アポなし旅と目撃者達

「は?」

 部活が終わり、ようやく家に帰ってきたと思えば玄関には見慣れないメンズスニーカー。隣にある自分のサンダルよりずっと大きいそれは、片方ひっくり返っている。普段から左右きちんと揃えておく父親のものではないことの裏付けだった。そもそも彼は今日この時間、まだ帰ってこないはず。つまり、この家の奥に今、家族以外の誰かが、いる。
 本来なら奇妙なこの現象にゾワリと背筋が粟立っただろうが、凪沙の頭にはある一人の顔が浮かんでいた。まさかと思い早足でリビングへ向かえば、彼女の予測通り──そこには従兄の綱海条介が、我が物顔で凪沙の定位置の椅子を陣取っていた。

「よっおかえり!」
「いやなんで?」

 至極軽い返答に能天気な笑顔。たてがみを彷彿とさせる珊瑚色の跳ねた毛束は、高校に入って少しだけ短くなっただろうか? いや、そんなことはどうでもいい。問題は……

「普通本当に来る? っていうかなんで勝手に上がってるわけ? 鍵閉めたはずなんだけど」
「ずっと前に親父さんから合い鍵貰った」
「は〜!? 初耳なんだけど何してんだあの親父……っていうか条介くん学校はいいの? いつ帰んの?」
「土〜日〜創立記念日、と一日サボり」
「馬鹿……」

 確かに先日電話口で、今度こちらに寄るとは言っていたけれど。本当に、しかもいくら従兄妹とは言えアポなしで普通来るか?
 丁寧に四本指立てて笑う綱海に、ため息が漏れる。余計な疲れが溜まったような気がした。諦めたように鞄を下ろして洗面所に向かうが、綱海は構わずその背中に話し掛ける。

「ここまで来るのすげー大変だったぜ」
「ああ、飛行機嫌いだもんね」
「あれァにに人間の乗るモンじゃねェよ……」

 思い出したように顔を青くする綱海。フェリーや新幹線を乗り継ぐと、短い旅程がさらに切羽詰まったものになってしまうから仕方がないと言えばそうだが、苦手な飛行機に乗ってまで来るそのパッションは一体どこから湧いて出るのか。
 手洗いうがいをして、ついでに靴下をカゴに入れる。綱海を置いて、着替えを取りに行くため二階の自室へ。今日は気温も高くて汗が不快だったから、夕飯作りの前に風呂に入ろうと思っていたのに、従兄とはいえ異性の彼がいる手前妙にやりにくかった。
 一階に下りると、何故だか食欲の端っこをつつかれる匂いが鼻をくすぐった。──今日は帰ってから適当に冷しゃぶでも作ろうと思って何もせずに出掛けたから、犯人は条介くんしかいない。

「おおそうだ、適当にメシ作っといたぜ」
「ちゃっかり自分の分まで……」

 キッチンを覗けば、火にかけられた片手鍋には、大きめかつ不揃いに切られた具材がゴロゴロ入った味噌汁が。大きな洋皿には、もやしとウインナーを使った大量のゴーヤチャンプルーが。それから、すでに火の通されたアジの開きにはラップが掛かっていた。
 綱海は特別料理上手というわけではなかったが、父親が漁師をやっている影響で魚料理に関する腕前はそれなりのものであったし、過去に凪沙が沖縄の綱海家で過ごしていた時は、たまに拙いながら大皿料理を振舞ってくれたこともあった。
 とはいえ、こちらにも献立の都合というものがあるのだが……まあ、消費期限が今日までのもやしをしっかり使ってくれていたのは、褒めてやろう。

「あのさ、温め直してもらってるとこ悪いけど私先にシャワー浴びてくるから」
「お? そうか。じゃ待ってるわ」
「別に先食べてていいけど……」
「いーじゃねーか、たまにはよ」

 ふつふつと温度の上がってきた味噌汁の火を消して、蓋を閉める綱海。褐色の頬を持ち上げて、ニカリと快活に笑う彼は何がそんなに楽しいのだろう。ただ、従妹と夕飯を一緒に食べるだけだ。でも……他人が作った料理を食べるのはそれなりに久しぶりだから、凪沙も少し、口元が緩んでいることを自覚してはいた。
 綱海は時間を潰すため、再びダイニングチェアに座り直してテレビのリモコンに手を伸ばした。座面に行儀悪く片足を立てつつ、適当にチャンネルを回しているのを見届けて、凪沙も風呂場へと向かう。

(押し入れから布団出して……あと、一応父さんにもメールしとこ……)

