睡は催よりも強し


「……ねむ」

 とにかくその日は眠かった。先日の夜更かしが祟ってか、目蓋が鉛のように重く、思考もぼやぼやとしていた。夜になるとますます体は重くなり、けれどそういう日に限って講義後にバイトを入れていたりする。だから本当なら、バイト先から家までこのまま真っ直ぐ帰りたいところだった。
 だが、鞄に入っている教科書とは別の一冊の本。以前サテツさんに借りたこれを、昨夜読了し、彼に面白かったと感想を送り、そのまま勢いで「明日ギルドまで返しに行きますね」と伝えてしまったのだ。彼はまた後日でいいよと言ってくれるだろうけれど、その親切心につけこんで約束を守らないのはどうにも気が引けてならなかった。というか、自分から言っておいてやっぱりやめますというのは普通にちょっと格好悪いし心証もよくない。
 目をぎゅっとつむって開いてを繰り返しながら、なんとか足を動かす。眠い。疲れた。頭が働かない。座った瞬間寝そうだ。
 そうこうして、ギルドの前までようやくたどり着いたところで、何やら人だかりが見えた。その中で一等目立っているのは、派手な色の服を着た、背中に大きな旗を背負っている人。目を凝らして見てみると、そこには力強く「野球拳大好き」と綴られていた。紛うことなき、変な人だった。

「……あれ」

 よく見れば、周りの男の人たちは皆、見覚えある退治人ハンターの人たちだった。ロナルドさんに、ショットさん、メドキさん……それからドラルクさんも。一様にきついピンク色のシャツに身を包んで、まるで部屋着みたいだったから一瞬誰だかわからなかった。
 そしてその中にはサテツさんもいた。珍しく髪を下ろしていて、少し新鮮だ。なんのパフォーマンス中かわからないけれど、声をかけても大丈夫だろうか。そろりと近づいてこんばんは、と声を出そうとしたところで、

「エン!? 来たら駄目だ!!」
「──アウト、セーフ、」

 私にいち早く気づいたロナルドさんが叫んだのと、ほぼ同時。旗のお兄さんが拳を握って、ゆらりとこちらを振り返った。派手なピンクの和服はジャンケン柄がプリントされていて、図らずも目を奪われる。そんなんどこで売ってたんだろう。ドンキかな。

「よよいのよォーい!!」
「え」

 彼の目の下から顎、首まで覆い隠す口布から、喝を入れるような力強い雄叫びが飛び出した。それを聞いた途端、どういうわけか私の利き手が勝手に動いた。正面に掲げられたその手のひらは開かれていて、向こうのお兄さんは大きな手で作ったピースサインをこちらに差し出している。
 つい、つられたとかいう範疇じゃない。約二十年の人生経験が告げる。──これは、催眠術だ。
 そう気づいた時には、私は羽織っていたカーディガンをするりと脱ぎ出していた。あれ? マジで? なんで?

「エン! そいつは文化保存だなんだ言って人々に無差別強制野球拳を仕掛ける吸血鬼野球拳大好きだ!!」
「なんとつまびらかな説明」

 部屋着スタイル──よく見たら、そちらのTシャツにも「野球拳大好き」とプリントされていた──のロナルドさんが、少し離れた位置から空気を叩く。否、薄くも視ることのできる"壁"が、気づけば私と野球拳の彼を囲うように作られていた。どんくさいことに、すっかり寝惚けていた私の頭は、ようやくそこで結界らしきものに閉じ込められてしまったのだと気がついた。

「チクショーてめえエンを解放しやがれ!」
「そいつは退治人ハンターでもねーんだぞ!」
「ここを開けろーー!!」
「ふはははは! んなこと知るかよよいのよォい!」

 お兄さんの祭りに浮かれたような掛け声に合わせて、また勝手に己の手が動き出す。私はグー。彼はパー。私の負けだ。
 一体何なんだ。近頃、敵性の高等吸血鬼バンパイアロードの出没がやけに多い気がする。傷害事件にも掛からないあたり敵性っつーかなんつーかという感じだけど。それでも、軒並み厄介で変な吸血鬼ばかりだから、妙に対立してばかりだ。眠気揺蕩う頭でそんなことを考えながら、私は右耳に手を伸ばして、お気に入りのイヤリングをゆっくりと外していく。

