて仕方がなかった。
いつの間にか、食堂にいた。部活での練習試合は、とても楽しかった気がする。よく覚えていなくて、残念だった。
「美味しかったぁ」
「よくあんなに食べられるね」
「運動した後はお腹減るんですよ」
「まあ、そりゃそうか」
アハハと目を細める凪沙さんは、テーブル中央に置かれていたペーパーナプキンを一枚取ると、突然俺の口元に押し付けてきた。がしゃがしゃと乱暴に拭われるこの感覚に、遥か昔の記憶がつつかれる。ひかる、と誰か幼い声が、俺を呼んだ。
「世話の焼ける」凪沙さんはまだ笑顔を絶やさない。隣のクラスの、誰かが可愛いと噂をしていた女子のそれみたいな、明るくやさしい笑顔とよく似ていた。凪沙さんのその顔はとても可愛らしくて、だけどなんだか、違和感が心の端に居座っていた。これさえ消えてくれたら、俺は何一つ疑うことなく、とても幸せなのに。
視界が一変した。ぐるりとぶれて、俺たちの住む寮のラウンジの、綺麗なソファに座っていた。無機質な白いテーブルに、俺のノートと教科書が広げられている。隣には凪沙さんが、ほとんど距離を開けずに腰を落ち着けていた。
「どこが分からないって?」
教科書を覗き込む凪沙さんの、髪の毛から清涼感のある良い匂いがして、なんだか心臓が変な心地を覚えた。女の人ってみんなこうなんだろうか。クラスの女子とも普通に話したりはするけど、こんな風にパーソナルスペースに入れるほど親しくはないから、わからない。
解けなかった箇所を指差すと、凪沙さんはぐっと顔を近づけて、顔の横に落ちてきた髪を指で軽く押さえながら、問題を黙読した。それから俺の用意したシャープペンシルを白い手で取り、ノートの隅にサラサラと解法を綴っていく。なんだか数字や英字が並んでいたけれど、よく読めなかった。
「これ、この公式使って解くやつね」
「ああ、なるほど!」
文字もよく読めない目なのに、俺はなんだか妙な納得感と共にノートにペンを滑らせる。凪沙さんは教えるの上手いなあなんて漠然と思った。二つも下の学年の授業なんて、造作もないのかもしれないけど。
ここの授業は本当に難しくて、多分他の学校よりもずっと進んでいて、編入したばかりの俺はついていくのが大変だった。オリオン財団に所属していた頃も、サッカーの技術は勿論だが、一定の教養のための勉強も義務づけられていた。けれど王帝月ノ宮の授業は全国でもハードルが高く、学力においては全国一位を誇る帝国学園には劣るものの、かなり高い位置にあった。俺は記憶力や分析力には自信があるけれど、それとこれとは話が別だ。
「もうすぐ定期考査か。はーやだやだ」
「やっぱり凪沙さんも嫌なんですね」
「好きなわけないじゃん、面倒くさい」
「俺は、勉強は好きですけどね」
「随分と殊勝だね」
「大抵の分野は苦にはならないからよかったです。ロシア語もかなり勉強大変だったし……」
「まあ、今後も生きる知識だから」
「そうですね。ロシア語、必要になったら今度は俺が凪沙さんに教えますよ」
「そん時は頼むわ」
適当に視線を飛ばしながら薄い笑みを浮かべた凪沙さんを、横目で盗み見る。やっぱりモノトーンの制服はとても似合っていて、だけど本当は、ネクタイを上まできちっと締めた今の姿より。あの動きやすそうな雷門中の制服を、彼女が自分の好みに着崩したその姿のほうが、ずっと彼女らしいと、思っていた。
「こうしてると、同じ学校の先輩後輩みたいですね」
「何言ってんの。同じ学校の先輩後輩じゃん」
「あはは、そうでした」
編入先を王帝月ノ宮に決めたことに迷いはなかった。世界大会を経て生まれた、野坂さんへの恩と敬慕。そして、そんな彼を傍で支え続ける西蔭さんへの憧れ。俺は誰よりも、彼らとまだサッカーを続けていたい。それらを覆すほどの他の要因は、他校にはなかった。
だけどもしも、俺が雷門中に入学を決めていたらどうなっていただろう。
キャプテンとして俺たちを率いてくれた……俺のことを、仲間だと信じ抜いてくれた円堂さんを筆頭に、風丸さんや豪炎寺さん、鬼道さん……そして他の雷門メンバーの面々と、またサッカーができる。俺はずっとロシアにいたからあまり詳しくは知らないけれど、伝説とも呼ばれるべき快進撃を続けた雷門の人たちと、チームメイトとしてサッカーができる。とても素晴らしく、光栄で、誰もが羨むことだと思う。あまりにも楽しそうで、心が躍る。
そして、一年生と三年生、ほとんど一緒にいられる時間もないけれど、それでも。廊下でたまたま会ったり、それで立ち話をしたりだとか。一緒にご飯を食べたり、部活に向かったり。こうして勉強を教えてもらったり、くだらない話で盛り上がったり。そんなことができたのだろうか──彼女と。
雷門の制服は、王帝と対照的な学ランスタイル。肩の稲妻マークは、校名によく合っていた。それを着ている自分を、少し想像してみる。うっすらと濃紺の混ざった布だから、髪の毛と合わせて全身青黒いな、なんて思った。学ランも昔から少し憧れがあったけど、うん、やっぱり俺には王帝の制服が似合っている。
学年どころか、学校さえ違う。滅多に会う機会も無い凪沙さん。夢の中でくらい会いたいとか、そんなロマンチックなことを思ってしまうくらい、俺は彼女を恋しく思っているのだろうか? たぶん、そんなことはない。はず。ただ、わずかな期間だったけれど、それでも彼女は俺の日常の中に居るのが当たり前だと思ってしまうくらい、溶け込んでいたから。そんな日々が本当に楽しくて大切で、それがとうとう終わってしまったのが、なんだかとても口惜しかったから。
だけどやっぱり違うんだよなぁ。やさしく声を掛けてくれて、親切で、こんなにたくさん可愛らしい笑顔を見せてくれる彼女なんて、彼女ではない。俺はやっぱり、不愛想で、クールで、つれなくて、だけど面倒見が良くて、素っ気ないフリをしてるくせに俺を放っておけない、そんな凪沙さんが良い。
「凪沙さん」
「なに?」
「起きたら久しぶりに、電話とかしてもいいですか」
「……好きにすれば」
夢の中の凪沙さんはいつの間にか不愛想になっていて、だけどほんのわずかに口元に微笑を浮かべていた。それは確かに、俺の好きな彼女の笑顔だった。
5周年フリリク/夢主が一星に勉強を教える
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