ゴキパニック!
※無印3期軸
「きゃあああああ!!」
それは選手陣営が入浴も夕食も終え、就寝までの時間を各位自由に過ごしていた時だった。合宿施設全域を高々と響き渡る少女の悲鳴に、自室でベッドに転がっていた者は飛び起き、近くで自主練に励んでいた者は何事かと慌てて声のもとへ走る。
「春奈ーッ!!」
「何があった!?」
妹の悲鳴に、いの一番に駆けつけたのは鬼道だった。近くにいた豪炎寺もほとんど同時に現れ、個室の扉を廊下側から必死に押さえ付ける春奈の様子を尋ねる。しかし彼女は混乱しているのか、いつもエネルギーに溢れた元気な顔を青くさせ、ふるふると横に振るばかりだ。その隣では、マネージャー仲間の秋も床にへたり込みながらどうにか扉を押さえており、その顔からは同じく血の気が引いているように見える。
「何っ、どうした!?」
次に駆けてきたのは、肩にタオルを掛けた凪沙だ。濡れた毛束はヘアクリップで適当にまとめられており、そこに入り損ねた横の毛束から雫が跳ねる。ちょうど風呂上がりだったらしい。マネージャーは基本的に、夕食の後片付け等を終えてから、選手より遅い時間帯に入浴時間を設けていた。
それから風丸、円堂、基山など次々に集い、ほとんどのイナズマジャパンメンバーが集結した。そこでようやく僅かながらの落ち着きを取り戻した春奈は、大きな瞳に張った涙の膜を揺らしながら訴えた。
「で、で……!!」
「出たんですぅ……!!」
「出たって、何が……」
風丸の問いに、秋と春奈は懇願するように叫ぶ。
「ご……ゴキブリが……!!」
「出たんです〜〜〜!!」
*
「……で、とりあえず箒とちりとりと袋、持ってきたけど」
「俺は疾風ダッシュでスプレーとホイホイ買ってきた」
「便利だな疾風ダッシュ」
悲鳴の原因がゴキブリだとわかったことで、集った一同はなんだ脅かすなと胸を撫で下ろした。
大事でないならと去っていく者も少なからずいたが、あまりの女性陣の怯えように大半はその場に留まった。
「そんなにビビるもんかぁ? たかがゴキブリだろ?」
「綱海さんは分かってません!」
「あのね綱海くん! 男の子は皆平気かもしれないけど、女の子は大抵ゴキブリが苦手なものなの……!」
「わ、わりぃわりぃ……沖縄だとよくでけーのが出っからよ、喜屋武なんかは普通に掴んで逃がしたりしてたし……ホラ凪沙だってこの通り」
「どの通りだよ。私だって別に好きじゃないし」
さして取り乱した様子のない凪沙だったが、彼女自身、別段ゴキブリという害虫を好き好んでいるわけでもなかった。気持ち悪いとも思うし、対面したら相応に身構える。出来るなら始末する役など担いたくはない。
「あ、でも確かにもっとガキん頃は『にーに助けて〜!』っていっで!」
「んな呼び方したことないから」
綱海の腹に凪沙の肘が綺麗に決まった。
奥ではうっしっしと悪戯っ子の笑みを深めてポケットをまさぐる木暮を、基山がこらこらと兄のように止めている。その傍らでは、湯上がり姿の凪沙に、妙に目のやり場に困って視線を泳がせ続ける者──その名誉のために名前は伏せる──もいる。さらにその近くでは、物珍しそうに吹雪がゴキブリ退治用スプレーをまじまじと見つめていた。そんなふうに震える女子たちとの大きな温度差が生まれ始める中、頼もしくも前に出たのは円堂だった。
「ま、とにかく部屋にいるゴキブリを捕まえればいいんだろ? 俺に任せろ!」
就寝準備も終えていたのだろう、トレードマークのバンダナを着けていない円堂は、気合いを入れるように腕捲りをする。しかし秋は安堵するかと思いきや、慌てたように彼を引き止めた。
「つ、捕まえる!? そのあと逃がすってこと!? 駄目駄目駄目!」
「円堂先輩! 生存を許しちゃ駄目です! 必ず仕留めてください!!」
「えっ、えええ……」
もはや鬼気迫ったような秋と春奈に、思わずまごつく円堂。小さな蚊程度ならまだしも、それなりにサイズのある生き物を始末することは、円堂に多少の躊躇を感じさせた。
「そこらへんに逃がしたらまた出会っちゃうかもしれないでしょお〜……!!」
「わ、わかったから……じゃ、行ってくる!」
