YY してる場合じゃない
「やあお嬢さん。月の綺麗ないい夜だね」
点々とした街灯が頼りない、大学からの帰り道。背後がフラッシュを焚いたように光り、何事かと振り返った先にいたのは見知らぬ初老の男性だった。派手な黄色いスーツに、丸い装飾のついた杖が目を惹く。しゃんとした美しい佇まいと、乱れなく押さえられたブロンドの頭髪は、一見彼を紳士的に見せた。
しかし、暗い夜道を一人で歩く年若い女に、わざわざ声をかける男の人。これは十中八九不審者だ。道を聞きたいとか、私が落とし物でもしたなら真っ先にその旨を言うはず。誤解を招いてもおかしくない第一声が掛かった時点で、私は警戒心を最大まで引き上げていた。
おじさんの間合いから抜けるように数歩下がる。腰など一ミリも曲がっておらず、杖なんてまるで必要なさそうな彼は、今にもこちらに飛びかかってきそうにも見えた。
ちなみに以前、こういうことがあった時に最善手だと思って即逃走したら、相手が
「……、」
さて、ここからどうしようか。ひとまず誰かに連絡して頼る? ちょうど運良く、今私の手には時間を見るためにスマホが握られていた。
こっそりボタンを押して起動させる。その間に、少しでも彼の意識を逸らすため口を開いた。
「男性の腕まくりは色っぽい……ん?」
──あれ? 今誰がなんて言った?
おかしいな……何の用ですか、と問いかけたはずだが、まるで意図しない言葉が自分の口から飛び出した気がする。脳と舌の動きがちぐはぐな感覚。何かがおかしい。
目の前の不審者おじさんが、私の声を聞くや否や頬を染めて仰々しく口角をつり上げた。不気味なほどに享楽に浸った笑みだ。その口元から覗く牙は、暗くてわかりにくいが、やけに鋭く長く見える。
もし、私の身に不和をもたらしたこれが──催眠術の類いであるのなら、彼は能力を悪用する敵性吸血鬼だ。それを確かめるべく、私は再び口を開いた。
「照れが高じて涙が滲んだ顔はちょっといい……、……」
「ふっふっふっ。そう、君ももう我が術中。秘めし性癖を存分にぶち撒けたまえ!」
「照れ泣き顔」
確定したこれ催眠術だ。しかも話した言葉が、軒並みちょっと下世話な話にすり替えられる。最悪だ。私は決して初対面のおじさんに、突然己の性癖をアピールしたわけではないのだ。っていうか私、そういうの好きだったの? そっか……。
恐らく、先ほど後ろで派手に光ったのが能力発動の合図か何かだったのだろう。人間の言語中枢を狂わせているのか? そんな高等技術、並大抵の吸血鬼にはできないはず。長い時を生きた、熟練の吸血鬼にこそ為せるわざだ。
「────、」
振り払うように首を振って、また考える。一応こうして心の中では考えられるけど、口に出そうとすると上手くいかない。となれば、やはり筆談しかないだろう。
画面になるべく視線を寄越さないようにしてやっと開いたRINEの画面。一番上にいたロナルドさんをタップして、吸血鬼が出た旨を伝えるため画面を素早く操作する。
『男性の喉仏の』
そこまで打って全削除した駄目だこれ口頭だけじゃなく筆談もやられている。いくら気のいいロナルドさんだって突然こんなの送られたらブロックするわ。
さて困った、この窮状を、自分の言葉を伝える手段がない。──あれ、それって、今の私にとっては、ものすごく、本気で困ることでは?
「……至極くだらない理由で今にも泣きそうな顔(訳:この至極くだらない催眠今すぐに解除してください)」
「温厚そうなかんばせとは裏腹に、嗜虐心を煽られるのがお好きなのかな。いい趣味をお持ちだ」
「(訳:もう満足したでしょう?