 夕飯をとってからのことを考えながら、脱衣所の扉を閉める。マネージャー業の際に着ている学校指定のジャージ上下を脱ぎ、ズボンのポケットに入れていたティッシュをしっかり取り出す。それから中に着込んでいたTシャツも洗濯カゴに入れたところで、背後からガチャリと音が鳴った。

「そういや凪沙ー、明日って」

 綱海の言葉はそこで途切れた。無遠慮に扉を開けた彼の腹に、鋭い蹴りが華麗に決まる。うごぉと醜い悲鳴を上げて転がる綱海をよそに、下着姿の凪沙は強めに扉を閉め直した。

「訴えんぞ」
「ってえ〜……! んな怒ることかよ、水着みてーなもんだろ……」
「全く違う」

 扉越しに聞こえてくる不満げな声に、ため息を零す。本当に、彼は何も気にしていないのだ。下着なんて水着と同じだろ? 小せえ頃は一緒に風呂だって入ってたじゃねーか。第一従妹おまえのハダカなんて興味ねーっての。そんな具合に。
 しかし十年前ならいざ知らず、中三と高一だぞ? それでもなお気にする様子もなく、彼は人前でもベタベタと接近してくるのだ。昔からまるで変わらないことに、呆れればいいのか、いっそある種の安心でも覚えればいいのか。

「それでよォ、明日はサッカー部休みか?」
「……ああ、まあ。大会中だろうと無休じゃブラックだしね」
「じゃあよ、せっかくの日曜なんだから出掛けようぜ!」
「言うと思ったわ……」

 肩から力が抜けた。明日は一日家でゆっくりする予定だったが、ここで断っても彼に振り回される未来は変わらないだろう。凪沙は諦めたように「はいはい」とだけ返した。







「ああっ!!」

 人の多い街並みに、妙にソワソワと浮足立った集団が一組。そのうちの一人──稲森が突如声を張り上げたことに、左右を歩いていた氷浦、万作、のりか、剛陣の視線が一斉に集まった。

「なんだよ、急にどうした明日人」
「あれあれ! あれだって! ほら!」
「アレアレ詐欺か」
「違う! 凪沙さんが!」
「えっ凪沙さん?」

 その名前に真っ先に食いついたのは、顔を明るくさせたのりかだ。彼女はサッカー部の中でも貴重な同性同士、さらにクールで強い彼女に、親愛と憧れを感じていた。
 そののりかが稲森の視線の先を追うと、弛緩させていた表情が見る見るうちに驚愕に染まっていく。

「凪沙、さん、が……」

 徐々に尻込みしていく声に、他のメンバーもなんだどうしたと彼女の視線の先を見る。そこにはマネージャーを務めている凪沙の、初めて見る私服姿があった。そのおかげもあってか、どこか力を抜いたやわらかい雰囲気に見える。そしてその隣には、見慣れない長身の男──綱海を連れていた。
 稲森は驚きを滲ませ、氷浦はホウと興味深そうに目を見張り、剛陣は腕を組んだまま首を傾げ、万作は何故か照れたようにキャップの鍔を少し下げ……

「か、かか……彼氏とデートしてる!?」

 ほとんど誰もが思ったことを、のりかが誰より早く、大きく、叫んだ。周囲のギャラリーの目が一瞬集まり、万作と稲森がギョッと目を見開くも、幸いすぐに視線は散る。わなわなと震えるのりかに、剛陣がいびつに眉を歪めた。

「いやぁ、別に彼氏って決まったわけじゃねーだろ」
「えーっだってあの! クールで美人で高嶺の花の凪沙さんが!」
「そこまでじゃなくねぇか?」
「先輩うるさいです! じゃなくて、その凪沙さんが男の人と出掛けてるんですよ!? ぜーったい! 何もないわけないですって!」
「そうかぁ……? 俺にはあんまりそう見えねェっつーか……」
「フム、ここは僕の出番のようだね」

 氷浦がどこからともなく取り出した虫眼鏡を、無意味に宙にかざした。拡大対象がない以上、完全に役作り、雰囲気作りのための小道具といった存在意義だ。一人称まで変え、妙にうきうきと心を踊らせているように見えた。

「まず第一に、のりかくんが言ったようにホシが気軽に異性と出掛けるとはなかなか考えにくい」
「いやホシって容疑者扱いじゃん……」
「そもそも彼女は、あまり他人と距離を縮めようとはしないきらいがあると思われる。つまり二人きりで出掛けるということは、ある程度深い仲である可能性が高い」

 指先でなめらかに虫眼鏡を弄びながら、つらつらと述べる氷浦はそれなりに様になっていた。元来容姿が整っているだけに、通りがかる同世代の女子の視線がちらちらと彼の方に向いており、何故か関係のない万作が居心地の悪さを感じていた。