「イヤリング!? イヤリングも着衣カウントでいいのあれ!?」
「一ミリでも肌を隠すなら着衣ですよね」
「泰然自若なお嬢さんだな。その程度のハンデはくれてやろう!」

 外野のどっちの味方をしているのかもわからないツッコミにいけしゃあしゃあと返せば、意外にも野球拳の彼はあっさりオッケーをくれた。手のひらにも隠せる小さな着衣をこれまたゆっくりと鞄の内ポケットにしまいながら、ノリノリの彼に向かって再び口を開く。

「あの〜、乗り気じゃない人を無理やり参加させたら逆に嫌われたりして、保存どころか文化破壊の推進になっちゃうのでは」
「案ずるな。共に最後まで野球拳を楽しめば、お嬢さんも野球拳の虜に」
「ならんわ。虜になった人が過去にいたんですか?」
「ニッポンジン皆シャイ」
「いないんじゃないですか。っていうか貴方もジャパニーズ吸血鬼の様相して」

 とかなんとか説得も失敗したうちにまた負けた。これで三連敗。もう片方のイヤリングも外してしまった。次に負けたら、今度こそ服を脱いでいかなければならない。ただでさえ睡魔と戦っているのに、吸血鬼とも相対する羽目になるなんて予定外だ。

「エン! 前に教えたろ! こういう時は手を口に突っ込んでなぁ……」
「熊に遭った時の対処法じゃないですかマリアさんそれ」
「よよい!」
「でまた負けるし」

 この人、やけにジャンケンが強い。同じ手を固定で出してるわけでもないのに、どうしてこうも負けが続くのか。
 ロナルドさんたちが、明らかにこの吸血鬼が用意したであろうTシャツを着ているのは、恐らく彼らが敗北を喫した後の処遇なのだろう。それを見れば、野球拳の彼が今のところ無敗なのがよく分かった。もし、彼が必ず勝つような催眠術なのだとしたら、こちらに勝ち目などない。
 いよいよ体が服に手を掛け出ようと動き出す。仕方なく、見た目的被害の少ない靴から脱いでいくことにした。どこから脱ぐかが本人に委ねられるかどうかは、イヤリングチャレンジで検証済みだ。うわ足の裏冷た痛った。
 しかしこのまま負け続ければ、公衆の面前であられもない姿を晒してしまうことになるのは必至だ。そんなことになったらさすがに引っ越しを考える。それは駄目だ。私は何としてもこの町にとどまりたい。
 さて、どうしようか。真面目に考えよう。こういう時は……えーと……そうだ。
 ぬるい頭の中で、おぼろげな記憶を辿っていく。ああ、そうそう、この手の催眠術なら……、

「……羊がいっぴーき」
「は?」

 野球拳の彼の素っ頓狂な声を聞きながら、その場にしゃがんで最初に脱いだカーディガンを畳み直す。それを枕にして、私は恥も外聞もなく堂々と路上に横たわった。地面と触れた部分が冷たいし硬くて痛い。タイツ破れるかもしれない。
 周囲のどよめきが聞こえてくる中、目を瞑って羊を数え続ける。非常識の鬼みたいな行動で私の株が下がらないか心配だけど、このまま脱ぎ続ける羽目になるよりはマシだ。そもそも緊急事態なので多目に見てほしい。後できっと退治人ハンターの誰かが回収してくれることだろうと信じて。

「羊がごひーき、羊がろっぴーき……」
「よよいのよい!!」

 寝ながらにして、また自動的に手が動く。そしてやはり負けたらしい。もう目蓋を閉じているから勝敗結果は見れなかったけど、手が脳の指令を無視して勝手に動き出したからそういうことだろう。
 己の意思に関わらず、私は胎児のように体を丸めてタイツを脱いでいく。スカートが変に捲れないように注意しながら、ゆっくりと、時間を稼ぎつつ。野球拳の彼の「ウヒョーー!!」みたいな声とか、退治人ハンターの皆が呼ぶ声が聞こえてきたが反応する気力はない。

「羊がじゅうろーく、羊がじゅうしーち……」

 晒された生足が夜風に当たって寒い、ような気がする。だけど結界に遮られて大丈夫な気もする。よく分からない。
 元より眠気に苛まれていた体。だんだんと意識が混濁してきた。もう一度目蓋を開ける気も起きない。

