綱海と電話と野坂

 この代表キャンプにおける調理場は、とにかく洗い物が多い。二十名以上もの人間が食堂を利用している上に、たびたびバイキング形式が導入されるせいで、多種多様の料理を完成させるまでの間に鬼のように食器や調理器具が使われるからだ。ヨネの考える献立は味も彩りもよく、それでいて栄養もしっかり考えられていたが、その分手間の掛かるものも多かった。
 そんなわけでマネージャーとサポーターたちは、毎日洗い物の山に立ち向かっているわけであるが、無論彼女たちの仕事はそれだけではない。次の食事の支度はもちろん、洗濯物、掃除、買い出し、選手のサポート、その他諸々の雑用……つまるところ、圧倒的に人手が不足していた。
 だからマネージャーの一人、凪沙が今、たった一人虚無の表情で黙々と食器を洗い続けているのも、致し方がないことと言えばそうであった。しかし、だからと言って納得した心持ちで作業をこなせるはずもなく。

(バイト……バイトを雇え……そのくらいの金もないわけ……?)

 どこに対するものかもわからぬ殺意を滾らせながら、凪沙は淡々と汚れた食器を洗っていく。金雲が大胆──と言えば聞こえは良いが、つまりは振り切った強火だ、強火というのは基本的に料理に使うものではないのだ──な調理によって、こんがり焼いたフライパンが最後尾で待機していることを考えて、思わず箸を洗う手に余計な力が入った。割り箸だったら折れていたかもしれない。あのフライパンでお前の頭かち割ってやろうか。

「凪沙さん」

 そんな物騒な思考になっていると、突然穏やかな声に名前を呼ばれた。誰かが食堂に来たのも気づかないくらい、夢中になっていたらしい。
 顔を向けるとそこにいたのは野坂だった。彼は相変わらず涼やかな笑みを湛えており、苛立ちを滾らせる凪沙との温度差は激しい。
 不満を押し込めつつ何か用かと問えば「いつもお疲れ様です」とにこやかに返され、凪沙の怠そうな瞳には胡乱そうな色が加わった。
(なんなんだ……)
 気にしつつも、時間がもったいないため手は止めずに食器を洗い続ける。泡立ちが悪くなってきて、スポンジに再び洗剤を垂らした。わしゃわしゃと泡立てて、再び食器をこする。あ、この皿欠けてる。あとで捨てよう。

「……」
「……」
「……ねえ、何?」
「いいえ何も?」

 にっこりと切り返す野坂は、何故か調理場にもっとも近い席に腰を下ろし、どこか愉快そうにこちらを眺めている。──なんだ。なんなんだ一体。もしかしてこいつ、暇なのか? だったら手伝うとかないわけ? いや選手に手伝いを強要するわけじゃないけども。それにしたって、庶民の苦しむ姿を娯楽にする上流貴族かお前は?
 居心地の悪さに浸されていると、不意にハーフパンツのポケットに入れていたスマホが鳴った。メールか何かかと思ったが、一向に音がやむ気配はない。どうやら電話らしい。

「凪沙さん、鳴ってますよ」
「あー……いいのいいの。後でとるから」

 ほんの少し考えたが、中断するために一度手を綺麗にする手間が惜しくて無視を決め込むことにする。突然電話を掛けてくる人間など限られているし、もしも急用であれば切れた後にリダイヤルするだろうから、その時にまた判断すれば良い。
 と、思っていた矢先に左の太ももに違和感。何かが滑るような感触に思わず振り返れば、いつの間にかそばまで寄っていた野坂の手に、凪沙のスマホが収まっていた。──いや、は? 何? 今ポケットに手突っ込んだの? え? セクハラ? 窃盗?

「ふむ……綱海条介? 男性から電話ですね」
「ちょっ……何勝手に見てんだコラ返せ」
「はいもしもし」
「ちょっと待て」

 野坂はあろうことか、通話ボタンを押して電話に出た。思わず泡まみれの手を彼に伸ばすが、華麗に避けられて距離を取られる。手から垂れる泡が気になって、咄嗟に追いかけることもできない。