「ごめんなさい信用できません! 円堂先輩やさしいからこっそり窓から逃がしちゃいそう! お兄ちゃんと豪炎寺先輩も一緒に行ってください!」
「別に構わないが……そもそも木野はいいのか?」
「えっ? 何が?」
「……ここはお前の生活スペースだろう」
ここ、とはすなわち現在開かずの間と化している部屋のこと。ここは秋に宛がわれた個室であり、春奈はたまたまそこにお邪魔していたのだ。つまり鬼道は、プライベートな居住空間に大勢の異性を入れてもいいのか、と尋ねているらしい。
傍らで聞いていた凪沙は、さすが育ちが違うと内心感嘆していた。大雑把、あるいはガサツ、またあるいはデリカシーに欠ける男子の多い中で、鬼道の紳士性はよく際立つ。とくに隣のこの従兄と比べたら月とすっぽんだった。
「やむを得ません……散らかってて申し訳ないけど、私じゃどうにもできないから……お願いします……!」
「そ、そうか……」
秋としても、同級生の異性を用意なしに自室に入れる気まずさには、苦渋の決断をしていたようだ。鬼道も豪炎寺も似たような様子だが、対照的に円堂はさして気にすることもなく、再び先陣を切ろうとする。
「じゃっ、行ってくるぜ!」
「待ってまだ開けないで!!」
「開けた瞬間出てきてこっちに飛んできてしまうかもしれないでしょう!」
「ええええ……! じ、じゃあどうすれば……」
「私たちもっと離れてるので、サッと入って! サッと閉めてください!」
たじたじと困惑する円堂に、喝を入れるように叫びながら秋と春奈は数メートルほど離れていく。二人がサムズアップや指で丸を作ってオーケーを示すと、即席ゴキブリ退治部隊はようやく出陣した。
円堂を先頭にして、秋の自室の扉がパッと開かれる。三人は忍者の如く素早い動きで入室した。殿を務めた鬼道が後ろ手に戸を閉め、再び二つの空間は仕切られる。
それからたった二秒のことだった。
まるで光景を巻き戻したかのように、閉まったはずの扉は再び勢いよく開き、鬼道、豪炎寺、円堂と先程とは逆の順番に大慌てで出てきた。バタン!! 大きな音を立てて閉められた扉を、円堂が厳重に外から押さえつける。
「どっどうしたんですか!?」
「だ……だめだ」
「えっ?」
「俺たちでは駄目だ……!」
「華那芽、お前しかいない……!」
「は!?」
円堂、豪炎寺の主張に続いて、鬼道に突然指名された凪沙は思わず声を上げた。
「大丈夫? 急に怖じ気づいちゃったの?」
「いや、そうではない……」
吹雪の天然か煽りか分からぬ指摘に、鬼道は重々しく首を振る。その面持ちは神妙極まっており、そして何故だか、わずかに朱を帯びているようにも見えた。円堂と豪炎寺も同じように、汗をかいて動揺しているのが窺える。
「その……」
「うん?」
「床に……」
「え?」
「散らばっていてな……」
彼らの言葉に、秋と春奈は不意に顔を見合わせた。
そもそもだ。一日のマネージャー業もほとんど終え、秋と春奈は「残りは二人ほといれば十分だから」と先に凪沙、冬花を上がらせた。その後各々の部屋に戻り、春奈はせっかくだから一緒に入ろうと、入浴用の袋を準備してから秋の部屋に迎えに行ったのだ。秋の準備が終わるまで、部屋の中で待ちながら。
そして着替え等を用意した二人は、突然姿を現したゴキブリに、勢い余って手元の──しっかり口の閉じていないそれを投げ出したまま部屋から逃げ出して──
「「……あああーーーっ!!」」
秋と春奈の高い絶叫が重なった。怯えに加えて赤面涙目と、かなり可哀相な域にまで達している。円堂ら以外は首をかしげるばかりだったが、ある程度材料を持っていた凪沙は、死んだような目で静かに現況を察した。
「だっダメダメダメ! ダメですお兄ちゃんたちもう入っちゃダメ〜〜ッ!」
「ど、ど、どうしたら……もう、これは、私が……自分で……?」
「木野先輩気を確かに! 無理なものは無理でいいんです! 今日はもう私の部屋で一緒に寝ましょう!」
「でも着替えは全部部屋だし音無さんのだって残されてるわけだしそもそも閉じ込めたアレが明日になったら消えてるわけでもないしいつまでも音無さんの部屋でお世話になるわけにもいかないしこうしている間にもアレが部屋を蹂躙しているかと思うと……」