「よよォい!!」
「羊がにじゅうさーん……羊がにじゅうよーん……」

 眠気が全身に浸透していく感覚。スカートに巻き付けてある細いベルトを、手探りだけで外していく。寝転がっているせいで体重が掛かって抜き取りにくく、また時間が掛かる。動作に緩慢さが増す。

「よ……よよいのよォい!!」
「ひつじが……さんじゅ……」

 両手が、スカートにインしているブラウスの腹辺りに掛かる。だが上手く力が入らない。
 まったく。どうしてこうも……、ああ、駄目だ、眠い。思考が回らない。喧騒が遠退く。誰かがずっと、何かを叫んでいる気がしたが、少し前から全然聞き取ることができなくなっていた。
 私の意識は、夜に落ちた。











『今日ねー、ともだちに吸血鬼が好きなんてヘンって言われたの』
『あらあ、そうなの?』

 その報告に、老婆は眉を少しだけしかめて聞き返した。縁側に座るエンはいじけたように、地につかない両足をぶらぶらと動かす。

『「ありえない!」「なんのためのきゅーたいハンターだ!」「血すわれちゃってもいいの!?」「あぶないよ!」「キケンシソー!」』
『予想以上にボロクソだわ』
『みんな吸血鬼こわいしきらいだって。そりゃわたしだって、デカイカはおそってくるからヤだし、きゅーたいとかハンターがたたかってるわるい吸血鬼もこわいけどさー……』

 少し言い淀んだエンは、きょろりと辺りを見回して、その場に老婆しかいないことを確認してから再び口を開く。

『ちっちゃくていいこな吸血鬼もいるしー、わたしのことたすけてくれる吸血鬼だっているし、おしゃべりするの楽しい吸血鬼もいるのに』
『うんうん、そうよねえ』
『このへんにはいないけどー、人間となかよくくらしてる吸血鬼だっているんでしょ?』
『そうね、人間社会に生きる吸血鬼もいるわねえ』
『わたしさー、人間も吸血鬼も好きなんだとおもう』
『あら、それじゃあ私たちお揃いねえ』
『やったー!』

 歯を見せて笑う老婆に、エンもまた下目蓋を持ち上げてあどけなく笑った。

『こわい吸血鬼だけ見て、吸血鬼きらい! って言っちゃったらさ、吸血鬼さみしいよ』
『……そうねえ』

 一瞬言葉を遅らせた老婆は、それから皺のある手でエンのまるい頭を撫でる。エンは嬉しそうに、大きな目を細めていた。

『見極めが難しいのよねぇ。人間を本当に危ない目に遭わせる吸血鬼もいるから、迂闊に近寄るのも危険。だけど、いたずらっ子でただ人間にちょっかい掛けただけっていう吸血鬼もいるし』
『吸血鬼ぶきようなんだね。あそびたいならあそぼ! って言ってくれれば、そしたらわたしだっていっぱいあそびたいのになあ』
『うふふ、本当にねぇ』

 エンはぐっと首を反らして、空を見上げた。まだらに雲が浮かぶ明るい天は、突き抜けるように青く、吸血鬼という大枠とは相容れることのない。しかしこの美しい空が、決して吸血鬼と人間を断絶するものではないのだと、エンは幼いながらに考えていた。











 宵の町をゆっくりと歩く男が二人。方や頭から足元まで、夜に溶けそうな漆黒に包まれている。彼の腕には、焼きたてのパンのような色合いをした、丸い獣が大事そうに抱えられていた。
 方や闇夜に負けぬ銀の頭髪に、よく目を惹く赤いハットを乗せている。そしてその背には、彼よりひと回りもふた回りも華奢な女が、力なくしなだれていた。スカートから伸びる白い足を支える手には、女物の鞄も掛けられている。そこから僅かに見えるタイツが畳まれもしていないのは、ある種の配慮でもあった。

「ったく……よくあの流れで眠れたもんだぜ」
「履歴書に書けそうな特技だったね」
「つーかよ、催眠術って意識なかったら作用しないもんなのか?」
「フム、術の発動条件や術者の素質でも左右されるだろうだが……あるいは、」

