マナーとルールは似て非なる
信号が目の前で赤になった。辺りには人っ子ひとりおらず、車も見える範囲に一台もない。ささっと渡ってしまうか、真面目に待つか。数秒考えたのちに、私は結局その場に律儀に留まった。
真面目というか、一本調子で馬鹿らしいと思わないこともないけど、こういう時に限って角から巡回中のおまわりさんが突然姿を現したりするものだ。いや、そもそも一応ルールなわけだし。
あとは家に帰るだけだし、特段急ぎでもないので、ランプが変わるのを気長に待とう。そうやってぼんやり赤い光を見つめていると、視界の端でなにかグレーのものが横切った。
導かれるように視線を落とすと、そこにはコウモリの翼を生やしたジャガイモみたいな生き物が浮遊していた。なんだこの珍獣は。下等吸血鬼、だとは思うけど。
「車が通らないのをいいことに信号無視してやる〜! 赤信号、皆で渡れば怖くない!」
間を空けずに、至極教育に悪そうな文言が後ろから飛んできた。
こちらに駆けてきたのは、グレーの珍獣たちを周囲に従える、派手な髪色の男の子だった。見たところそう幼くも思えないけれど、その言動は小学生並みだ。
先ほどのジャガイモや、フィクションのエイリアンのような小さい生き物たちに囲まれながら、彼はぞろぞろと団体様で横断歩道を通行し始める。愉快げな小走りが、黒いコートの裾を踊るように揺らしていた。
別に口うるさく止めるつもりなどはない。私が気になって律儀に信号待ちしているだけだし。だけどそういう時に限って、「そういう時に限って」は発動されるものだ。
グレーの珍獣のうちの1体──思い出したが、これは恐らくグールだ。昔ばあちゃんから聞いたことがある。土と、その中の微生物の死骸から作り出した屍を自在に操れる吸血鬼がいるらしい──が、彼の後方で音もなくぺしゃりとこけた。使役者や仲間たちはそれに気づかず、そのまま横断歩道を突き進む。
その上、右方から光が差し込んだ。車のヘッドライトだ。信号は依然として赤のまま。グールの小ささと色は、夜の道路に馴染んでしまうだろう。
車とはまだまだ距離があるけど、私は小走りで横断歩道に飛び出した。もたもたと起き上がる、私の腰ほどの大きさしかないそのグールの、両脇に手を入れてひょいと掬い上げる。無抵抗のその子をぶらりと抱えたまま、軽い駆け足で真っ直ぐゴールを目指した。
「ん? あ! 俺のグール!」
向こう岸に渡りきった使役者が、駆けてきた私と取り残されたグールに気がついて声を上げた。彼の視線を浴びながら、運搬したグールをちょこんと地面に下ろす。背後を車が通る音がした。
「大丈夫?」
かがんだまま小さく声をかけると、彼(彼?)はイーッと鳴いて、使役者の足元にとてとてと戻っていった。使役者の彼は少し驚いていたようだったが、すぐに得意気な笑みを浮かべて私と相対した。
「フウン、お前もマナーを破るか」
「マナー?」
「そう、俺は吸血鬼マナー違反!」
「マナー違反」
「人間どもが敷いたマナーを破ってやるのだ! 夜は
世の中本当に、色んな人がいれば色んな吸血鬼もいるものだ。マナー違反の彼は至極楽しそうにこちらに人差し指を向けて、宣言通り背中を見せて歩き出した。2秒で2マナー違反とは、マナー違反の名を冠するだけあるなといらん感心をする。ただ……。
「信号はマナーっていうかルールだから吸血鬼ルール違反……」
と、つい思ったことをぼやいてしまった。それがただの独り言に昇華されれば良かったけれど、マナー違反の彼の耳は見事にキャッチしてしまったらしい。ぐるんと振り返って、睫毛の長いつり目をさらに三角にした。
「うるさいぞ人間め! さっき集めたひっつき虫をひっつけてやる〜!」
「ええ……こらこらやめてください」
彼の号令に合わせて私の周りに群がったグールたちが、スカートの裾にびしびしとひっつき虫をつけてくる。っていうか、そこそこいい年してひっつき虫集めてたの?
吸血鬼は外見が若い傾向にあると聞く。つまり私と同世代くらいに見えるということは、実年齢のほうも、どんなに若くても私と同世代くらいということだ。まあ、でも、何が趣味で何を楽しんでいようが人それぞれなので、私に口を出す権利などない。いや、人様にくっつけるために集めているなら、現在進行形で被害を受けている私は口を出していい気もするけど。
「あの〜あまり目立つところで騒ぐとあれ、
言いつつ、グールたちのつるりとした頭を手で押してみる。まるで言うことを聞いてくれないので、これは無駄な労力を割く前に諦めたほうが賢明ということか。
「ふんっ!
「いやあ、出し抜けに問答無用でパンチ繰り出す人とかいますし……っていうか吸対どころか一般警察にも取り締まられますよ。せめて道路以外……ほら、そこの公園とかのほうが(夜は人もいないし)活動しやすいんじゃないですか」
「言われるまでもない! すでにあそこは俺の支配下だ!」
「じゃあ領地に戻ったらどうでしょ」
「人間の言うことなど誰が聞いてやるか!」
困った人だ。こうも強情だと、私が何を言っても無駄だろう。悪事の度合いがしょぼすぎて敵性も言いがたいけど、もしも通報されたとしても仕方がない。
「……じゃ、私そろそろ帰るんで。はいどいてね〜」
周りに群がるグールの頭をつるつると撫でて、どうにかどいてくれるように促す。けれど彼ら(彼ら?)はあろうことか、小さな腕で私の足にしがみついてきた。
「意味もなく通行の邪魔してやる〜! やれやれグール共!」
「ええ……」
イーイーと鳴きながら私の動きを封じるグールたち。正直小さいし、そう重くもないから無理やり蹴り飛ばしたり振りほどくこともできそうだったけど、ギリギリ人型っぽい子たちに乱暴なことをするのも良心が痛んで、実行できそうにない。土くれとはいえ、意思を持って動いているわけだし、微妙に可愛く見えてこないこともないし。それを分かっているのか、マナー違反くんもニヤニヤと楽しげに口元を緩ませて、私の反応を窺っている。
結局マナー違反くんの気が済むまで、私はその後も十分くらい絡まれ続けた。ひっつき虫と土汚れでスカートえらいことになった。