『よっ凪沙!』
「こんにちは、どうしたの?」

 スピーカーモードに切り替えていたらしく、従兄の声がこちらにまで届いた。凪沙が声を上げるよりも早く、野坂がいけしゃあしゃあと返事をする。

『あ? なんだ凪沙お前声違くねェ?』
「声変わりしちゃって」
『へ〜そういうこともあんだな』
「おいコラ」

 雑さを極めた適当な嘘に、凪沙の怒りのボルテージはますます上昇していく。せめて風邪引いたとか言わない? なんでよりにもよって声変わり? ナメてんの?
 綱海が本当にそれを信じたのかは定かでないが、これ以上野坂に好き勝手させてたまるものか。凪沙はスポンジを置いた手を水で流しながら、その場で声を張り上げた。

「条介くん! 後で掛け直すから一旦切って!」
『あ? なんだよ声戻ったのか? 残念だったなぁ』
「何でだよそこは安心しろや!」

 叫びながらパッパッと水を切ってタオルで拭く。野坂のほうに大股で近寄り、その手から己のスマホを奪い返した。必要以上に強い力で、なんなら憎しみを込めてスピーカーを切り、耳に当てる。

「もしもし? 馬鹿やってないでさっさと、」
『なァ凪沙、さっきの誰だ? まさか彼氏か?』
「は?」
「ところで凪沙さん。彼は誰なんです? 恋人ですか?」
「はァ!?」

 まるで示し合わせたかのように、綱海は電話越しに、野坂は横から同じ話題を切り出した。電話の声はもう凪沙にしか聞こえていないというのに。お前たち実はどこかで打ち合わせでもしたんじゃないの? そんなことを考えながら、両名への弁明のため口を開く。

「違、こいつは、」
『なんだなんだ凪沙、修羅場か?』
「あんたは一旦黙ってろ」
「お互い名前で呼び合っているみたいですし、やはりただの友人とは思えませんね」
「あんたも一旦黙ってろ」
『お前が誰かに電話に出させるなんて、また随分気ィ許してんだなァ。こりゃこっちにも雪が降るぜ』
「出させてないし勝手にスマホ取られただけ」
「そんな、僕は良かれと思って親切心で」
「完全に面白がってただろうがあんたは。やっぱ暇人でしょ」
『なー彼氏なら今度紹介しろよ。お前のダチは俺のダチ、お前の彼氏は俺の彼氏……えっ彼氏!?』
「馬鹿なの?」
「いつもクールな貴女がそこまで親しげにする相手がいるとは……フフ、明日人くんたちが嫉妬しそうだ」
「ないから。そういうのいいから」
『は〜にしても羨ましいぜ。凪沙の彼氏なら美味いモン作ってもらいたい放題じゃねーか』
「いやそれ妻じゃん何段飛びしてんの」
「えっ? お二人は結婚されてるんですか?」
「してるわけねーだろ!!」

 一体何なんだ? 勘弁しろこのダブルピンク。右耳も左耳もうるさくて敵わない。野坂に至っては、明らかににやけた口元を上品に手で隠している。こいつ全力で面白がってやがる、ふざけんな。
 笑いをこらえる野坂を手で押し退けながら、凪沙は綱海に吐き捨てるように問う。

「もういいからさっさと用件。今忙しいから急用じゃないなら切るよ」
『おーそうだそうだ、いや何、お前がちゃんとやれてっか気になってよ』
「……はいはい、それなりにやってるよ」
『ならいいんだけどよ』
「何が?」
『なーんか厄介事にでも巻き込まれてんじゃねーかと思って』

 声はいつもの調子と違いないが、凪沙はその勘の良さに思わず身震いさえした。一人の選手に散々引っ掻き回されていることを、彼が知っているわけがないはずなのに。

「……別に、そりゃ人数多いから多少のいざこざはあるけど、それなりにちゃんと回ってるよ」
『そうか。まっ、とにかくあんま溜め込むとそのうち爆発しちまうからな! 適度に発散しとけよ』
「はいはいあんがと。じゃあ忙しいから切るよ」
『おう! あんま張り切りすぎんなよ。じゃな!』
「ん、じゃあね」

 と言い終えたかどうかというタイミングで、向こうから通話を切られた音がした。相変わらず粗雑だが、慣れているので気にすることもない。
 どっと溜まった疲れを吐き出すように息をついていると、隣に立つ野坂が顎に手を添えているのが見えた。その状態でなにかを考えるように目を伏せる彼は、絵画のような美しさを誇っている。そのままずっと黙っていればいいのに……ジト目でそんなことを思っていると、野坂は真剣な顔で凪沙を見やった。

「……もしかして、お父さんでしたか?」
「違うわ」

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