「おやおや、この期に及んで私の心配とは実にやさしいお嬢さんだ」
時間稼ぎとして性癖大公開を続けながら、こっそりと画面のタップを数度繰り返す。彼は私の言葉を聞くたびに、厭な笑みを深めた。
「お気遣い感謝するよ。確かに
話しながら彼は意外にもあっさりと踵を返す。──吸血が目的ではないのか? てっきり、助けを呼べない状況に追い込んで襲いかかるような輩かと思っていたけれど、ただ人間にちょっかいを掛けたかっただけなの?
近寄られたって困るけれど、逃げられるのも大困りだ。私は咄嗟にスマホを鞄に滑り込ませると、地面を蹴って、走り出そうとする彼の肩に掛かった羽織の袖を掴んだ。そのまま奪い取って、数歩後退し距離を取ると、彼は足を止めて驚いたように振り返る。
「おっと……
「……」
「若い人間にしては珍しい。だが生憎、それにはそう強い執着はなくてね」
奪われた羽織を一瞥して、彼は余裕そうに薄く笑う。それから手元の杖を軽く私に向けた。
「君はなかなか積極的だね。どうやら私に帰ってほしくないようだ……なら、このまま
視線を注いでいた口元で、見せつけるように、ぐわ、と白い牙が剥かれる。直感的にこけおどしだとわかった。そもそも、一度逃げようとしたくらいだ。はなから吸血する気などなかったのだろう。
怯む様子のない私を、彼はしばらく至近距離で見つめていた。目を合わせないように、こちらからは僅かに視線をずらし続ける。敵意を持つ催眠使いの吸血鬼と、目を合わせ続けるのは愚策だ。
冷たい夜風が吹き抜け、私の髪や服の裾を揺らす。寸刻続いた均衡を破ったのは、彼の愉快そうな高笑いだった。
「うひゃはははは! いやぁ参った! 勇敢なお嬢さんだ!」
「(訳:何なんですか一体……)」
「我が催眠に掛かりながら、うろたえる様子すらほとんどないとは。だがそれならなおさら、心のままに素直に語ることの、何をそんなに嫌がるというのかな?」
「(訳:いや普通に意志疎通できなくて困るんですけど。何でこんなこと……)」
「いやぁ、秘めた性癖を暴露し慌てふためく人間の、愉快な顔を見るのが好きでね」
「変態だ……」
あれ、今度は意のままに発話できた。元より下世話な感じの発言なら、特段変換はされないということだろうか。いや、それが分かったところで素直な変態トークしかできないじゃないか。いや、私は変態じゃないはずだけど。
そうじゃなくて、とにもかくにも、私はおじさんのお遊びに付き合ってる暇などないのだ。
「(訳:これじゃあ、帰ってレポートが書けないじゃないですか)」
「……は?」
ぽかんと口を半開きにした彼は、理解が及ばないといった様子だった。そりゃあ、もっと気にするところがあるだろうと思うかもしれない。だけど私にとっては死活問題だった。明日提出するレポートが、あと一息のところで止まっているのだ。ぎりぎりまで完成させなかった自分が悪いといえばそうだけど、少しでもクオリティを高めようと粘った結果だ。なんなら褒めてほしいくらいだ。評価MAX欲しい。
それはともかく。レポートが終わらない。つまり、単位を落としかねないということ。そうなれば今期分の授業が全部パーになる上に必要単位も欠ける上にGPA平均値も下がるというトリプルパンチ。それだけは絶対に避けなければならない。
基本的に他者に掛けられた催眠術の効果は、永続的ではないという。けれど彼は、おそらく特段レベルの高い催眠術使いだ。いつまで続くか分からない以上、この不審者をここで逃すわけにはいかない。
「落胆してしょぼくれる顔は少しかわいそ可愛い(訳:もし落単したら責任とってくれるんですか)」
「……ははっ、うひゃははははっ!! 君は本当に愉快なお嬢さんだなぁ!!」
「(訳:早く術を解いてください)」
「ひゃははははは! ははははははっ!」
