黒片は空を舞う
行きたい場所には、子どもの頃になるべく行っておいたほうがいい理由はいくつかある。
一つは、子どもの頃はたくさん時間があるから。いや、子どもも子どもなりに色々大変ではあったけれど、やっぱり学校から帰ってから友達と遊んで、なお健全な時間に家に帰れるというのは、自由な時間が多いことの証明だった。
それから、感受性豊かな子どもの頃に色々経験しておくと、たぶん後の人生に少なからず生きる。いや、知らないけど。そしてまあそのへんの難しい話もいいんだけど。
本命として三つ目、子ども時代はとにかくなんでもかんでも料金が安かった。映画なんて高校生で千円だったのに、大学生になったら急に1.5倍になる。大人はもはや二千円近い。酷い話だ。卒業して社会に出る気がますます失せてしまう。一生学割使いたい。
私は一人で映画を観に来るのが結構好きだ。全部自分のペースだから気楽だし、とにかく話にだけ没頭できる。感想をすぐに共有できる相手はいないけど、そもそも映画館近くで感想を言うのは憚られるわけだから、さしたる問題でもない。
映画の余韻に浸りながら、少し寂れた劇場の出口を潜る。もう一本遅ければレイトショー料金だったけど、あまり遅い時間に見るのも明日に支障を来すからやめた。
今日観たのは、N年前からタイムスリップしてきた、若い男性の吸血鬼を主人公に据えたコメディものだった。個人的に印象に残っているのは、黒マントすらない世代の彼が、現代の種々様々な衣装を試着室でガンガン試して色んな反応を見せるシーン。ありとあらゆる老若男女の衣服から、果てはコスプレまで心行くまで一人で楽しんでいた。途中で店が敵性吸血鬼に襲われて、腕に覚えのある主人公は際どいレディースビキニを着たまま試着室を飛び出し……。
そんなことを思い出していたからだろうか。なにか前方の空で風に吹かれている黒いものが、ビキニに見えたのだ。いや、さすがに往来をビキニが舞うとかわけがわからない。破れた紙切れとか、何かそういう類いのゴミだろう。……いやしかし、やはりあの小さな三角形と細い紐で構成されたフォルムはビキニのトップスに見える。
その黒い何かは、右へ左へヒラヒラ宙を泳ぐと、まるで導かれるように──あるいは私が吸い寄せたかのように、こちらの手元に飛んできた。
「っと……」
顔にヒットしないように腕でガードすると、ひらりと上手いこと引っ掛かってしまった。それを改めて視認すると──ビキニ。まごうことなきビキニだった。しかも、なんか思っていたより布面積が猫の額レベルに小さい。たぶん、マイクロビキニというやつ。
これが物によっては、交番に預けに行っていたかもしれない。しかし、ビキニ。とてもじゃないが渡したビキニと引き換えにお縄を頂戴しそうだ。これは見なかったことにして、そっと道の端にでも置いておくべきだ。そう判断し、傍らのガードレールに引っかけようとしたところで、
「エーン!!」
「ん……?」
ここから少し先の路傍、露出過多の男性が両腕で胸を隠しながら泣いているのに気がついた。え? 何? 不審者?
よく見ると露出過多というか、もう上半身は裸だ。下は辛うじてパンツを履いているようだけど……というかあの際どい面積と黒色、もしかしてこのビキニと対になっているのではないだろうか? え、じゃあこれ、あの人のもの?
仮にそうだとして、一体何をどうしたら身に付けていたビキニが飛ぶんだ。もっとちゃんと着ておいてくださいよ。しかもこれ、紐を結ぶタイプじゃなくて伸縮性があるタイプだ。要するに、ほどけるとかそういうのじゃない。ますますわけが分からん。どうしたらこれが風で飛ばされるんだ? 怪奇現象?
もしかしたら一般人じゃなくて、映画の撮影か何かだろうか……だけど、それにしてはここらの規制もなければ、カメラの姿も見えない。じゃあやっぱり普通に衣類を吹っ飛ばされた善良な市民ということか……えっ善良? 善良なのか?
