セロリ恐怖症(要介護)
「何だこれ」
と、つい小さな独り言が口を衝いて出てしまったのも仕方がないだろう。目の前の階段には緑色の野菜、野菜、野菜……これなんだっけ。ほうれん草や小松菜にしては葉がとがっている。水菜にしては芯が太すぎるし……あ、セロリ? セロリかな? うん、多分セロリだ。
そしてそのセロリを、ヘンゼルとグレーテルよろしく階段をのぼりつつ地面に散らしている男の人。完全に不審者だ。その後ろ姿は人間っぽいけど、吸血鬼セロリ大好きとかそういう感じかもしれない。シンヨコには訳の分からない吸血鬼がたびたび出ることがあった。
ともかく、ビルを出るには彼を横切らなければならない。だけどあんな変な作業をしている人に迂闊に近づいたら、セロリで頬をぶっ叩かれるかもしれない。
「あの〜」
というわけで、先んじて上から声を掛けてみると、彼は驚いたように振り返った。年齢はロナルドさんくらいだろうか。ファッション性の高いマスクで口元を隠している。体格が良く、ラフな私服はいかにも人間らしい。
「このビルの入居者か?」
マスクのおかげで少しだけくぐもった声だった。刺々しさは感じられないが、それでも不審者の線は捨てきれない……というかその行動は限りなく不審者だったので、安易に頷くことはせず「用事で来ただけです、もう帰ります」と適当に嘘をついた。身元が割れたら危ない。ばあちゃんも嘘も方便って言ってたからな。
「あの〜、あんまり変なことしてると通報されかねないですよ」
「心配には及ばん。俺が警察だ!」
「世も末だ。あ言うてもた」
ついつるりと本音が出てしまった。セロリビンタを食らうかもしれない。しかし彼は私の様子をじっと見つめると、前を空けた上着の内側をがさごそとまさぐった。
「信用していないようだな。ならば改めて、新横浜署吸血鬼対策課ヒヨシ隊、半田桃だ」
きちんとした名乗りに加え警察手帳を見せられれば、さすがに信用するほかない。「あ、どうも」と軽く会釈をした。いやしかし、身構える気が一向に起きないな。本当に警察の人なのだろうか? 妙に納得しがたいけど、話が進まないので諦めることにする。
「それで、半田さんはなんでセロリを?」
「吸血鬼ドラルクのところに遊びに来た!」
「会話のドッジボール」
理想的なやりとりが一向にできないものの、新たな情報が開示される。なるほど、彼はドラルクさんの友人だったのか。かといって、セロリを撒く理由は一向に判然としない。セロリと言って思い当たるのはロナルドさんの苦手な食べ物だということくらいだけど、まさか、ロナルドさんを避けるためにわざわざこんなにトラップみたいに仕掛けた、なんてアホな話はないだろう。そもそも、苦手な食べ物を置いたところで相手の足止めにはならない。
「えーっと、とにかく気にせず通ってもいいんですよね」
「ああ。途中セロリが降ってくる場所もあるからな。露骨にセロリが置かれていないポイントは踏むなよ。まああの馬鹿なら自ら踏み込み引っかかるだろがな! ウハハハハ!」
前言撤回。どうやら彼は、本当に対ロナルドさん用にセロリを仕掛けているらしかった。世の中色んな人がいるものだ。
とりあえず、一応深く関わるのはよそう。半田さんの横をそっと通り抜け、彼に言われた通りセロリのないポイントは避け、緑の障害物競走を無理やり踏み越えていく。ようやく一階まで降り、ビルを脱出した。あれ、器物損壊に触れたりしないのかな。ちゃんと後で掃除してくれないようだったらドラルクさん経由で文句言おう。
*
そんなわけで買い物を終えて戻ってきたら、ビルの入り口で、
「ウェエエエエエン!!」
と、いい年した大人の人、もといロナルドさんがすごい顔で大号泣しながら立ち往生していた。ちょっと半田さん、効果てきめんじゃないですかこれ。
「こんばんは、ロナルドさん」
「!!! エンさーーーん!!」
声を掛けると、彼はまるで救世主を見つけたと言わんばかりの瞳で飛びついてきた。すがるように掴まれた腕がミシミシと悲鳴を上げあっ痛い痛い痛い力の制御が利かない魔物ですか貴方。
「ウェエエエン!! セロリ!! セロリが!! セロボアッタベシャパロバシァーーーー!!!」
「落ち着いてくださいセロリですよ。自我を持って襲い掛かってきたりしませんから」
「吸血野菜になったら自我を持って襲ってくんだよォー!!」
締められた腕ごと揺さぶられる。そんな例えがノータイムで出てくるということはさては経験者か。まさか前に聞こえてきた階下の騒ぎって……と一瞬疑ったが、余計なことになりそうだったので口には出さないでおいた。
それにしても、セロリ苦手とは聞いていたけど、ゴキブリが駄目みたいな感覚で苦手だとは思ってもみなかった。どうやら見ることすら駄目らしい。完全にネズミを前にした時のドラえもんだ。世の中本当に色んな人がいるものだ。
「ウッウッ……見えるはんいせろりまみれだしドラこうはらいんもでんわもでねーし……」
「じゃあ一緒に行きましょう。目つむってていいので」
「エーン……」
前に迷子の女の子を交番まで連れて行った時のことを思い出しながら、ロナルドさんの腕を引っ張る。彼は泣きすぎて呂律も回っていない様子だった。大丈夫? これ、敵性吸血鬼に弱点割れたら致命的じゃないですか?