駄目だ、まるで聞いちゃいない。不審者はまた笑い始めたかと思えば、腹を抱えて、細い体をひたすら振るわせ続ける。もし、今タックルでも決めたら簡単に制圧できそうな気さえしてきた。ばあちゃん曰く、催眠術使いの吸血鬼は、運動能力自体はそう高くない場合が多いらしい。特に、術を悪用してすぐ逃げるようなら尚更だと。
まあ、だからといって立ち向かえと教わったわけではない。もう他の手を隠していないと断言できる道理などないのだから、安易に突撃なんてしたら、どこかの誰かの言葉を借りるなら私は晴れて愚物だ。どうにか、もう少しだけ、この場に引き留めるにはどうすれば……。
「ははははっ……あれもこれも、本当に、興味をそそられるね」
「……、」
「君は一体、なん──」
「エン君から離れたまえ!!」
「ピーーーーッ!!」
不意に、夜を切り裂くような大声が響いた。よく耳に馴染んだ声だ。不審者のその奥から、なにかがすごい勢いで飛んでくる。よく焼けたパンのような色をした豪速球は、不審者の後頭部に直撃し「ブエーーーッ!!」と彼の無様な悲鳴を引き出した後、勢い止まらず私の顔面にもクリティカルヒットした。相当久しぶりに鼻血出た。
*
あれから不審者──吸血鬼Y談おじさんは
集まった
「俺はもう効果が切れたから、心配しなくてもエンのほうもじきに治るはずだぜ」
事態が落ち着いた後、いの一番にこちらに駆けつけてくれたロナルドさんが説明してくれる。間違っても喋らないように、鼻と口元をティッシュで強く覆いながらこくこくと頷いた。
「エンが送ってくれた位置情報で、すぐ皆集まれた。ありがとな」
言葉のアウトプットができなくても、逆に言えばそれ以外ならできるということ。その抜け道に咄嗟に気づけた私はあの時、ロナルドさんにRINEで位置情報を送っていた。そこから情報が伝達され、近場にいたドラルクさんとジョンくんがY談波(嫌な名前だ、絶対当たりたくない。当たったけど)に耐え得る変な動物さんを連れて真っ先に駆けつけてくれた。彼らがY談おじさんをさらに足止めしている間に、逃げ足の早い彼を
「にしても……
「……」
「今回は催眠術以外ザコだったから良かったものの……怪我がなくて本当に良かったぜ」
まったく彼の言う通りだと思う。反論の余地もない。蛮勇は決して美徳ではないのだ。
ひたすら相槌だけで、反省や感謝を訴える。すみませんも、ご迷惑をおかけしましたも、何も伝えられないは本当に困りものだ。
ジョンくんの捨て身タックルを受けて出た鼻血が、いつの間にか止まっているのに気付き、ティッシュを顔から離す。それを丸めながら改めてロナルドさんのほうを見やると、彼は呆れているのか、自分のハットのつばを下げて目を伏せていた。
「こないだのゼンラニウムの時もよ〜……ホント……」
「……」
「あんまり心配させないでくれよ」
「……!」
改めてこちらに向けられた顔は、白い眉が困ったように下げられていた。年が近いからか、私のことをよく心配していた兄の面影と、僅かに重なる。自分のせいで誰かにこういう顔をさせるのは、心が痛んだ。
本意ではない、時間稼ぎとはいえ、一般人の分をわきまえずに、吸血鬼を深追いしたのは私だ。一般市民に怪我をさせたら、
(……やさしい人だなあ)
彼は本当にいい人だ。今日もえらい目に遭ったようだったけど、なんなら普段から散々な目に遭いまくっているようだけれど、なるべく平和で楽しい日々が彼に付きまとえばいいと……彼のやさしさの分だけ、彼にやさしさが降り注げばいいと、そう思うくらいには、とても、心根のやさしい人だった。
「……高めの襟から覗く胸鎖乳突筋が好き(訳:心配してくれてありがとうございます)」
「エッ」
「……」
脳内で恍惚の笑みを浮かべるイマジナリーY談おじさんを、私は渾身の力で殴り飛ばした。