「カムバーック!! カムバック木野せんぱーい!!」
涙目の半笑いでお経のように呟く秋の肩を、春奈が必死に揺する。その様子に、凪沙はじりじりと足場を失う心地でいた。
先述の通り、凪沙自身ゴキブリが得意というわけでもない。できる限り避けたかった。自分しかいないのであれば腹を括るが、こんなにも「大丈夫そう」な男子が大勢いる中で何故よりにもよって自分が……。
しかし。目の前で青くなったり赤くなったりしながら涙を滲ませる二人の乙女、とくに部屋主の秋には、流石に強い憐憫の念を禁じ得ない。凪沙は息を吐いて、諦めたように首に手を当てた。
「わかったよもう……」
「え……?」
「私が行ってみるから、ほら一旦落ち着いた」
「──!! 凪沙ちゃん……!!」
「凪沙せんぱぁい……!!」
うるませた瞳ですがってくる二人を宥めながら、凪沙は風丸のほうを振り返る。
「そこのちりとり取って」
「スプレーのほうはいいのか?」
「命中しなかったら仕方ないし。平たいものでぶっ潰すほうが多分確実だから」
高めの殺意を感じる物言いに、風丸はわずかに口元をひきつらせながらちりとりを手渡した。「持ってて」肩のタオルをしゅるりと外して、もっとも気遣いのいらない綱海に託す。「気合い入れて仕留めろよ!」と彼に笑顔で見送られる中、凪沙はひとり扉の前に立った。辺りを見回し、秋と春奈が少し遠くにちゃんと避難していることも確認すると、いよいよ覚悟を固めて、凪沙は勢いよく戸を開けた。
ブンッ、と嫌な音。
視界いっぱいに飛び込む黒い光。
躍動的に羽ばたく翼。
見守っていた一同の呼吸が一瞬止まった。
「──、」
咄嗟に体を反らした凪沙は、かろうじて顔面直撃だけは避けられた。スローモーションのように手からちりとりが離れていく中、凪沙はそのまま後ろに力なく倒れ込んだ。
「ってコントかよ凪沙ーーッ!!!」
「さ……さすがに……さすがに……」
従妹の見たこともないような蒼白顔に綱海が駆け寄る中、廊下を暴れ回るゴキブリに、残されていたメンバーたちの絶叫が次々と飛び交う。
「ギャーーーッ!!!」
「ウワァッ!?」
「どこだ!?」
「キャアアア!!」
「そっち行ったぞ!!」
「来ないでほしいッスー!!」
「ウギャーッ!!」
「そっちだそっち!」
「早く仕留めろ!!」
押して押されて、誰かが転び、スプレーは転がり、蹴り飛ばされたちりとりが廊下を滑り、箒が宙を舞う。
てんやわんやのてんてこ舞い。上を下への大騒ぎ。もはや祭りのような騒ぎ様に、宿舎は震撼し続ける。
「おいおい、こりゃ収拾つかねーぞ……おーい凪沙〜生きてっか〜」
「死んでる……」
濡れた髪から水が浸透するのも気にせず、綱海は座り込んで凪沙の頭を膝に乗せていた。ぐったりと気分が悪そうな凪沙の、予期せぬ事態に左胸の下で暴れる心臓は、まだ落ち着きそうになかった。
「あの〜、何の騒ぎだってお父さんが──」
そのとき、不幸にも現状を把握していない無垢な声が届いた。──冬花だ。凪沙とほとんど同タイミングで大浴場を使っていた彼女だったが、髪が長いこともあり、出るタイミングが凪沙とは少しずれていた。髪が乾いているところを見るに、ちょうどドライヤーの音で例の悲鳴が聞こえていなかったのかもしれない。
そんな彼女に、秋と春奈が力の限り叫ぶ。
「冬花さん!!」
「冬花さん、逃げてーーっ!!」
「え?」
冬花はその時、自分のもとに一直線に、そして豪速球のように飛んでくるそれを、ようやく視認した。
「わっ、あっ、」
思わずまごついた冬花の足に何かが当たる。先ほどカーリングのように滑っていったちりとりだった。冬花は藤色の長髪を美しく揺らしながら、咄嗟にしゃがんでそれを手に取り──
「えい!!」
スッパァアアン! と、鋭い衝撃音。
「……」
「……あっ」
あれだけ爆発的な騒音に飲まれていた場が、一瞬にして静寂に包まれる。先ほどまで命の限り暴れ倒していたゴキブリは、床を跳ね、完全にその動きを止めていた。
斯くして某日ゴキブリの乱は、花のような可憐な少女の手により呆気なく幕を下ろした。
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