(うーん……)
さて、これどうしよう。
これが例えばTシャツだったら。例えば相手が小さい子だったら。あるいは、辛うじて届けに行ったかもしれない。だけど相手はどう見ても成人男性。しかもかなり鍛えられていて、私なんか一捻りで殺してしまいそうな強そうな人だ。泣いてるけど。もしも不審者だったら私が危ない。危険を冒してまでそんなことをする義理はなかった。
だけど、メソメソしている人を放っておくのもどうなのか? いや、推定不審者といえばそうだけど……もしかしたらそれこそ、彼は善良な一市民で、敵性吸血鬼の仕業で大変なことになっているだけかもしれない。この魔都新横浜では、そんなわけのわからぬ可能性を拭い切れないのが切ないところだ。
(いや〜でもな〜……)
今私の手元にあるこのビキニが飛ばされる前は、隠すべきところは隠れていたわけだし、ここが海やプールだったらまあ問題はない。別に、女性ものを男性が着ていたって法に触れることはない。ただの一個人のファッションに過ぎない。
だが、そもそも世の中にはTPOというものがある。そんな姿で歩いててよく職質受けなかったな……それとも受けたのかな……。とにかく、なかなか風変わりな人ということには違いないし、もしかしたら彼自身が吸血鬼で、あれは親切心を起こした人間をおびき寄せるための罠かもしれない。怪しい人に近づいちゃいけませんはこの世の常套句だ。
物怖じしないことと無策は別物だ。不用意に首を突っ込むべきではない。だけど私に向かってこいつが飛んできた以上、私には関係ないと突き放して去ることもしがたくなってしまったのも事実。そのまま帰ったら絶対あとでモヤりそうだ。
(……よし、そっと投げつけるか)
幸いにも、このビキニは伸縮性が高い。要するに、スリングショット形式で引っ張って遠くに飛ばすことも可能なのではないだろうか、ということだ。これなら彼に直接話しかけることもなく、遠くから手元のこれを帰るべき場所に帰らせることができる。
往来でビキニを飛ばそうとする女。もう完全に不審者だが、不審者みたいな人がそこそこ蔓延るこの町ならギリギリ許容範囲だろう。なんて町だ。
平然を装って少しだけ道を進む。それからどこかの店の角にさっと身を潜ませた。ちらりと顔を出して周囲の様子を伺う。そう人通りも多くない。今ならいけるだろう。
利き手でビキニの背中に接する紐を摘まみ、前に出した反対の指先に両肩紐を引っかけて伸ばす。そのままギリギリまで溜めてから、ぱっと利き手のほうを手放した。
鋭く飛んでいったビキニは、そのままメソメソしている例の人の元へ。空中でぐんぐん減速してしまったものの、上手いこと彼のすぐ近くに落ちてくれた。よし、任務完了。お疲れ私。解散。
「!! ま、待て、そこの貴様──」
低いテノールがなにかを紡いでいたが、私は早々に角に引っ込んで逃走したため、聞き取ることはできなかった。
*
「そこの人間」
再会の日はあっさり訪れた。
今、私の目の前に立つのは例のマイクロビキニの男性。間違えようもない。だって今もまさにビキニなんだもの。帽子やマスクで素顔は窺えないけど、こんなファッション早々他人と被るまい。今日は飛ばされてないんですね、良かったですね。
大学からの帰り道、日の落ちた道を一人歩いていたら重厚な低音に呼び止められて、妙な予感を覚えつつも振り返ったらこれだ。改めて至近距離で見ると、体の九割がた露出していて本当に目のやり場に困る。いや、ゼンラニウムさんよかマシだけど、人を人間呼ばわりしている時点で、警戒しないわけにはいかない。
「その様子だと、私のことを忘れてはいないらしいな」
その口振りだと、彼もまた、私があの日のビキニスリングショット奴であると確信しているらしい。そりゃ、忘れたくても忘れられませんて。そう心の中だけで返す。下手に刺激をするのはよくない。
それにしても、まさかあの状況で顔を見られていたのだろうか。いや、せいぜい後ろ姿程度だと思ったけど……よく私だと分かったな。
「……私のこと捜してたんですか?」
「フン、この私がたかだか一人の人間に執着するものか」
じゃあなんで話し掛けてきたんですか。とはやはり言わずに黙っておく。彼は黒いマスカレードマスクを着けた目元を、格好つけるように指先でなぞって妖しく笑った。
「人間風情も私の役に立つとはな。さあ、先日のビキニの礼に、貴様も我がしもべにしてやろう!」
「いえ結構です」
やっぱり不審者だった。今日日しもべはないでしょっていうか恩を仇で返すのお手本みたいなこと言わないでください。
私の答えを予見していたようで、彼は余裕を崩さないままこちらに一歩二歩と近づいてくる。まいったな、安易に背中は見せられないし、かといってあまり丁寧に受け答えをして甘く見られても困るし……。
「案ずるな、貴様もこれを着れば自ずとマイクロビキニの素晴らしさに気づくことだろう」
「野球拳の人みたいなこと言っとる……」
「なっ!?」
「え?」
「わっ、私をあの愚兄と一緒にするな! 貴様、私のことはすでに調査済みということか!? まさか
以前出会った吸血鬼のことをつい口走った途端、思いもよらぬ反応が返ってきた。愚兄? お兄さん? この人、あの吸血鬼野球拳大好きと兄弟っていうこと? 確かに、変に顔を隠した不審者装備もお揃いだし、謎に自信たっぷりなところもそっくりだ。いや、こないだはビキニを失って号泣していたわけだけれど。あと、もうぶっちゃけ変態なところとか。
というか、それならこの人も十中八九吸血鬼ということ? 吸血鬼マイクロビキニとかそういう? そんなバカな……。
「あの下賎な男と同列扱いするとは、我が崇高なる活動を愚弄する気か!」
「趣味は人それぞれですけど……他人に強制するあたり同じですよ」
「貴様……! 私とあの愚兄のどこが同じだというのだ! その目は飾りか! 節穴か!」
「いやあ、見た目も中身も似てるし……」
ぽつりと呟くと、焦ったように否定していた彼は突然ぴたりと静止した。ガタイの良い彼が凄むのはそれなりに迫力があったが、途端にその圧が消え失せる。マスクの下で切れ長の目を見開いている姿は、どこか呆然としているようにも見えた。
「……
「え? まあ……」
「……」
不自然に黙り込む彼。何かを考えているようだった。ハットの影が落ちて、表情はいまいち窺えない。
彼は手袋を嵌めた手でつばを少し下げると、あれだけ強情だったのにあっさりと私に背中を見せた。露出面積が一気に増えた。背格好ほぼ紐じゃないですか、夏とはいえ夜は風邪引かない?
「……今宵は身を引くとしよう。いずれ、我がビキニを中心に据えた新世界へといざなわれる日を、楽しみにしておくのだな」
よく分からない野望を言い残して、静かに去っていく後ろ姿に、私は到底掛ける言葉など見つからなかった。なんだったんだ、あの人。