 黒衣の男、ドラルクの瞳が銀髪の男、ロナルドの後ろを見た。ロナルドもまた自身がおぶっている女の存在を確かめるように、今一度力を入れて背負い直す。よく鍛えられた彼の体躯には、ほんの些細な荷物と感じる程度の軽さだった。
 背面や、両足を抱える手に伝わる、自分の体の何処ともまるで違うやわらかさをなんとかやり過ごしながら──背負った直後にさんざんドラルクにからかわれて、容赦なく蹴り飛ばしたばかりだった──ふと、彼女のことを考えてみる。
 退治人ハンターではないのに、吸血鬼との縁をよく引きつけるような奴だった。敵意のない吸血鬼が困っていたら、自分の身を削らない範囲で手を貸すような奴だった。高等吸血鬼バンパイアロードにも、まるで臆することなく立ち向かう奴だった。それが、いつか、彼女の身を滅ぼしかねないのではないだろうかと、ロナルドはいつでもどこか心配していた。
 妹と同じような年頃で、淡々としたところは少しだけ似てもいた。だからかもしれない。彼女がビルに入ってくる時、彼女の兄に凄まれながら妹をよろしくと頼まれた、その義務感と恐怖もあるだろう。
 ただ、何よりその、彼女の吸血鬼との関わりにおける危うさが、ロナルドはいつだって気掛かりだった。

「……んあ、」

 と、間抜けな声が真後ろから滑り込んできた。ロナルドは僅かに振り返る素振りだけ見せて、意識が浮上したらしい彼女に「お、起きたか」と語り掛けた。

「……ろなるろさん」
「おや、お目覚めかなのび太君」
「……おは、ざいますドラちゃん」
「誰がドラちゃんだ。いやドラちゃんだけども」
「ヌー」

 ドラルクの鋭いツッコミを受けてだんだんと頭が冴えてきたようで、エンは二、三度瞬きをしてから、場を把握するように左右に視線を流した。

「……あの吸血鬼は」
「マリアがボコボコにしたよ。そのまま後対応もしてる」

 吸血鬼野球拳大好きに最後に狙われたマリアは、「結界の外からは手出しできない」「なら結界内の人間が術者をボコボコにすればいい」という穴に気がつき、文字通り野球拳大好きをボコボコにした。真面目に野球拳やっていた俺たちはなんだったんだと、野球拳大好きTシャツを着る羽目になった男たちが心をひとつにした瞬間だった。

「ああ……すんませんロナルドさん、じぶんで歩くんで、もうだいじょぶです」
「いやいいよ、なんか下ろした瞬間倒れそうだし。ビルまでもう少しだし」
「……じゃあ、お願いします」

 ロナルドの首に回された腕が、少しだけきゅっと力を入れ直される。ずっと昔、妹をおんぶして歩いた帰り道と、わずかに感覚が重なり、ロナルドはほんの一瞬だけ、白く長い睫毛を静かに伏せた。

「……にしても、近頃はた迷惑な吸血鬼バカが多すぎやしねえか?」

 その目が開かれると同時に、また話が転じる。
 吸血鬼の多くは、皆とても享楽的だ。愉快なことに目がなくて、楽しいことが大好きで、暇や退屈が嫌い。野球拳大好きしかり、先日のY談おじさんしかり。こうして名前を並べるとバカになりそうだとロナルドは顔をしかめる。

「ウム。面白い案件ばかりで飽きないねぇ」
「いやそれもこれもテメーが来てからなんだよ!」
「ウワーッ!」

 ロナルドはドラルクに噛みつくように叫んだが、エンを背負っているためか珍しく手も足も出さなかった。思わずジョンを盾にしてガードしたドラルクも、拍子抜けしたようにぱちぱちと何度か薄い目蓋を合わせた。
 先に歩を再開したロナルドに、ドラルクも小走りで並ぶ。
 わずかな間が空いて。
 それからゆったり、口を開いたのはエンだった。

「人間と、遊びたかったんですかねえ」
「……いや……人間で遊ぶの間違いだろ」

 どこか引いたように声をつまらせたロナルドに、エンの喉からふ、ふ、と空気が漏れる。その目がどこか楽しそうに細められているのを、ドラルクだけが見ていた。

「エン……なんか毒される夢でも見た?」
「いやあ、忘れました」







「あっ本返してない」

 家に帰ったエンは、一人呟いた。