邪魔なセロリはそのまま端に押しのけつつ、彼を連れてどんどんビル内へと進んでいく。歩きながらセロリを回収してもよかったけど、そのへんの片付けは仕掛けたご本人がするべきだろう。それにしても、片手はロナルドさん、片手は買い物袋で塞がっているから妙に歩きづらかった。頑張れ私、ファイト。
「おえええにおいが……においが……はながえしする……」
「大丈夫、セロリの匂いで壊死する鼻は鼻じゃありませんよ」
泣き震えた声に適当に返しながら、露骨にセロリが置かれていないスペースを避け、さらに階段を上っていく。──と、ロナルドさんの靴がセロリに当たったらしい。彼の体が大きく跳ねた。
「ウオェエアアアア!!」
「あっ駄目ですそこ!」
反射的に叫んだが、一歩遅かった。きゅうりを前にした猫のようにとび跳ねた彼の足が、狙ったようにトラップゾーンへ。そこからなにか上手いこと罠が発動し、上から黄緑の液体がどばりと降ってきた。
「あ」
「ア゛ーーーッッ!!」
私が反応できないでいるうちに、体に衝撃。次いで熱を感じる。顔が何かに埋もれ、目の前は真っ暗。後頭部と背中に回されているものが彼の手だと気が付く。そうしてようやく、ロナルドさんに前からすっぽりと抱きかかえられていると気づいた時には、彼は頭から液体をかぶってびしょ濡れになっていた。
「わ……す、すみません」
「ア……ウン……」
「庇ってくれてありがとうございます」
「ウン……」
無理やり顔の向きを変えて声を掛けるが、小さくかすれた返事しか返ってこない。もはや屍に近く、私を抱きしめたまま力が尽きかけているようにも見えた。これはまずい。絵面的にもまずいけど、このままいくと彼の体重に現在必死で抵抗している私の腰が死を迎えるいや本当にこれはまずい人生初のぎっくり腰とやらになりそう。
「ろ、ロナルドさん、ロナルドさん」
せかすように彼の背中をぽんぽんと叩くと、彼はゆっくり私から手を離した。体に掛かっていた負荷がなくなり、ふうと息をつく。強い野菜の匂いが鼻をついた。多分、セロリの汁だったのだろう。
彼のおかげで私は一滴も濡れることはなかったけれど、ロナルドさんは泣きながら軽く白目をむきかけていた。こんなに苦手なのに、咄嗟に庇ってくれるなんて、本当にヒーロー性の強い親切な人だと思う。今度お礼をしよう。
フラフラのロナルドさんを再び引っ張りながら、再び歩き出す。しがみつく力が先ほどより増していた。──昔、文化祭のお化け屋敷に友人と入った時、友人が全身全霊の力でしがみついてきたことを思い出す。なんなら全体重を掛ける勢いだったから、必死でゴールまで引きずった結果、その日の内に筋肉痛が出た。あれと同じ感覚だった。いつの間にこのビルはお化け屋敷と同義になってしまったというのだ。いや、アトラクションといえばその通りだけど。
「よーしよしよしほら、もうセロリロード抜けますからね〜」
「ウェエエエン……」
買い物袋をかけた腕を無理やり持ち上げて、こちらにしがみつく腕をぽんぽんとあやすように叩く。やっと目的の階までたどり着いた。まだ転々と落ちているセロリを避けていき、ようやく事務所の扉を開けると、なんだか聞いたことのある話し声が聞こえてきた。一方はもちろんドラルクさんで、もう一方は──
「しかし、なぜ下等吸血鬼がそんなところにいたのだろう」
「俺が持ち込んだからだ」
「犯人!!」
「ロナルドだけ閉じ込める計画だったがしくじった……が! 結果オーライ! 何も知らずにハイレグで礼を言うヤツは傑作だったぞ!」
ハイレグってなんの話だろうと考えるより早く、事務所内へ駆け出したロナルドさんのグーが炸裂した。派手な音を立てて窓ガラスをぶち破り、先ほど出会ったセロリ公爵・半田さんが彼方へと飛んでいったのを、私はただただ玄関先から見つめていた。