「そして……明日人くん。何が見えるかい? 説明してみたまえ」
「え? 俺? いや……凪沙さんの手元を、後ろの肩口から男の人が覗き込んでる……?」
「そう。あれは俗にいうパーソナルスペースに入っている距離だ。しかも、その中でもとくに近い近接距離……」

 氷浦は髪色と同じブルーの柳眉を吊り上げ、そっと目を伏せる。そして中性的な顔立ちとは裏腹に、しっかりとした男子らしい手をそっと顎に添えた。

「人は本来、それなりに仲の良い相手でもあそこまで近付かれると、ある程度不快に感じたり無意識に拒絶したりするんだ」
「えー? 私たち別にそんなことなくない?」
「俺たちは成長してきた環境上それが狂ってるから……じゃなくて、そう、つまりだ。あの男はホシにとって、かなり深い関係性であるということさ」

 自信ありげな氷浦の言い分には、充分な説得力があった。改めて凪沙と綱海の様子を見ても、随分と物理的な距離が近く親し気であり、凪沙の性格に鑑みてもただの友人関係とは到底思えなかった。実際のところは友人でも、まして恋人関係でもなく、従兄妹同士であるのだが、彼らがそれを知るすべはどこにもない。

「まっ、気になるなら聞いてみりゃいいじゃねーか。おーいムグッ!!」
「ちょっ! デリカシーないんですか剛陣先輩は!?」
「むぐっ……もがっ……」

 可愛らしい見た目からは想像もつかない程度には鍛えられた腕に、口と鼻を覆われた剛陣。「のりか、先輩が窒息する」「あ、ごめんなさい」「ぶはぁっ!!」万作の助けにより一命を取り留めた。

「凪沙さんモテそうだとは思ってたけど……本当に彼氏がいたんだ……」
「モテそうかぁ? 俺にゃよくわかんねーな」
「剛陣先輩見る目なさすぎ! だって凪沙さん美人だし、可愛いしクールでかっこいいし、やさしいし、実際他校の男子ともよく喋ってるじゃないですか! 試合のたびに!」
「ありゃ雷門から派遣されたって奴らだろ?」
「そうだとしても〜! 絶対あの中に凪沙さんのこと気になってる人いますって! 絶対狙ってる人いますって! ね、明日人!」
「えっ、い、いや、さ、さあ〜……」
「ね、万作!」
「お、俺に振るなよ……!」
「何赤くなってんの! ね、氷浦!」
「確かに凪沙さんは素敵な女性だからね」
「さっすが分かってる〜!」

 さらりと言ってのける氷浦の背中をバンバン叩くのりか。手加減はしているものの、その度に衝撃で氷浦は小刻みに揺れていた。

「あの人年上かなあ、背も高いし……万作くらい? いや、もっと大きいかも……しかもイケメンだし! う〜〜〜ん二人並ぶと絵面が良い……!!」
「そうかぁ……?」
「ひと気が少なくなってきたら恋人つなぎしたり、路地裏でこっそりハグしたりするのかなぁ!?」
「少女漫画の見すぎだよ……」
「そういやつくしさんから何か色々借りてたな」
「はあ〜、っていうかこれからどこ行くんだろ……デートと言えばやっぱり遊園地とか!? 水族館とか!? ショッピングもアリだよね……!!」
「おいおい、まさか尾行する気じゃないだろうな」
「えっ!? むしろしないの!?」
「あのなあ、せっかく新しい街に来たんだからってことで、これから色々散策する予定だっただろ。それに凪沙さんのことだ、多分……途中でバレそうじゃないか?」
「う……確かに……バレて嫌われたらイヤだし……」

 万作の正論に、のりかは残念そうに肩を落とした。いつも冷静でよく周りを見ている凪沙は、尾行なんてしたらいくら距離が空いていようが気配でバレそうな予感まであった。実際、それこそ漫画の読み過ぎではあるのだが、殊にのりかは著しく凪沙に夢を見ていた。

「あ、笑ってる……」

 のりかがふと呟く。普段あまり表情を動かさない凪沙が、ペラペラと口を動かす綱海の顔を見て珍しく口を開けて笑っていた。

「はああ……嘘みたいにかわいい……」
「へぇ、レアだな」
「いいなぁー……凪沙さん、私たちにはまだあんなに心開いてくれてないってことだよね」
「そりゃ、彼氏? と比べたら俺たちなんて遠く及ばないさ」
「そうだけど〜……はぁ、もっと仲良くなりたいなぁ〜」

 のりかのため息は、休日の喧騒に飲まれていった。



5周年フリリク/アレス軸の綱海

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